「マセマティック放浪記」 2000年7月5日
Mathematics Odyssey July 5, 2000
歴史の黒幕「鉄砲」

  さきに、伝来した鉄砲を二本の工人集団が複製した際に、銃筒やからくり(点火発射制装置)に較べて「銃床、床尾、弾丸、火薬」の製造にはそれほど苦労しなかったようだと書いたが、もちろん、なんの工夫や試行錯誤の積み重ねもなくそれらの製造をやってのけたというわけではない。話は前後するが、そのあたりのことを少し補足しておくことにしたい。
  いにしえの宮大工や飛騨の匠の例を挙げるまでもなく、樹木の豊かな我が国には古来優れた木工技術が存在した。銃床や床尾といった鉄砲の木部は樫や欅をはじめとする硬木でできているが、手本となる鉄砲さえあれば、その銃床や床尾の複製を造り出すことは、高水準の木工加工技術をもつ工人たちにとって、そう難しいことではなかったようである。実際、松本鉄砲蔵に展示されている各種の火縄銃の銃床や床尾は、おおまかに眺めると一定の形状をそなえてはいるものの、細部をよく見てみるとそれぞれの銃ごとに様々な異なるデザインや工夫が凝らされており、それ自体が工芸品の様相を呈している。作者の銘などが彫られているのを見るにつけても、その技術に対する自信のほどが偲ばれてならない。
  弾丸は鉛玉であったが、直径四ミリくらいのもから直径一センチ前後のものまで(のちには一貫目玉と呼ばれる大筒用の直径八・四センチくらいの鉛玉も登場した)様々な大きさのものが造られたらしい。もちろん、厳密な規格などなかった時代のことだから、火縄銃のほうも銃筒の口径はまちまちであったらしく、それぞれの銃の口径に合わせて適宜鉛玉を造っていたというのが実情だったようである。
  銃弾の鉛玉は、鋳鍋という小型杓子状の柄付き鍋で板鉛を溶かし、それを玉型という器具に流し込んで造った。玉型は大型ペンチの先端部に小半球状の窪みを二個向かい合わせにつけたような道具で、その窪みに溶けた鉛を十分に注ぎ込んだあと、長い柄のほうに手の力を込めて先端部の鉛を圧し挟み、冷え固まるのを待って取り出し、小さな凹凸をヤスリなどで削って仕上げた。戦国期においては銃弾造りは女性の仕事になっていたらしく、何人もの女性が炉を囲み談笑しながら鉛玉造りをしている図などが残されている。
  ついでだから紹介しておくと、松本城鉄砲蔵(赤羽コレクション)にはなんとも珍妙な構造の鉄砲玉が展示されている。数個の鉛玉を一繋ぎにした連玉とでも呼ぶべきしろもの、本来の鉛玉のうしろに小さな副玉を二個細長い針金で繋いだ形のもの、さらには釣り針を二本合わせたような鋭い鈎針のついた鉛玉と、思わずその意図と実効性に首を傾げたくなるような不可思議なしろものまでが並んでいる。それらが実際に使用されたものなのか、それとも遊び心と旺盛な実験精神の結果、試験的に造られたものなのかはわからないが、こういう芸当ができたのも先詰の火縄銃ならではのことではあったのだろう。
 
  最後に残るのは火薬であるが、火縄銃に使われた火薬はかなり古くからある黒色火薬を改良したものだったようである。黒色火薬は、近代の高性能火薬ほどの性能はないものの、直径五ミリ足らずの小さな鉛玉を三百メートル前後飛ばすくらいの威力はあったようだ。もちろん、鉄砲伝来当初は、ポルトガル人をはじめとする異国人などから火縄銃用の火薬についての情報収集が盛んに行われたようである。
  ただ、元軍の来襲した鎌倉時代以降、ある程度の火薬の基本製法は中国や朝鮮半島から伝わってきていたこともあり、主要原料の調達さえ可能であれば、試行錯誤の実験を通じて最適な火薬合成の原料混合比を割り出すまでには、それほど時間を必要とはしなかったようだ。それまで鉄砲こそ存在しなかったが、火矢や狼煙その他の目的ですでに火薬類は使われていたようだから、火縄銃用の火薬を開発製造する技術的下地は十分にあったと考えるのが自然だろう。もともと、隣の中国や朝鮮は火薬技術の先進国だったわけだから、我が国の一部の工人が黒色火薬などの技術を伝承していたとしても不思議はない。
  ポルトガル人から二千両で二挺の火縄銃を買い取った当時の領主種子島時尭(たねがしまときたか)は、火薬の研究を家臣の篠川小四郎に命じているが、銃本体の複製に取り組んだ八板金兵衛(清定)の試作品の発射実験が成功したのは翌年のことだから、火薬の開発のほうもそれまでには一定レベルに到達していたと考えてよいだろう。
  資料の伝えるところによると、火縄銃用の黒色火薬は、薬研(やげん)を使って焔硝(硝石粉末、硝石とは硝酸カリウムのこと)、硫黄粉末、木炭粉末を5:3:2くらいの割合で混合したもので、その混合比は機密事項であったらしい。しかし、燎原の火の如き勢いであっというまに国内各地に鉄砲が広まったところをみると、火薬の混合比はほとんど公然の秘密のようなものだったのだろうと推測される。硫黄と木炭は国内で容易に入手できたが、硝石は国内ではほとんど産出しないだけに、特別なルートで海外から入手していたようである。むろん、初期の頃はポルトガル人などから必要量だけ小分けに購入していたのだろう。
  もっとも、鉄砲伝来から十年も経つと、堺などには大量の硝石が出回っていたようである。ザビエルが鹿児島を来訪した二年後後の天文二十一年(一五五二年)には、足利義輝の依頼で石山本願寺が焔硝(硝石)十斤を堺で調達したという記録なども残っているから、すでにこの時期、堺一帯には相当量の焔硝が海外から持ち込まれていたのだろう。確かなことはわからないが、南米チリ産の硝石などもはるばる海を渡って国内に運び込まれた可能性もある。
 
  ともかく、そのような過程を経て国内で大量生産されるようになった火縄銃は、実戦でもその威力を発揮するようになった。天文二十年(一五五一年)、大内義隆は陶晴信との厳島の戦いで鉄砲百挺を使用、その力もあって陶軍を破ったという。また、永禄三年(一五六〇年)の桶狭間の戦いにおいて織田軍は三百挺の鉄砲を使ったという記録も残っているようだ。桶狭間の戦いというと、行軍の関係上やむなく特殊な隘路に一夜の本陣を張った今川義元軍に対し、折からの悪天候を突いて織田軍が奇襲攻撃をかけたことで知られるが、その際に鉄砲が使われたという話はあまり聞いたことがない。だが、もしも記録通りに三百挺もの鉄砲が使われたというのであれば、織田軍の一大勝利にそれなりの貢献はしたに違いない。
  永禄七年(一五六四年)に尼子氏の篭る難攻不落の富田城を攻めた毛利軍は、その実効性はともかく、鉄砲で攻撃を仕掛けているし、その翌年に起こった肥前福田港でのポルトガル船攻撃には堺で造られた火縄銃が用いられたという。こともあろうに、鉄砲という革命的な武器を伝授してくれた師のポルトガル人に、伝授された弟子の日本人ほうが同じ武器を使って攻撃をくわえたというのだから、なんとも皮肉な話である。ポルトガル側に当時の記録が残っているかどうかはわからないが、ポルトガル船員たちにとってはなんとも衝撃的な出来事であったことだろう。
  永禄十二年(一五六九年)、織田信長が浅井長政の本居小谷城を攻めたときにもかなりの鉄砲が用いられたというが、この頃には堺は国内最大の鉄砲生産地になっていた。同時期、信長が堺を完全に支配化に収めたのは、交易や商業上の要地という理由のほかに、鉄砲を完全に自分の管理下におきたいという意図などもあってのことだったのだろう。その翌年、石山本願寺に立て篭もった根来衆、雑賀衆などの紀州勢を攻めた織田軍は、本願寺守備軍の多数の鉄砲による応戦に苦闘を強いられる羽目になった。その教訓もあってか、信長は国友の鍛冶集団に命じて、より強力な二百匁筒(銃口径約五センチの大型砲)を試作させている。
  史上名高い天正三年(一五七五年)の長篠の戦いにおいて、三千挺の火縄銃をもつ織田の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を撃ち破ったことで、武器としての鉄砲の重要性はゆるぎなきものとなった。松本城鉄砲蔵には長篠合戦図屏風の一部を拡大コピーしたものが展示されているが、その図中には、防御溝で囲まれた段々状の野戦陣地の内側で火縄銃を構えた織田軍の足軽が武田軍の軍馬や騎馬武者を狙う光景や、鉄砲で撃ち倒された武田方の武者や軍馬が描かれている。武田軍の中にも鉄砲らしきものを持っている者もあるようだが、鉄砲隊の組織力の高さと鉄砲の数において織田軍は圧倒的に勝っていたようだ。
  直接火縄銃には関係ないことではあるが、この合戦図を見ているうちに面白いことに気がついた。足軽鉄砲隊の指揮官ではないかと思われる両軍の武将の何人かが、よく目立つ日輪旗を背負っているのだ。白地に赤い日輪を染めた縦長の旗で、要するに現代の日の丸の旗を縦にしたような旗である。それらの日輪旗にどのような意味や役割があったのかは門外漢の私にはわからなかったが、もしかしたらこの時代の日輪旗は現在の日の丸のルーツになんらかの関係があるのかもしれない。松本市教育委員会発行の「松本城鉄砲蔵」という資料書の中には「日輪旗を持つ鉄砲頭軍装」と説明のついた写真が掲載されている。その日輪旗は、紫地に金色の日輪を描いたものだが、構図や旗の形などは合戦図中の日輪旗とまったく同じものである。 
  信長の死後天下統一を果たした秀吉は朝鮮出兵を断行するが、その時秀吉軍は十匁級(銃弾径一・八三センチ以下)までの小筒約七千挺を投入し、その威力もあって交戦初期一時的には優位に立った。しかし、海路による補給が困難だったうえに、やがて百匁級(銃弾径約四センチ)の大筒を多数備えた朝鮮軍の攻撃に遭い、ついには劣勢に追い込まれ、撤退のやむなきにいたったのである。
  秀吉のあとを継いで天下を支配した徳川家康も、当然、鉄砲による軍備強化と鉄砲鍛冶集団の管理に細心の注意を傾けた。家康は国友の鍛冶集団に忠誠を誓わせることと引換えに彼らの鉄砲製造を支援し、製造された銃砲を大量に買い上げた。そのため、国友の鉄砲工の数は最盛期には千二百人にも及んだという。慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣の直前には、堺の鍛冶集団は徳川、豊臣両陣営から鉄砲の大量注文を受けたが、豊臣家滅亡後は堺の鍛冶集団も御用筒と呼ばれる徳川幕府向けの鉄砲を造るようになっていった。
  もちろん、徳川幕府は砲術の向上にも力を入れ、稲富一夢をはじめとする砲術家たちの登用や支援、さらにはその後継者たちの育成にそれなりの配慮を示しもした。また、砲術師の範黒田十兵衛が元和三年(一六一七年)、当時の松本城主戸田氏に仕えたことでもわかるように、この時代になると、各藩は優れた砲術師範を競って雇用しはじめたようである。
  寛永十五年(一六三八年)の島原の乱においては、原城に篭った約二万八千人の農民兵相手に十二万の幕府軍が大苦戦を強いられることになったが、農民兵が手にした約五百挺の鉄砲が幕府軍苦戦の原因の一つでもあったとも言われている。ほどなく徳川幕府が江戸への鉄砲の持ち込みを厳しく取り締まるようになったのも、それまでの経験を通して鉄砲というものの威力と危険性を十分過ぎるほどに認識させられたからに違いない。
 
  はるばる東洋の島国日本にまで進出して来たヨーロッパの勢力にとって、予想を超えた鉄砲普及の速度と大量の鉄砲による軍備強化はおそらく計算外のことだったろう。種子島時尭に鉄砲を売り渡したポルトガル人たちにいたっては、まさか一年も経たないうちにその地で複製銃が造られようなどとは夢にも想っていなかったはずである。
  キリスト教布教のために海を越えてはるばるやって来た多数の宣教師たちの背後には、虎視眈々と日本征服を狙うヨーロッパ列強国の支配者たちの鷹のような目があった。宣教師たちの信仰にかける想いと布教の熱意がどんなに純粋なものであったとしても、それら宣教師たちの陰に隠れ潜むヨーロッパの狼たちは、武力でこの国を征服できるといったん計算が立ちさえしたら次々にその牙を剥いて襲いかかってきたことだろう。私には、そんな群狼たちの野心の牙を抑えたのは鉄砲の存在であったように思われてならない。
  中南米やアフリカ、中近東、東南アジアなどの各地における凄まじいばかりの植民地支配の歴史を見れば、そのことは多分に推測がつく。ヨーロッパ列強国は明かに鉄砲の力によってそれらの地域の国々を滅ぼし、民衆を支配し弾圧した。本国からの補給も難しく、数の上でも比較にならないほどに少数の欧州勢力が世界各地を征服し得たのは、銃の威力をもって行く先々の支配者を殺戮ないしは服従させ、それによって混乱に陥り方向を見失ってしまった民衆を意のままに操ることが出来たからだった。
  幸いなことに、この島国の日本だけはいささか状況が違っていた。ヨーロッパ人の持つ銃に較べればおそらく性能の点ではかなり劣ってはいたろうが、彼らが日本に食指をのばしはじめた頃には、我が国には膨大な数の鉄砲が存在していたのである。いかに彼らが優れた銃で武装していたとはいっても、船の収容能力の関係でせいぜい百人前後の単位でしか日本に上陸することはできなかっただろうし、また戦略物資の補給も困難だったと思われる。性能が劣るとはいっても数の上では圧倒的に勝る火縄銃で武装した軍団と、その軍団に守られた当時の日本の群雄たちを征服するのは、彼らにとって至難の業だったはずである。
  そう考えてみると、種子島銃は我が国にとってなんとも絶妙のタイミングで伝来したと言わざるをえないし、たまたま刀剣その他の高度な金属加工技術が存在していたこともまたとない幸運だったと考えざるをえない。将軍徳川家光の時代に入って我が国は鎖国政策を取り、そのために国外勢力の侵入が不可能になったとも言われているけれども、鎖国策を取ろうが取るまいが、もし武力による支配が可能な状況にあったとしたら、彼らは容赦なく侵略してきたに違いない。私自身は、長年にわたる鎖国政策が歴史的に見てよかったとは考えていないし、それによる文化的なマイナス面もたいへん多かったことも認めざるをえないけれども、それはともかく、結果的に徳川幕府が鎖国政策を遂行できた背景には鉄砲の存在があったことは否めないような気がしてならない。
  家光が鎖国令を発布してから二百余年の歳月を経た一八四六年のこと、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルは通商を求めて浦賀に来航したが、幕府はその申し出を断固として拒絶した。さらにそれから七年後の一八五三年、同じくアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが大統領の国書を携えて再び浦賀に来航、幕府に対して激しく開国を迫った。そして、歴史に刻まれているように、翌年再来日したペリーと幕府との間で日米和親条約が締結されたわけである。
  東京湾に入った四隻の黒船による大砲の威嚇射撃と強硬な外交姿勢に、江戸の幕閣も民衆も皆驚き狼狽することになったのだが、現実には迅速な条約締結を迫るペリーのほうにも内心焦りはあったことだろう。艦砲射撃を加えれば江戸城をも直接破壊することはできたかもしれないが、本国からの支援や補給もないまま、たった四隻の艦船に分乗する兵力だけで上陸し、鉄砲や大砲で武装した武士集団と戦闘を行い、国土を完全に制圧することは事実上不可能だったはずである。ペリー自身が誰よりもよくそのことをわきまえていたに違いない。
  不平等条約ともいわれた日米和親条約の締結を契機として、我が国は一挙に近代化へと突き進んでいくのだが、それまでの歴史の陰にあって鉄砲が果たした役割は、良い意味でも悪い意味でも相当に大きなものであったように思われてならない。松本城鉄砲蔵の種子島銃コレクションを目にしてはじまった私の夢想は、かくして黒船来航の時代にまで及び、ようやく落着をみるところとなった。



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