「マセマティック放浪記」 1999年12月22日
Mathematics Odyssey December 22, 2000
月と夕陽の生月島へ

  南九州に向かう途中、ちょっと寄り道して唐津の町を訪ねたのは、豊穣を祝う有名な秋祭「唐津くんち」が終わって三日ほどしてからだった。無数の飾り提灯の揺れるなか、古式豊かな装束に身を固めた曳子たちによって宵の市中を勇壮に曳き回される十四基の曳山も、すでに曳山展示場のガラス張りの収納庫に収まり、一年間の静かな眠りについていた。重さ二〜四トンもある曳山は間近で見るとさすがに大きい。各種の獅子、武将の兜、鯛や鯱、飛龍、鳳凰、宝船、さらには亀と浦島太郎を形どったものなど、曳山の形や飾りにもその時々の工芸職人が腕によりをかけた趣向のかぎりが尽くされていて実に面白い。
  曳山展示場を出たあと、三保の松原、気比の松原と並び称される唐津の虹の松原を歩いてみた。玄海灘に面するこの松原は、樹林帯の長さと幅、松ノ木の密生度、樹形と樹齢の多様さなど、どれをとっても実に見事なものである。松の樹林帯の中を縫いくぐって白砂の浜辺に出ると、ゆったりとした玄界灘の海原が青く輝き揺らめいて見えた。荒波でなる玄海灘もこの日にかぎってはずいぶんと穏やかな感じだった。渚のすこし離れたところで遊ぶ一組の子供連れの家族のほかには人影らしいものは見あたらない。何とも言えない開放感にひたりながら、白砂に深く足跡を刻み込むようにして浜辺を歩き回ると、サクサクという快いことこのうえない乾いた音がした。
  浜辺で雲一つない青空と西のはてへと急ぐ秋の太陽を眺めているうちに、今日の夕陽はさぞか し綺麗だろうなという想いが脳裏をよぎった。そして、次ぎの瞬間には、もうその想いは西海に沈む夕陽を見たいという強い衝動に変わっていた。私は急いで虹の松原をあとにすると、唐津市街をいっきに駆け抜け、伊万里市方面へとハンドルを切った。三十分ほどで陶磁器で名高い伊万里市街に出ると、そこから松浦市を経て平戸大橋へと続く海岸沿いの国道に入った。右手に広がる伊万里湾から松浦湾にかけての景観はなかなか見ごたえがあったが、西方の海に沈む夕陽を拝むには、地形的にみて旧オランダ商館跡のある平戸島まで行かなければならない。それも平戸島の西側まで回り込まなければ駄目な感じだった。時間的にはぎりぎりと思われたから、移り変わる風景を車窓越しにのんびりと眺めている暇はなかった。
  松浦市街を過ぎ平戸大橋がかなり近づいてきた頃だったろうか、「夕陽の生月島まであと二十一キロ」という案内板の文字が突然目に飛び込んできた。なに?……生月島?……きづきじま、せいげつじま、しょうげつじま……何と読むのかは知らないが、そもそも、そんな島どこにあったけ?……国内の地理にはそれなりに精通しているつもりの私だったが、不覚にも「生月島」という地名を目にするのは初めてだった。気になって地図で調べてみると、なんと、平戸島の北西肩に寄り添うようにして南北に細長くのびる小さな島があるではないか。平戸島との間には生月大橋という橋も架かっているらしく、どうやらそこまで車で行けそうなのである。九州本土の最西端にあって北側の大海に突き出すようにのびる小島で、その西方には海が広がるばかりだから、この島の西海岸一帯からは確かに美しい夕陽が見られるに違いない。ちょっと地図を眺めただけでは平戸島の一部にしか見えない島なので、これまでその存在に気がつかなかったのも無理ないことではあった。
  九州本土と平戸島を繋ぐ平戸大橋にさしかかるころには、太陽は大きく西方に傾き、平戸島の中央背稜をなす山並みの蔭に隠れていこうとしているところだった。眼下はるかに広がる平戸の瀬戸の海面は淡いピンクの輝きを湛え、夕凪の瀬戸をゆく一つひとつの船影が不思議なまでに深い旅愁を囁きかけた。西陽を追いかけるのが当面の目的だったので平戸の街並みを走り抜け、生月島目指してアクセルを踏み込んではみたが、平戸島は想像以上に大きくて山深かった。生月島方面への道路そのものはしっかり舗装されてはいたが、道幅もそう広くなく、カーブも起伏もずいぶん多いとあって、スピードはあまり出せない。日没までに生月島付近まで行き着くのはとても無理かなと思いはじめたとき、ご丁寧にも前方にトロトロと走る何台かの地元の農作業車が現れた。状況的に見て追い抜きは不可能と悟った私は、その段階で夕陽の追尾をギブアップした。
  海をはさんで遠くに浮かぶ度島か的場大島と思われる島影が、美しい赤紫に染まっている。西空の水平線近くにおいて、落日が赤く燃え盛っているのだろう。一種の脱力感とともに、これ以上行っても無駄かなという思いが湧き上がってきたが、どうせここまで来たんだから「行き着くところまで行ってみるか!」と、いま一度気をとりなおした。そして、生月島は「いきつきしま」とも読めるからなどと、自嘲気味に変な語呂合せを試みたりもした。あとになって判ったことだが、なんと、生月島の読み方は、皮肉にもこの語呂合わせの読みが正解だったのだ。生月島に渡ってから目にした島名の由来を読んだかぎりでは、「生月」という名は「行き着く」という言葉とは直接には関係なさそうであったけれども……。
  それにしてもこの世の中、どこに何があるのかは実際に行ってみなければ判らないものである。もしもこの地点で引き返していたら、あの望外ともいうべき一連の発見と感動はなかったに違いない。歴史的にも民俗学的にも貴重な資料がそんな小さな島の一隅に残されているなどとは、その道の専門家でない私には予想もつかないことであった。
  生月大橋の平戸島側渡橋口に着くといっきに西側の展望が開けてきた。西の空に目をやると、なんと既に沈んだものと諦めていた太陽がまだ水平線ぎりぎりのところに残っているではないか。水平線近くに霞か靄のようなものがたなびいているため、太陽は揺らめくようなオレンジ色の輝きではなく、暗くくすんだ深紅色をしていたが、ともかくも西海の落日であることには違いなかった。通行料金料を払うとき、一瞬、片道百円の平戸大橋に較べて片道六百円という生月大橋の通行料は高過ぎるなあと思ったが、落日に見惚れながらの渡橋だったのでそちらに気をとられ、その時にはそれ以上深くは考えてみなかった。
  ただ、あとになってから、生月島に住む人々が生活道路の一環としてこの橋を利用する場合も同じ料金を徴収されていると聞き、往復千二百円というのはちょっと高いよなとあらためて感じはした。建設されてからまだ八年ほどしか経っていないとのことなので、架橋に要した巨費を償還するまでは、それくらいの通行料を徴収し続けなければならないのかもしれない。また、かつてはこの大橋の架橋実現は生月島の人々の悲願だったのだろうから、架橋後の一定の負担はやむをえないとされてもいるのだろう。それなりの事情はわからないではないが、なかなかに大変なことではある。
  生月大橋を渡ってほどなく、赤霞む太陽は水平線の彼方に姿を隠した。その様子を見届けた私は、生月島の西海岸を縫ってほぼ南北にのびる道路を経由し、最北端の大バエ崎灯台に向かってみることにした。生月島はなんとなく鍵の形に似ている。鍵の柄の端に相当する島の南端部を西に向かってしばらく道なりに進むうちに、「サンセットウエイ」と呼ばれている南北路の南端部に出た。途中、「島の館」という郷土館らしい建物の近くを通ったが、その時はたいして気にも留めなかった。
  青潮の絶え間なく寄せる荒磯を眼下に見下ろすサンセットウエイは、その名に恥じぬ快適なドライブウエイだった。この地形とこの道路の具合からすれば、車で走りながら、どこからでも西海に沈む美しい夕陽をこころゆくまで眺めることができるに違いない。既に夕陽こそ沈んでしまっていたが、西方はるかな東支那海の水平線上に広がる空は、一面赤紫の黄昏色に染まり、ちょうど水平線に接するようにして、茜色に輝く一条の薄雲が細く長くたなびいているのが見えた。他には通行車両もまったくなく、雄大な自然を独占しながら遠い想いに耽るにはなんとも絶好な場所ではあった。
  私が育った甑島の場合と同じように、この島から望む夕陽は、すこし風のある快晴の冬の日が最も美しいに違いない。九州の西方海上には対馬海流が流れている。沖縄方面から東支那海を北上し、対馬海峡を抜けて日本海に入るこの暖流からは、夏はむろん、冬においても絶え間なしに大量の水蒸気が上空に向かって立ち昇っている。したがって、無風の日には、たとえ快晴であったとしても、その上空には薄雲や、そうでなくても霞や靄が発生しやすい。太陽が高度を低め、やがて水平線に近づく日没時には、陽光がそれらの薄雲や霞、靄の層を透過して人の目に届くことになるから、夕陽が暗くくすんだ深紅色に見えることはすくなくないのだ。

  のんびりと車を走らせ、生月島の最北端、大バエ崎に着いたときにはもう午後七時を過ぎていた。駐車場に車を置き、秋の夜とは思えないほど心地よい大気に身を委ねながら、宵闇に包まれた展望台への細道をたどっていくと、ほどなく灯台のある場所に出た。灯台とはいっても、小さな光がかすかに明滅するだけのごくささやかなものである。ほぼ三六〇度の展望がきく地形であるのにくわえ月齢が新月に近い闇夜だったので、素晴らしい星空が見られるものと思っていたのだが、その期待は見事に外れるところとなった。なんと、その夜空は驚くほどに明るかったからである。星はそれなりの数見えるには見えたが、五、六等級の星々や銀河の流れまでが煌き揺れ輝く満天の星空にはほど遠いものだった。
  原因は海上のいたるところで煌々と燃え盛る無数の漁り火だった。時期的にみてほとんどはイカ釣り船のものだろう。それはそれで美し光景ではあったけれども、少年の頃に見て育ったどこか哀しく淋しげな漁り火とはまるで風情を異にするものであった。強力な発電機を積んだ昨今の漁船の漁り火はパチンコ屋の照明並に強烈そのものだからである。後日のことであるが、地元出身の詩人のエッセイを読んでいるうちに、この大バエ崎一帯では光柱現象呼ばれる珍しい発光現象が時折見られるらしいことを知った。冷え込みの厳しい晴れた冬の晩などに、オーロラ状の光のカーテンにも似た縦長の光の帯が何個も空中に輝き漂うのだという。一種の蜃気楼現象なのだそうで、不知火とおなじく、特殊な反射と屈折現象によって、海上の漁り火が大気に投影されたものであるらしい。
  しばし漁り火の輝く四方の海面を眺めるうちに、星空はともかく、ここで眺める満月のほうはさぞかし綺麗なことだろうなという想いがしてきた。夕刻に東の海から昇り朝方に西の海へと沈んでいく満月にも、日没後に西南の空に浮かび、やがて西の水平線へと落ちていく三日月にも、言葉では表し難い趣があるに違いない。もしかしたら、生月島という島名も月の夜の眺めが素晴らしいことと関係があるのではないか、などと勝手な想像をしたりもした。ただ、そのことを身をもって確かめるには、月の夜を見計らって再度この島を訪ねてみる必要がありそうだった。
  大バエ崎灯台をあとにしかけた時にはもう午後八時を過ぎていた。例のごとく車中泊にしようかとも思ったが、風呂に入りたい気もしてきたので、その時間からでも泊めてくれる宿屋がどこかにないものか探してみようと思い立った。そこで、生月島に渡ってすぐに手に入れておいた島内の旅館案内ガイドマップをもとに、めぼしいところに次々と電話をかけてみた。こんな時には当世流行の携帯電話というものはなんともありがたい。
  実をいうと、いろいろな理由もあって、ごく最近まで私は携帯電話の使用を意識的に控えてきた。だが、状況的にファックス原稿などではすませることのできない連載執筆などを手がけるようになってから、とうとう携帯電話を持たざるをえなくなった。人里離れた山中や離島などの旅先にありながら、ノートパソコンで打った原稿データを編集部送ったり、原稿内容に関する連絡をしたりするには、携帯電話に頼るしかなくなったからである。当然、私の携帯電話の主要用途は執筆原稿データの送受信だから、必要時以外は電源を切ってあることも多く、発信者番号のほうも通常は「不通知」にセットしたままである。
  時間が時間だったのですべて断られるものと覚悟していたが、館浦地区の戸田屋という旅館が夕食抜きでなら泊めてくれるということだったので、そこにお世話になることにした。戸田屋に電話を入れた際、島の店仕舞いは早いのでもう食堂はどこも閉まっているかもしれないとも言われたので、いざとなったら非常用に積んである菓子パンでもかじって夕食にかえるつもりだった。だが、幸いにも大バエ灯台から館浦地区に向かう途中で一軒だけ終業直前の寿司屋を見つけることができたので、そこに飛び込み無事夕食をすませることはできた。
  戸田屋は生月島では古い旅館らしく、出迎えてくださった館主御夫妻はとても感じのいい方々だった。御主人の言葉によれば、この生月島は月の綺麗な満月の日などを選んで訪れると最高だとのことだった。やはり、私が大バエ灯台で想像した通り、この島の月の美しさは格別のようである。生月島という地名は「いきつきしま」と読むのだということも、戸田屋旅館のおかみさんから教わった。むろん、この島に来る途中でのふざけた語呂合わせの読みがたまたま正解だったことに、思わず私が苦笑したのは言うまでもない。



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