「マセマティック放浪記」 2000年8月23日
Mathematics Odyssey August 23, 2000
カヤノ平とブナ林

  混牧林事業組合長の東城厚さんに戴いた資料によると、南北にのびる奥志賀高原のなかほどにあるカヤノ平は海抜千四〇〇メートルから千七〇〇メートルの高度をもち、夏場の最高気温は二十八度、真冬の最低気温はマイナス十七度、七月から八月の平均気温は十五度前後であるらしい。厳冬期の積雪は平均三・五メートルに及ぶという。輝石安山岩質の土と森林褐色土とが入り混じった土壌で、現在ではチシマザサ(根曲竹)、チマキザサ(クマイザサ、シナノザサともいう)などがその植生の大半を占めている。正確に言うと、カヤノ平とは、南東の高標山(一八四七メートル)、北西の木島山(一五七二メートル)、八剣山(一六七六メートル)、さらに北東の台倉山(一八五三メートル)、遠見山(一八五二メートル)に囲まれた一帯の高原のことである。
  高標山の山頂に近い開けた台地の一角にかつてカヤの大木があったため、いつしかカヤノ平と呼ばれるようになったらしい。しかし、かつてこのカヤノ平に生い茂っていたのはカヤではなく、ほかならぬブナであった。昭和初期以前のカヤノ平には全域にわたって平均樹齢二百年を超すブナ林が鬱蒼と茂っていた。ブナ林の保水力と清浄作用のおかげで豪雨時にも渓流の水は濁ることがなく、真夏でも身を切るような冷たい水が絶え間なく流れて雑魚川流域を潤し、その地域に棲息する数々の動植物の生命をしっかりと支えていたという。当時この一帯を訪れるのは、春から秋にかけて清流に棲む岩魚を釣りにやってくるプロの漁師くらいのものだったようだ。
  当時のカヤノ平一帯は林学の用語で極盛相(クライマックス・ステージ)と呼ばれる最盛繁茂期のブナ林によって覆われていたのだろうが、その頃まではカヤノ平にかぎらず、中部地方から北陸、東北地方の山岳地帯のいたるところに極盛相のブナ林が存在していたようである。ところが、それから数十年を経た現在、極盛相のブナの自然林が残されているのは、世界自然遺産の指定を受けた白神山地(秋田青森両県境の山岳地帯)のような国内のごくかぎられた地域にすぎない。国内から天然ブナ林がほとんど姿を消してしまったのにはむろんそれなりの理由があった。
  ブナという字は漢字で「?」と書く。「木」と「無」の二文字を組み合わせてつくった文字だから、少々うがった見方をすれば「木ではない」とか「役に立たない木」という意味に解せないこともない。古来、樹種樹量ともに豊かな森林に恵まれ、高度な木の文化を築き上げてきた我が国ではあるが、昔ならどこにでもあったブナの木は、長い間利用価値のない樹木として軽視ないしは邪魔者扱いされてきた。「堅い」、「よじれやすい」、「変形しやすい」、「腐れやすい」、「木地が白い」などの理由で、建材や加工用材をはじめとする実用木としての評価はきわめて低かったからである。また、そのことが逆に幸いして一時期まであちこちに手つかづのブナ林が残されもしてきた。
  もちろん、実際には、樹高二十メートルにも及ぶ落葉喬木のブナは生態学上においても重要な指標植物で、けっしって役に立っていなかったわけではない。十月頃に成熟するブナの実からは「山そば」とも呼ばれる上質の食用粉が採れたし、同じ実からブナ油を搾り採ることもできた。ただ、東城さんの話によると、ブナの実というものは三年から七年の周期で凶作や豊作を繰り返すはなはだ気まぐれな性質をもっているらしいから、毎年その収穫を当てにすることはできなかったわけで、主食材としては不向きだったのだろう。
  木質部には殺菌力や浄化力のあるクレオソートの成分が含まれており、樹皮からは染料も採れるというが、我が国ではブナのそういった一面はあまり高くは評価されてこなかったようである。ブナが樹齢数百年にも及ぶ長寿を有し、その若葉が柔らかく瑞々しい色を長期間保つことができるのは、優れた吸水力や保水力をもつのにくわえて、クレオソート成分の働きなどによる害虫への抵抗力がきわめて大きいからなのかもしれない。
  その点、ヨーロッパ、なかでもドイツを中心とした地域では、清浄な空気や清冽な水を供給し、その美しく豊かな緑によって多くの動植物を養い潤すブナは、「森の母」と敬い呼ばれて昔から大切にされてきた。また、ヨーロッパ人はブナ材の特質とその特有の白い木肌を実用的に活かす方法を考え、サラダボールのような調理具や各種の家具を造りだし、彼ら独自の樹木文化を築いてきた。
  たぶん、そういったブナに対する彼我の評価の違いは、無数の良質の水源と多種多様な樹木に恵まれ、水資源とブナ林との関係を深く考える必要などなかった我が国と、良い水を確保するためにはブナ林をはじめとする森林の存在が無視できないことを痛感せざるを得なかったヨーロッパの国々との文化的な背景の違いによるものではあったのだろう。
  無価値視されてきたのが幸いし昭和十年代に入るまでは各地に広く存在したブナ林だったが、軍国主義の足音が高まって日本が国際的に孤立し、燃料を自給自足するため大量の国産薪炭を利用せざるを得なくなると、そんなブナ林にもしだいに斧が入りるようになった。さらに戦後に至り、国土復興期を経て高度経済成長期へと向かう頃になると、ブナは他の雑木と同様に、薪炭用のほか、パルプ、合板、合成加工材としての利用とそのための研究開発が大幅に進み、大々的に伐採が行われるようになっていった。
  当然、その影響はこのカヤノ平周辺のブナ林にも及んだ。昭和三十六年、山ノ内町を基点に秋山郷の中津川渓谷方面へとつながる雑魚川林道が完成し、大型トラックが通行できるようになると、カヤノ平国有林の広大なブナ林は伐採し尽くされ、一時期は無惨な状況を呈する有様であった。むろん、ブナ林の保水力や浄化力などが自然環境全体に果たしてきた役割など考慮される余地もないままに、国内各地の他のブナ林も次々に伐採され、たちまち姿を消していったのである。需要地から遠く交通の便がきわめて悪かったこと、極度の豪雪地帯であったこと、その山岳地形の特殊性のゆえに林道開発が困難だったことなどが幸いし、唯一原生林のままで残されたのが、先年世界自然遺産に指定された白神山地の広大なブナ林にほかならない。
  温暖多湿な気候に恵まれた我が国の樹木の成長速度は一般的にみてたいへんはやい。だから、樹木を皆伐してもそこが樹林として復元するまでにはそう膨大な歳月はかからないだろうと多くのの林業関係者たちは考えていた。古くからある「やがて野となり山となる」という諺のように、伐採しても放置してさえおけば再び樹木が成長し、樹林は復元するだろうというのが大方の見方だったのである。むろん、林学や植生学を専門とする生態学者などのなかにはブナ林の場合が例外であることを熟知し、その復元に危惧を抱いた者もあったろうが、消費経済を至上の美徳と考える高度経済社会志向の潮流の中にあっては、そんな人々の意見など無力に等しかったに違いない。
  さらにまた、ブナをはじめとする各種の落葉広葉樹を伐採した跡地には、実用建材としてブナなどより値段のよいスギやヒノキなどのような常緑針葉樹が次々と植樹されていった。しかし、長期的な展望に立って見ると、本来の植生を無視したそんな植林もまた問題であった。
  落葉広葉樹林の場合には晩秋から初夏にかけては裸木状態のため日光が地表まで十分に届く。ほどよい太陽エネルギーが供給されるから、特別に人手をかけなくても様々な下草や潅木類、さらには競合種の樹木が成長し、各種の野生動物や茸類、地苔類、バクテリア類などが生息できる生産力豊かな樹林が形成される。ようするに最も合理的な自然のサイクルが無理なく形作られるわけで、このような森林は保水力にも富んでいる。
  天然の屋久杉林のように長大な自然の輪廻と生死を賭けた樹木どうしの競合を経て成立した森林と違って、人工的に植林された常緑樹の杉の密生林などでは、日光が地表まで十分には届かない。人手によって間伐や下枝払いといった作業が常時行われ、自然の状態に近い樹林の維持形成がなされる場合はまだよいが、維持コストが見合わないなどの理由によって放置された人工林は悲惨である。そこでは自然のサイクルが十分に発達しないから、総合的な生産力も低く生物の生育にもあまり適さない。天然の杉林などと違って保水力も意外に低い。

  経済成長が最盛期を迎える頃になると安い外材がどんどん輸入されるようになり、一部の特別な木材を除いて国内産の木材はコスト的に採算がとれなくなった。またいっぽうでは、国内各地の過度の広葉樹林伐採が、無尽蔵とも思われていた水資源に悪影響を及ぼすこともしだいに明かになってきた。さらに、国民の生活水準が上がり、美しい景観や豊かな自然環境を求めて山野を旅する人が増えるにつれて、ブナ林をはじめとする広葉樹林の存在価値が高く評価されるようにもなってきた。こうしてブナ林受難の時代はようやく終わりを告げ、残されたブナ林の保護とカヤノ平のような伐採された地域のブナ林の再生が重要な課題とされるようになったのである。
  しかしながら、他の落葉広葉樹の林と違って、一度伐採されたブナ林の再生は容易でないことがほどなく明かになってきた。温暖多湿な気候に任せ放っておけば急速に再生するほどにブナは育成が容易な樹木ではなかったからである。ブナは豪雪地帯の笹地に分布している。本来はブナに笹が従属する感じの共生関係にあると言ってもよいのかもしれない。だが、いったんブナ林が伐採されると笹だけが猛烈にはびこり一帯は笹山と化してしまう。こうなると、たとえ残ったブナから秋に実が落ちたとしても、地表を覆う笹に阻害されそれらが種子として土中に定着するすることは容易でない。かりに定着し新芽を出したとしても深い笹藪によって日光が遮断されるから順調な生育はたいへん難しい。
  さらに悪いことに、ブナの木は大量に実をつけるのが七年に一度くらいしかないうえに、樹木としてのその成長速度もきわめて遅い。白樺のような樹木の寿命が五十年くらいと短いのに対し、ブナの寿命は最長数百年にも及ぶ。一般に短寿の木は成長も早いが、長寿の木の場合はそのぶん成長も遅い。東城さんに伺った話によると、ブナの若木の成長速度は数年でせいぜい五、六十センチ程度のものであるという。それではブナ林の再生が容易でないのも道理である。
  いったん笹山になると山は生産力を失って荒れ果てるし、笹の花が咲いて笹が大量に枯死したりするとさらに荒廃はひどくなり、大雨の時などには保水力を失った山の斜面を大量の水が流れ下ってさらに自然環境の破壊をもたらす。そこで、先々起こり得るそのような状態を未然に防ぐためにも、笹山状態に近くなったカヤノ平に残るブナを保護し、百年、二百年という遠い将来を睨んでブナの若木を育てることが必要だと考えられるようになった。だが、そのためには並々ならぬ理念とそれを支える実践的な計画が必要だったし、その計画を遂行するための人的及び物的支援が不可欠でもあった。
  実を言うと、カヤノ平混牧林事業はその先駆的な試みの一つであったのだ。「ヨーロッパなどの森造りは、父、息子、孫の三代にわたっておこなわれるんですよ。父親が苗木を植え、それを引き継いだ息子がそれらの樹々を大きく育て、さらに孫が立派な森になるように最後の仕上げをおこなうんですよ」と、熱い思いを込めながら語ってくださった東城さんの言葉が私にはとても印象的だった。



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