「マセマティック放浪記」 2000年5月3日
Mathematics Odyssey May 3, 2000
無責任確率談話

  ある論理体系が根源的な意味で破綻しているということと、人間にとって、その論理がある有限の時空内や一定の歴史的背景のなかで有意義であるということとは、分けて考えなければならない問題である。そうでなければ、人間活動のすべてが否定されてしまうことにもなりかねないからだ。
  確率論ひとつをとってみても、厳密に考えるとすると、主観的確率(数学的確率とも呼ばれる)と客観的確率(統計的確率とも呼ばれる)の区別といったような面倒な議論から始めなければならないわけで、専門家にとってもそれは厄介な問題だと言ってよい。実際、いまにも倒れそうなボロ家をつぎはぎ細工しながらなんとか体裁を保っていくという作業が、確率論の世界においては何時果てるともなく続けられているのである。なんとか住めるには住めるが、何時なんどき壁に穴が開くかわからない。嵐のために屋根が吹き飛んでしまうかもわからない。でもまあ、当面、雨露や冷たい風を凌ぐことはできるから、その家の存在はそれなりには有難い、とでもいったようなところだろうか。
  残念なことではあるが、「絶対に落ちない飛行機」は造れない。だから、飛行機に乗らないと考えるか、安全率に賭けて飛行機に乗るかは、時代の背景や人それぞれの人生観に基づく判断に委ねられることになる。社会事象や自然界の事象に確率論を適用する場合は、一般には、どうしても、過去の事象の様態に基づくデータから未来の事象の様態を予測する(ただし、量子論や宇宙論の場合は過去の予測をしたりすることもあり、また、最終的には過去も未来も超越する話になってしまったりするわけだが)というプロセスを踏まざるを得ない。その場合、その確率的予測が意味を持つためには、「その予測のもとになった諸事象の様態がこれまで通りに展開するのであれば」という暗黙の前提が存在していなければならないわけで、その大前提が崩れた場合には、その確率的予測はほとんど意味を持たなくなる。
  未来の状況がわからないから予測したい。でも予測が当たるためには、これまでとおなじように諸々の事態が展開していくことが前提となる。しかしそれじゃ、まるで予測の意味がない……。 未来の状況がわからないから予測したい。でも予測が当たるためには、これまでとおなじように諸々の事態が展開していくことが前提となる。しかしそれじゃ、まるで予測の意味がない……。一般には、サイコロの各々の目が出る確率は六分の一で、振る回数を増やしていけば各目の出る割合は六分の一にいくらでも近づいていくと信じられている。しかし、そのためには、「一から六までのどの目も完全に同じ割合で出るサイコロがあるとすれば」という大前提が存在していなければならない。いったい誰がどうやってそんなサイコロをつくることができるというのか……まさか、振ってみてそれを確かめるというわけにもいかないだろう。それでは循環論に陥ってしまう。
  これはとてつもないパラドックスであるが、パスカル、ラプラス、ガウスといった確率論の元祖達はもとより、それ以降のどのような天才の頭脳をもってしても本質的にこの逆理を解消することは出来ないできている。確率論の専門書を開くと、一般人には意味不明の奇怪な数式がところ狭しと並んでいるが、あれはボロ屋を見かけ上補強したり装飾しなおしたりして、事情を知らない通行人には立派な建物であるように思わせているだけのことである。もちろん、先に述べたように、それにはそれなりの有意性はあるわけで、それが全く無意味ということではない。ある範囲とある条件下で、それは有効かつ有益ではあり、そのこと自体はそれなりに評価をしなければならない。
  ある不規則な形状の地面に水を流す場合、その流路を正確に予測することは不可能である。行く手に木の葉が一枚舞い落ちてきたとか、風が急に吹いたとか、水を吸って盛り上がった部分が崩れたとか、たまたま通りかかった人や車の影響があったとかいったように、ちょっとした条件の変化でいきなり流路が変わってしまうことはよく知られる通りである。
  もちろん、流路が決定したあとで、そうなる確率(これもかなりいい加減な話であるが)を算定することはできるが、この確率的数値は、その後の流路の厳密な予測にはあまり意味を持たない。だだ、そうはいっても、ある範囲では役立つわけで、そこが厄介なところである。
  東京タワーのてっぺんからチリ紙の切れ端を一枚飛ばせておき、それがどこに落ちるかを、あらゆる科学的分析ををもとに確率論的に予測する場合、一キロメートル単位の誤差を許すならば予測が意味を持ちうるだろうが、一ミリメートル単位の誤差しか許されない精度となると、いくら予測をやってもまず無意味であろう。予測の正しさを確認するには、チリ紙の断片の落下位置を一ミリメートル単位の正確さで測定しなければならない。そこで、落下位置を正しく確認するために測定機器をもって人が近づくと、それだけであたりの大気が微妙に揺れ動き、落ちる位置が変化してしまう。いうまでもないが、これはハイゼンベルクの不確定性理論でいう、いわゆる「ゆらぎ」の一例である。
  つまるところ、確率というものの評価は、評価のために必要な認識尺度や意味の尺度をどのレベルにとるかによって、有意、無意のどちらにも転び得る可能性があるわけだ。したがって、前提となるそのへんの厳密な議論なしに確率論をやたら振り回しても得られるところはあまりないことになる。
 
  ついでだから、主観的確率と客観的確率に絡む有名なパラドックスをひとつ紹介しておこう。時間のある方は、ご自分でどこがおかしいのか考えてご覧になるとよい。

  昔暴君の支配していたある国の監獄に十人の政治犯死刑囚がいて、そのうちの九人は翌日処刑されることになっていた。ところが、その中の一人の死刑囚が、たまたま見回りにやってきた刑務所長をつかまえてこう話しかけた。
 「わたしは明日、十分の九の確率で死んでゆく運命にある人間です。所長、お願いですからそんな私の頼みをひとつだけかなえてください」
  やむなく刑務所長がその言葉に耳を傾けるとその男はこう続けた。
 「私が明日処刑されるかどうかは教えてくださらなくても結構です。そのかわり、私を除く九人のうちどの八人が処刑されるかをそっと教えてください。けっして他の囚人には口外しませんし、また、私自身は処刑されるかどうか明日にならないとわからないわけですから、あなた自身も取り合えずギリギリのところで秘密義務は守れることですし……」
  男の必死の嘆願にほだされた所長はその要求をのみ、そっと男に問題の八人の名前を告げた。すると、その死刑囚は急に明るい表情を見せながらこう所長にお礼を述べた。
 「さきほどまで、明日私が死ぬ確率は十分の九でしたが、これで、私が明日死ぬ確率は二分の一になりました。お蔭で随分と気分が楽になりました。ほんとうにありがとうございます!」

  このパラドックス、何かがおかしいことは誰にもすぐにわかるのだが、いざそれを明快に説明しようとすると、思考が混乱して、なにがなんだかわからなくなってしまう。そこで、トランプのカードを例にとりながら、いま少し具体的に考えてみることにしよう。
  かりに刑務所長が、ハート一枚、スペード九枚からなる合計十枚のカードの中からある囚人に一枚だけカードを引かせてそのカードの裏に印をつけさせ、囚人にはそのカードが何であるかを見せないまま、印のついてるカードを意識的に残し(この意識的に操作しているところが問題な訳である)、他の九枚のカードのうち八枚のスペードのカードをめくって見せたとする。すると残りは二枚で、確かに一枚はハート、一枚はスペードであるが、この場合、裏に印のついているカードがスペードである確率は二分の一ではなく十分の九であることは言うまでもない。印のついたカードがハートであれば処刑されないですむとすれば、その男が生き延びる確率は十分の一、処刑される確率は十分の九であることに変わりはない。
  では、もしも、所長が、十枚中、ハート一枚、スペード九枚というカードの構成を囚人には明らかにせずに一枚を選ばせ裏に印をつけさせ、男の選んだカードを含む二枚のカードだけを残したとしてみよう。囚人が選んだカードがハート、スペードのどちらであったにしろ、一枚はハート、一枚はスペードになるように細工をしておくのはもちろんのことである。そして、どちらが男の選んだカードかを相手に悟られないようにしながら、表をちらりと見せて、確かに一枚がハート、一枚がスペードであることを確認させたあと、再び裏返しにしてよく切り、それからおもむろに、「お前の選んだカードはこの印のついたやつだ。いまお前に確認させた通り、一枚はハート、一枚はスペードだ。お前が選んだこれのカードがハートなら処刑はしない。そのかわり、スペードならお前は処刑だ」と告げたとしよう。
  このケースでは、囚人の男は所長の良心に賭けて、自分の選んだカードがハートである確率もスペードである確率も二分の一だと信じるしかないわけである(主観的確率)。いっぽう、すでに結果を知っている刑務所長のほうは、助かる望みははじめから十分の一しかなかったのだと内心で思っているわけである(客観的確率)。このパラドックスが厄介な原因は、それなりには筋の通った主観的確率と客観的確率との双方が人間の思考の中で交錯し、そのモツレをうまくほどくことが難しいことにある。
  この手の典型はイカサマサイコロで、そのサイコロの重心が一の目のほうに大きく偏っていることを経験的にあらかじめ知っている人間とそうでない人間とがいる場合、知らない人間のほうはどの目が出る確率も六分の一だととりあえずは信じるしかない(主観的確率)わけだが、他方は一の目の出る確率が他の目の出る確率に較べて遥かに高い(客観的確率)ことを知って有利に勝負を進められることになる。この例は簡単だからよいものの、社会事象や自然界の事象にはこれと同じ状況が何重にも複雑怪奇に錯綜しており、客観的だと信じている我々自身(もちろん、専門家も含めて)が、実は前述の囚人と同じ主観的立場に置かれているということも少なくない。
  とにかく、ある事象の確率というものは、視座のとりかたによって異なってくるもので、実は相当に相対的なものなのだ。はじめの死刑囚の問題においても、暴君の残虐さに呆れ果てた法務大臣が、翌日秘密裏に命令を出し、そのうちの五人を特赦しようと決意していたとすると、刑務所長が客観的だと信じているその確率には、実は、その時点で客観性がなくなってしまっているわである。



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