「マセマティック放浪記」 1999年11月17日
Mathematics Odyssey November 17, 1999
  奥の脇道放浪記(12)
甦る大雪の日の光景


甦る大雪の日の光景――会津から越後長岡へ

  翌朝は六時半に目覚めると、朝食をとらずにそのまま桧原湖畔をあとにした。十日間にわたる渡辺さんとの旅の最終日とあって、どうしても午後三時半頃までには越後長岡駅に着かねばならない。長岡まではまだかなりの行程なので、早立ちしたようなわけだった。磐梯山が澄んだ湖面に影を落とす五色沼に立つと、この一帯に遊んだ懐かしい日々のことが想い起こされた。朝日に浮かぶ磐梯山のはるかな頂きには、昔日の自分の影がいまも亡霊のように立っていて、じっとこちらを見下しているような気がしてならなかった。また、五色沼の青い湖面には青春の日々に漕いだボートの水尾がいまもかすかな跡を残しており、また沼々の周辺を縫う小道の片隅には、かつての憂いを深く刻んだ足跡が隠されているような想いがした。

       

       

  尽きることのない回想を振り払うようにして五色沼をあとにすると、私はいっきにアクセルを踏み込み、猪苗代湖畔へ向けてハンドルを切った。そして、猪苗代湖畔沿いの道を湖面を左手に見ながらしばらく走り、会津若松へとルートをとった。時間が十分にあれば、飯盛山をはじめとする旧跡をゆっくり巡ってもみたかったが、この日の行程の都合上そうしている余裕はなかったので、飯盛山の麓を迂回しただけで、会津若松市内を通過した。会津田島まで南下し、田島から桧枝岐に向かおうというのが、当面私が想定したコースだった。
  会津若松と会津田島の間にある芦ノ牧温泉付近にさしかかる頃になると、さすがにお腹が空いてきた。昨夕あらきそばを出発したときは、もう二・三日は何も食べなくてもいいような気分だったのに、今日はもうこの調子だから呆れ果てたものである。芦ノ牧温泉街入口に近い土産物屋の駐車上に急いで車を駐めた我々は、あらきそばで頂戴してきた身欠き鰊と笹包み御飯で朝食をとった。しっかりと煮込まれた鰊とほどよく歯応えのある御飯をじっくりと味わい噛みしめると、芦野家の方々の真心がじわじわと浸み出してくる感じだった。そばに砂糖をまぶし、カラッと揚げたカリントウ風のものも、不思議な風味があってとても美味しかった。
  朝食を終えると、我々はまた阿賀野川の支流大川に沿う国道を南下しはじめた。そして、小野という集落にさしかかったところで西へと分岐する道に入った。緑鮮やかな谷伝いにしばらく走ると、南からのびてきている旧街道に合流した。その地点で北に折れ、すこし進むと、そこが昔ながらの宿場町の面影をいまもとどめる大内宿だった。大内宿は、木曽路の妻籠宿や馬籠宿、奈良井宿などと並んで民俗史上重要な文化遺産を数多く残す集落として知られている。車を集落入り口の駐車場に置き一息つくと、さっそく古い町並みを見学することにした。
  日光東照宮の門前町今市から北にのびる会津西街道は、山王峠を越えて会津田島に入り、田島から会津若松方面へと続いている。田島から会津へ向かう旧街道は、現在の国道とは違い、深く険しい谷と急流の連なる大川筋を避け、大川の西側山間部を縫って会津高田方面へと通じていた。その途中の、小野岳と烏帽子岳という標高千メートルを超える二つの山々に挟まれた谷筋の平地に、大内宿は位置している。集落の中央を走る旧街道は、ゆるやかな坂をなして北の方角へと上っている。道幅はかなり広く、道の両端には快い響きをたてて水の流れる用水路が設けられていた。
  まだ朝早い時刻だったこともあって観光客の姿もまばらで、町並み全体は静かな感じだったが、街道の両側には大きな萱葺き屋根をもつ会津特有の構えの古い家々が立ち並び、往時の繁栄のほどを十分に偲ばせてくれた。歴史資料館や文化財指定の民家などもあり、十分に時間をかけて見学したいところではあったが、越後長岡に午後四時には着かなければならないとあって、どうしても急ぎ足で行動しなければならなかった。昔風の店構えのお土産屋や食物屋の前を揺れる心を抑えながら通り過ぎ、ともかくも集落の最奥部まで歩を進めた。付近に古いお寺などもあるようだったが、そこを訪ねたりするのはまたの機会にということになった。むろん、再訪の機会がいつめぐってくるかは知るよしもないことではあったけれども……。
  大内宿を過ぎると、旧街道は歩いて登るしかない細く狭い山道になっている。道は小野岳の北にある六石岳と前述の烏帽子岳との鞍部を越えて会津高田方面へと続いているが、現在ではその山路を辿る人はめったにいない。我々は山道に入る手前で引き返し、往時の旅人の姿を遠く偲びながら駐車場へと戻っていった。
  大内宿からは旧街道伝いに南下し、中山峠を越えて富栄の小集落を通過、林戸で再び国道に合流するルートをとった。林戸から会津田島までは車で十分ほど、距離にして十二・三キロだった。
  会津田島に入り、市街を南郷村方面へ抜けようとしていると、前方に道路情報の表示板があらわれた。なんと国道二五二号、国道三五二号とも残雪と雪崩のため通行不能とあるではないか。私としては、田島から南郷村を経て三五二号線伝いに桧枝岐に出、そこから尾瀬燧ヶ岳の北山麓を通って奥只見の銀山湖に抜けるつもりだった。途中の雄大な景観は抜群だし、銀山湖から小出に至れば、長岡まではひと走りである。ただこの道は山岳部の豪雪地帯を超えるルートなので、下手をすると残雪で通れない可能性もあるとは思っていた。だから、その場合は、南郷村から只見町に出て国道二五二号にはいり、田子倉ダムの北側を通って小出に抜けるつもりだった。国道二五二号は会津と新潟をつなぐ山岳道路だが、かつて田中角栄が力を入れたというだけのことはあって、広くしっかりとした造りの完全舗装道路である。まさかその道路までがこの時期通行不能であるなんて考えてもみなかった。さきの冬はよほどの豪雪だったのだろう。交通情報には時々実際の状況とはずれたものもあるので、当局に確認の電話を入れてみたが、やはりどちらの国道も通行不能だということだった。
  残されたルートはただひとつ、ずいぶん遠回りにはなるが、もう一度北上して国道四九号に入り、阿賀野川沿いに走って新潟方面に出るしかない。長岡に四時前に着けるかどうかぎりぎりのところだが、とにかくチャレンジしてみるしかない。急遽、田島から北西にのびる県道に車を乗り入れ、相当にカーブの多い小道を越えてまず昭和村へと出た。途中の景観はそれなりに変化に豊んではいたが、それをゆっくり楽しんでいる心のゆとりはなかった。昭和村の手前で会津高田へと続く国道四〇一号へと右折、二・三キロ走ったところで博士山の西山麓を北に縫う県道に入った。
  この県道を下って行くと、ほどなく五畳敷温泉に出た。西山温泉とも呼ばれ、昔からひなびた温泉宿が数軒あるところである。この温泉を初めて訪ねたのは二十数年前で、たしか前述した歯科医の小野さんと一緒だった。その時は逆方向の柳津から五畳敷へと向かったのだが、当時は未舗装の狭く凹凸のひどい道で、結構大変だった記憶がある。この五畳敷の温泉宿の特徴は、数軒の宿それぞれの泉質がまったく異なっていることで、料金さえ払えば他の宿でも入浴できたから、浴衣に下駄ばき姿で温泉めぐりをしたものだった。どの宿の温泉にも昔ながらの素朴な風情と人情が残っており、とても満ち足りたひと時を送った想い出があるが、車から見るかぎりではもうすっかり近代化されている感じだった。

  只見線の滝谷の駅をすこし過ぎたところで二五二号線に合流、柳津の方面へとハンドルを切ったところで、私の脳裏にいまひとつ懐かしい記憶が甦った。やはり二十年以上昔のことで、そのときも小野さんと一緒だったが、一月の初めにここよりさらに奥にある玉梨温泉へと出かけたことがある。郡山を過ぎて会津若松に向う頃から、猛吹雪になった。東北一帯が二・三十年に一度という大雪に見舞われた年のことである。フロントウィンドーにはワイパーの処理能力を超えた雪が降り積もり、窮余の策としてウィンドー・ウォッシャーを使うと、低温のため、たちまちワイパーそのものが凍りつき用をなさなくなってしまう有様だった。ちょっと走っては車を停め、フロントウィンドーの雪や氷を払い落としまた走るという作業を繰り返すうちに、こんどはアクセルやクラッチ、ブレーキの調子が悪くなった。何度も車に出はいりするうちに、靴の裏に付着した大量の雪が落ちてアクセルやクラッチ、ブレーキのまわりに凍りつき、おまけに靴裏の雪までが氷結してしまったのである。そのため、アクセル、クラッチ、ブレーキの動きが悪くなったうえに、踏んでも靴裏がつるつるに滑るため、思うがままに運転ができなくなってしまったのだった。古い車のため、ヒーターの利きが悪かったのも一因だったが、最大の原因は異常な降雪と苛烈な寒気だった。
  それでも会津若松まではまだよかった。路面を覆う深い新雪に加えて、新雪下の路面そのものはガチガチに凍結していたから、柳津にさしかかる頃になるとチェーンもほとんど利かなくなった。地元のタクシーなども何台か道端で動けなくなっていた。スコップをふるって行く手の雪を排除したり、滑り止めの砂を撒いたりしながら、亀のような速度で一進一退を続けた。国道二五二号から分岐して玉梨温泉、さらには昭和村へと通じる道はいまではすっかり拡幅整備され、舗装道路になっているが、当時は急坂の悪路だった。この道を上りはじめる頃になると、まるで車ごと氷上をスケートしているみたいに、右へ左へとスリップを繰り返し、幾度となく車体が進行方向と四五度の角度をなして停まる有様だった。正直なところ身に危険を覚え引き返そうかとも思ったが、そうしたくてもUターンができない。だからといってその場で動けなくなってしまったら、事態はいっそう悲惨である。最後の蛮勇をふるい起こし、ほうほうの体で宿に辿り着いたときには、時刻は夜の十一時を過ぎていた。その頃たった一軒しかなかった温泉宿の御主人から、「よくもまあ、こんな悪天候の中をお出でになられましたねえ。地元の者でもこの雪じゃ誰も動いたりしませんよ。てっきりお泊りはないものと思っておりました」と大いに呆れられもした。雪路にも強い現在の四駆のワゴン車でもどうかと思うくらいなのに、よくもまあ、あの旧式の老朽車で無謀なことをやったものである。
  小降りにはなったが、雪は翌日もやまなかった。もしかしたらという予感通り、その後起こった雪崩と想像をはるかに超えた積雪のために道路は完全に不通となった。そして、道路が再び開通するまでの間、我々は玉梨温泉付近に閉じ込められるはめになってしまった。仕方がないので、翌日は近くの小集落を散策し時間を潰すことになったが、想いもかけぬ光景にめぐりあったのはその時だった。
  屋根に積った厚さ一メートル以上の雪を大きな木製の雪ベラを巧みに使っておろしている老人に話しかけると、冬の厳しさと戦う雪国の苦労を、ユーモアを交えながらも切々と語ってくれた。屋根に上って雪おろしを体験してもよいというので、茶目気を起こしてちょっとだけ手伝わせてもらったが、三・四十センチの厚さずつ何層かに分けて表層部から徐々に雪を降ろす作業は、想像以上に熟練と体力を要する仕事だった。十分ほども雪おろしを続けていると身体中が汗ばみ、足腰が重たくなってきた。迅速に事を運ぼうと、屋根の軒先寄りの雪をいっきに取り除いたりすると、屋根の上方部の厚い圧雪層が急に動き滑りだして作業者もろとも地上に崩落しかねない。雪おろし作業中に屋根から落ちたり、雪に圧し潰されたりして負傷者や死者がでるのはそのためである。老人の話によると、雪おろしには鉄製のスコップなどよりも、昔ながらの木の雪ベラのほうがずっと効率的で屋根も傷めずにすむということだった。
  雪おろしも印象深かったが、そのあとでたまたま目にした光景は衝撃的でさえあった。その小集落の一隅に共同墓地があって、そこで埋葬の儀式が行われていたのである。一帯は深さ四・五メートルはあろうかという雪に一面覆われてしまっていて、墓地そのものは我々の目にはまったく見えなかった。線香や数珠を手にした人々に守られるようにしてお棺と思われるものが近くまで運ばれてきていたから葬儀には間違いなかった。どうするのだろうと不思議に思ってもっと近づいてみると、なんと、雪面の一角が一辺五・六メートルの正方形に仕切られ、そこだけが深く堀り下げられているではないか。そして、暗く四角いその穴の底に向って梯子が掛けられているのだった。
  穴の底がどうなっているのか部外者の我々は知るよしもなかったが、土葬なのは明らかだったから、お棺を埋めることができるように穴の底の冷たい地面はさらに深く掘り下げられていたに違いない。無雪期であっても土葬の場合にはかなり深く地面を掘り下げなければならない。想像しただけでもその作業は容易ではなさそうだった。埋葬の参列者の一人にそっと尋ねてみると、亡くなったのは九十才をすこし超えた老婆だとのことだった。その人の言葉をそのまま信じるとすれば、その老婆は生まれてから亡くなるまでずっとその地を離れたことがなかったという。現在では考えられない話だが、当時の山村や漁村にはまだそのような人々がわずかだが存在していたのである。
  私と小野さんとは、そこに釘付けになったまま、中で老婆の眠るお棺が梯子伝いに穴の底深くにおろされる様子を見つめていた。半年は深い雪に閉ざされる豪雪地帯山村の小集落に生まれ、ささやかな喜びや楽しみはあったろうが、多分その何十倍何百倍もの苦しみと悲しみに耐えて生き、そして生涯誕生の地をひとたびも離れることなく永遠の眠りについた老婆が、いま厚いあつい雪の下の暗く冷たい土の底へと還っていく……それは、生きるということの意味を根底から考えなおさせられる壮絶きわまりない光景であった。奇妙な偶然の取り合わせでその老婆が地中へと戻る瞬間に立ち合うことになった我々は、一度さえもその姿を拝することのなかった柩の中の人生の先達に向って御苦労様と手を合わせたような次第だった。
  翌々日の午前中になってようやく道路が通行できるようになった。帰り仕度をすませ、いざ車を動かそうとしてみたが、連日の寒気であちこちが凍結したらしく、エンジンは微動だにしない。あちこち叩いたり揺ったりしてからチョークを絞り込みスターターを回してみたが、すぐに止ってしまってどうにもならない。ガソリンだけを大量に吸い込んみプラグが濡れてしまったこともあって、事態は悪化するばかりだった。万事休すかと諦めかけたが、最後の非常手段をと思い立ち、宿に戻って大きなヤカン一杯の熱湯をもらってくると、それをエンジンに思いきり浴びせかけた。そして湯煙の途絶えぬうちにエンジンをかけると、頼りなげながらもなんとか動きだした。エンストしないように注意しながらエンジン全体の温度が上がるのを待って、ようやく我々は玉梨温泉をあとにしたようなわけだった。

  柳津を過ぎしばらく走ったところで国道二五二号線は国道四九号線と合流した。合流地点で左折、四九号線伝いに新潟方面に向って西進しはじめたが、かなり車が混んでいて思うようには進めない。やはり小出、長岡方面に直接通じる二つの国道が通行止めになっている影響だろう。長岡駅午後四時五分発の雷鳥四四号に渡辺さんを乗せるには遅くとも三時五〇分くらいには駅前に到着しなければならないが、この調子だと間に合うかどうかわからない。渡辺さんには黙っていたが、私は内心少なからず焦っていた。先を急ぐそんな私の気持ちのゆえか、四九号と並行して西にのびる阿賀の流れまでが妙にのんびりとしているように思われた。阿賀野川両岸の若緑は鮮やかだったが、残念なことにそれをゆっくりと眺めている暇はない。はじめの予定では長岡に着くまでにどこかで温泉にはいるつもりだったが、とてもそれどころではなくなった。渡辺さんとの旅の終りを間近にして、なにやら「現実」あるいは「日常生活」という名の魔物がしばしの眠りから醒めて再び蠢きだした感じだったが、このままずっと旅を続けるのでないかぎり、それはどうにも仕方のないことだった。
  津川町に着いたところであらためて長岡方面への最短ルートを検討しなおし、国道四九号線に別れを告げて阿賀野川にかかる橋を渡った。そして五泉、村松を抜け、さらに加茂市、三条市を経て国道八号線に出た。国道八号に出たら、あとは長岡までひと走りだった。
 渡辺さんとのこの旅の出発地点長岡駅に到着したのは午後三時三十分で、結果的には当初の予定時刻にぴったり間に合った。走行距離数二八八九キロメートル、九泊十日にわたる旅はこうして無事終了した。九泊すべて車中泊という徹底ぶりだった。幸い天候には恵まれ、青森県岩崎村黄金崎周辺での半日だけが全行程中で唯一の雨天だった。
  旅の全行程に要した費用は、食費、車の燃料費、有料道路料金、各種施設利用料金のすべてを含めて五万五千三百円、一日一人当たりになおすと二七六五円であった。総費用のうちで意外に大きな割合を占めたのは一日平均一人当たり七・八百円にのぼる各地での温泉入浴料だったから、温泉のハシゴをもうすこし慎んでいたら、もっと安上がりの旅になったことだろう。いまどき信じられないと思われる方もお有りだろうが、この集計値に間違いはない。若い者ならともかく、よい歳をした大人がよくもまあ馬鹿げた真似をと絶句なさるむきも少なくなかろうが、そのような声に対しては、「はいおっしゃる通りアホなんです」と自らの愚かさを素直に認めるほかはない。
  午後四時五分長岡発の雷鳥四四号で若狭への帰途につく渡辺淳さんを私は一人ホームで見送った。列車が遠ざかるのを見届けてから駅前に駐めてある車に戻った途端に、空がみるみる暗くなり稲妻まじりの大粒の雨が降りだした。まるで天空の雷様が、我々の旅が終わるのをしびれをきらして待ちこがれていた感じである。どうやら、梅雨前線が長岡市周辺まで北上してきたものらしい。激しい雨の中を突いて新潟群馬両県境の三国峠付近にさしかかると、二、三メートル先も見えないほどの濃霧となった。フォグランプをつけ徐行運転でカーブの連続する峠道を越えたが、猿ヶ京温泉付近までは濃い霧は晴れなかった。ラジオに耳を傾けると新潟南部から関東地方一帯は完全に梅雨入りしたと報じていた。途中で仮眠をとったり、旅の余韻にひたったりしながら、のんびりと一般国道を走り、六月八日の午後十一時五十分頃に東京府中の自宅に帰り着いた。府中から長岡までの往復距離五九六キロメートルを加えると、全走行距離数は三四八五キロメートルに達していた。
  (了)




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