「マセマティック放浪記」 1999年10月20日
Mathematics Odyssey October 20, 1999
  奥の脇道放浪記(8)
白神山地と湖畔の幻夢
絵・渡辺 淳

 
  翌朝は比較的遅めの午前九時半に出発した。昨日と違って天気もよかったが、こころなしか、光は淡い感じがした。陸奥岩崎の集落から白神山地の北部を走る弘西林道を経て西目屋に抜けようと思ったが、林道入り口近くに、深い残雪と道路崩壊のためなお通行不能との警告表示がなされていた。例のごとくまた現場まで突っ込んで、わずかな可能性にかけてみる手もなくはなかったが、過去に二、三度この林道を走ったことのある私は、状態がよいときでさえ大変な悪路であることを知っていたので、即座にに撤退を決意した。
  あとは、五能線の走る海沿いに北上し、深浦、大瀬戸と経て鰺ケ沢方面へと抜けるしかない。私は国道筋に車を戻すと、グイとアクセルを踏み込んだ。穏やかに晴れた空のもとであるにもかかわらず、車窓左手に広がる日本海が、どことなく陰りを帯びた青い色に輝いて見えるのは、午前の太陽が右手の陸地側から射し込んできているせいなのであろうか、それとも、単に心理的な問題なのであろうか……。
  千畳敷の岩場で知られる大戸瀬崎をまわってしばらく走りと、斜め前方に鬼面を想わせる山容の、ひときわ大きな山が見えてきた。津軽の名山、「岩鬼山」である。岩鬼とはよくいったもので、その頂上部にある三つほどの岩峰がうまく組み合わさって、恐ろしげな鬼の顔に見えるのである。津軽の名山、「岩鬼山」と書いたが、そんな山があったかなと首をひねられるむきも多かろう。実はこの山、眺める方向や眺める距離によって姿形が異なって見えることもあって、別の名で呼ばれることも少なくない。いや、そのほうが一般には通りがいい。津軽富士として名高い「岩木山」といえば、どなたでも、「そうか!」と納得なさるはずである。岩木山の「木」と岩鬼山の「鬼」とは音読みが同じで「き」あることを思うと、岩鬼山という呼び名のほうが本来の名称だったのではなかろうか。
  ついでに述べておくと、岩木山は、北東側の五所川原あたりや南側の弘西林道方面から眺めると、秀麗なコニーデ型の山に見える。東側の弘前あたりからだと、西側からの眺望と同様に恐ろしげな形に見えるが、同じ東側でも黒石あたりより東の一帯から望むと、遠目になるせいで、やはりコニーデ型の独立峰に見える。
  ほどなく、鰺ケ沢町赤石の集落に入った我々は、そこから、白神山系二ッ森山一帯を源流とする赤石川伝いに赤石林道を遡り、弘西林道に突き当たる赤石橋から東に進路をとって、西目屋に抜けることにした。せめて弘西林道の東半分くらいは走破して、初夏の白神山地の自然の息吹の一端くらいは味わいたいものだと考えたからにほかならない。

       

  途中の熊ノ湯温泉付近までは鋪装された快適な道路が続いていたが、それから奥に進むにつれて、林道はゴツゴツした岩のむきだす、段差だらけの悪路となった。道幅も狭まったうえに、急角度の傾斜をなして左右に激しくうねっているから始末が悪い。エンジンは拷問に悶える囚人のような音をたて、ハンドルがバイブレータのように絶え間なく振動するので、手先の感覚がなくなってしまいそうだった。おまけに、断続的にガーンという衝撃をともなって車が宙に跳ね飛ぶために、浮き上がった身体がシートに激しく叩きつけられたりして、いまにも内蔵がとびだしてしまいそうな感じだった。
  こんなひどい道を走るのははじめてのことだとおっしゃる渡辺さんを横目に、それでも私はハンドルを握りつづけた。さいわいというか、私のほうは、これに類する道を何度となく走ったことがあるし、以前は目指す弘西林道そのものが、これよりもっとひどい悪路だった記憶があるから、すこしもひるむことはなかった。むろん、過去にそんな体験の蓄積がなかったら、途中で臆して退散してしまっていたかもしれない。
  道はひどかったが、赤石渓谷沿いの緑の美しさは格別で、それがなによりの救いとなった。世界自然遺産に指定されたブナの原生林のある白神山地中心部からはずいぶんはずれているにもかかわらず、見事なブナの林が道の両側に広がっている。そして、弘西林道との出合い地点が近づくにつれて、渓谷は深まり、樹相も密になってきた。目指す赤石橋に到着したのは、昼前だったように思う。
  弘西林道の赤石橋付近は、以前と違って道が拡張整備されており、現在も道路拡張工事が続行されている様子だった。たぶん、弘西林道全体を整備し、観光で訪れる車の通行の便宜をはかろうということなのだろう。赤石橋の近くに臨時に設置された警告表示板に目をやると、道路崩壊と修復工事中のため、西目屋方面にも岩崎村方面にも通行不能だと記されていた。世界自然遺産にも指定された白神山地最大のブナ原生林が広がる追良瀬川や笹内川の源流域に行くには、赤石橋から西に向かって二つほど大きな山越えをしなければならない。現在どの程度整備されているのかはわからなかったが、過去の記憶からすると、赤石林道以上の凄まじい悪路であった。その道が崩壊して工事中とあればよほどのことなのだろう。可能なら追良瀬川流域まで入り込みたいと思っていたのだが、結局、それは断念せさるを得なかった。
  赤石林道は、弘西林道とクロスしたあと、さらに秋田県境に近い赤石川源流域までのびており、この一帯のブナの原生林をはじめとする自然も素晴らしい。西目屋方面から弘西林道経由で私がはじめてこの地を訪ねたときには、この赤石川源流域にも車ではいることができた。だが、現在はその方面への入り口も厳重な鉄ゲートで閉ざされていて、車では赤石橋から先に進むことはできないから、それ以上は徒歩に頼るしかない。世界自然遺産に指定されたあと、自然環境の悪化を恐れて地元の林業関係の車をも締め出すことになったのだろうが、それは適切な処置だったといってよい。
  もともと、この白神山地をはさむ青森側と秋田側のあいだには生活道路の含みをももったスーパー林道の建設が行われる予定であった。青森県の西目屋と秋田県の藤里町あたりとを直接につなぐことによって、両県の経済や文化の交流を活発にし、地域のの活性化をはかろうということだったらしい。地理的にみてそれなりの説得力をもつ開発計画ではあったので、当時の秋田県知事をはじめ地元には支持者が多く、一時は建設が強行されようとした。だが、心ある人々のあいだから、貴重な自然環境が破壊されるという強い反対の声があがり、二転三転したあと、ようやく道路の建設が中止になった経緯がある。この一帯が世界遺産に指定されたのは、それからしばらくしてからのことであった。
  車を降りた我々は、新しく架けなおされたばかりの赤石橋のうえに立ち、深い緑に包まれた赤石渓谷周辺の景観を眺めやった。当初の思いと違って、壮大なブナ林を渡辺さんに見せてあげられなかったのは残念だが、状況が状況だっただけに、ここまで来られただけでもよしとするしかなかった。
  なんとか西目屋方面に抜ける手だてはないものかと、もういちどつぶさに警告表示板の注意書きを読むと、ここから四・五キロ東へいった四兵衛森山付近から先が通行不能になっているという。どうあっても、もう一度赤石の集落に戻り、鰺ケ沢へとでるしかないようである。渋々ながら、我々は再び赤石林道を戻りはじめた。来るときには素通りしてきたが、赤石橋から三十分ほど下ったところに休憩所らしい施設があったので、その前に車を駐めて昼食をとることにした。すぐそばの沢には水場があって、冷たい清水が流れている。まずは喉を潤し、顔を洗い、そして、ペットボトルにその水を詰め込んだ。大気は澄み、気温もほどよく、若緑の木立を吹き抜ける風も爽やかで、当然のように食欲も進んだ。
  昼食後、我々以外にはまったく人気のないログハウス風の休憩施設をのぞいてみると、驚いたことに、これがなんとも立派な造りの建物だった。ごく最近建てられたばかりらしく、なにもかもが真新しい。もしかしたら、一般の来訪者では、我々二人が最初なのではないかとさえ思われた。中はしっかりした二階建ての構造になっているうえに、燃料や食料その他の物資を保存するための広い地下室まであり、水道、トイレ、炊事用台所が完備、さらには、数十人は楽に寝泊まりできるほどのスペースをもつ暖房設備つき洋間、新品の畳敷きの部屋、上空や周辺の景色を眺めることができる洒落た天窓と、至れり尽くせりなのである。しかも、常時無料で開放されていて、誰もが自由に利用できるようになっているらしい。
  明らかに厳冬期の利用をも想定したとおもわれる、そのしっかりした造りから察すると、冬季に白神山地に分け入る人々のための無人避難小屋の役割をも担っているのだろう。これが夕方のことならば、すぐにもこの施設に泊まることにしたに違いない。そうでなくても、一晩ここに泊まっていきたい気分だったのだから……。板彫りにして入り口に掲げられているこの施設の名にあらためて目をやると、「白神さん家(しらかみさんち)」となっているではないか。誰か考えたのかは知らないが、なんとも洒落た名前である。もちろん、「白神山地」にも掛けてあるのだろうが、その名称の発案者のウイットには、唯々脱帽するばかりだった。
 「白神さん家」をあとにし、三十分ほど赤石林道をくだると、「くろくまの滝」見学路入り口に着いた。ついでだから滝を見ていこうということになり、車を降りて、深いブナ林に覆われた渓谷沿いの林道を二十分ほど奥のほうへと分け入った。ブナの巨木の間を縫い、残雪に半ば埋もれた巨大な倒木をいくつか踏み越えて進むと、落差八十五メートルもあるという水量豊かな滝の前に出た。激しい水煙が立ち昇り、折からの風に乗ってあたり一面に霧雨となって降り注いでいる。どうして「くろくまの滝」という名がつけられたのかはわからないが、滝壺の周辺によく熊でも出没し、水浴びでもするのであろうか。名称の由来は気になったけれども、このあたりの熊たちと挨拶を交わす予定はとくになかったので、我々は、耳をつんざくような轟音のなかで四、五分間その壮観な滝に見とれたあと、車へと戻った。
  赤石林道を引き返し、再び赤石の集落を抜けて鰺ヶ沢の中心街にでたあとは、岩木山の西から南山麓を巻いて弘前市に至るルートをとった。左右にゆるやかなカーブを描きながら快適なドライブウェイが続いている。高度が上がるにつれて周辺の地形が高原状に変わり、いっきに展望が開けてきた。大きく傾いた西陽に輝き映える若葉は、またとない心の清涼剤だ。赤味の増した陽光に染まる岩木山頂の巨大な岩峰は、旅人に睨をきかす赤鬼の顔そのままである。

       

  弘前に近づくにつれて、岩木山麓を縫う道の両側いっぱいによく手入れの行き届いたリンゴ畑が広がりはじめた。さすがはリンゴの本場だけのことはある。リンゴの熟す季節にはまだ何ヶ月もあるが、我々は赤い実のたわわになる光景を想像しながら農園沿いの道を走り抜け、弘前市街に入った。そして、市街の中心部をいっきに通過すると、黒石方面へとハンドルを切った。夕陽を背に車は一路東へと疾走し続けた。
  黒石市に入る頃には、真っ赤に燃える太陽が岩木山の右肩に落ちかかった。西の空は一面荘厳な赤紅色に染まっている。我々は車を停めてしばしその凄じい大気の炎上に見入っていた。やがて太陽が稜線の向こうに沈むと、黄昏の空を背にして、岩木山のシルエットが幻想的な色合いを帯びて浮び上がった。さすがは津軽富士である。
  助手席に坐るのが、渡辺さんではなく、誰か素敵な女性だったらもっといいのになあ、などというよからぬ思いが一瞬脳裏をよぎったが、そんなことなどつゆ知らぬ渡辺さんは、西空を見つめたままである。いや、もしかしたら渡辺さんは渡辺さんで、運転席にいるのが私でなかったらと、考えていたのかもしれない。
  黒石市を抜け十和田湖へと向かう途中で一風呂浴びたくなった我々は、いったん脇道に入り、進行方向左手の山奥深くに眠る青荷温泉を訪ねてみることにした。エンジンを唸らせながらぐんぐんと急峻な山道を登り、山ひだのいちだんと深く入りくんだところにある青荷温泉に辿り着いたときには、あたりはかなり暗くなっていた。お目当ての青荷温泉の雰囲気は、想像通り秘湯の名に恥じないものだった。だが、残念なことに、日帰り客は夕方五時までで、それ以降はお断りとの注意書きが入口の脇に立てられていた。鶴の湯でのような幸運をもう一度とも思いかけたが、世の中そうそううまくはずがない。深山の湯に未練はあったが、いろいろと状況を検討した結果、ここはいさぎよく撤退しようということになった。再び国道に戻る途中の山岳路から遠望する岩木山は神秘的な輝きの微光にふちどられ、その姿は一幅の絵巻きそのものだった。



  十和田湖北西側の展望台に着いたときには既に午後九時を過ぎていた。ヘッドライトを消し車から降りて深い闇の中へと一歩踏み出すと、頭上遥かな天空から無数の星の光がシャワーとなって降りかかってきた。久々に目にする感動的な星空である。
  再び車に戻った我々は十和田湖西岸をまわって湖岸南端の和井内に移動し、そこの駐車場で一夜を明かすことにした。この地には、度重なる失敗の末に、十和田湖でのヒメマスの養殖に成功した和井内貞之の偉業を讃える碑が建っている。
  遅い晩飯の仕度をし、それを食べ終える頃になって、ようやく東の空からお月様が姿を現した。そして月が昇るにつれて、うっすらと霧のかかった十和田湖の湖面が淡い輝きを発しはじめ、どこか不思議なその光が私の記憶の地層深くをほのやかに照し出した。
  そういえば、あの晩も美しく静かな月夜だった。まだずいぶんと若かった私は、とある女性とともに訪ねたこの湖畔に佇んで、見えない未来を見えるふりをして見つめていた。そして、時の流れたいま、未来の何たるかをそれなりに悟った私は、淡い光を発して湖面に漂う夜霧の奥に、いささかの傷みを秘めておぼろに浮ぶ遠い過去を見つめている。若き日の未来の想像図といま見る過去の回想図とは、表裏一体となって、不思議な感動を私の胸にもたらした。「翔ぶということは痛いということなのね」という返事に窮するような言葉を残した、その髪の長い人物の端麗な面影を、私は懐しく想い起こした。  
  翌朝は午前七時半に和井内を出発、休屋に立ち寄って湖畔に立つ高村光太郎作の「乙女の像」を訪ねてみた。どういういきさつでこの彫像にそのような呼称がつけられたのかは知るよしもなかったが、ふくよかでどっしりと大地に根を下したような体つきのそれら二体の女性の裸形は、むしろ「母像」、あるいは「おばさんの像」とでも呼んだほうがよい感じがした。むろん彫像としては大変優れたものなのだろうが、いくらなんでも「乙女」はないだろうなというのが率直な想いだった。もっとも、それは、芸術的な眼をもたない私の偏見だったのかもしれない。気になって、後日、光太郎の晩年の作品を調べてみると、次のような詩が目にとまった。

  十和田湖の裸像に与ふ    高村光太郎

すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
  天然四元の平手打をまともにうける
  銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人 
  影と形のやうに立っている
  いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくずれるまで
  この原始林の圧力に堪へて
  立つなら幾千年でも黙って立ってろ

  この詩を読むかぎりでは、「乙女の像」という題名に直接つながる言葉はどこにも出てこない。また高村光太郎論などを読むと、光太郎がこの像を製作するとき実際にイメージしたのは無垢な乙女の姿ではなく、かつて苦楽を共にした女としての智恵子だったとも述べられている。美術の研究を専門とするある知人の言によれば、「裸婦群像」というのが本来の作品名ではなかろうかということだった。その真相のほどはともかくとして、「乙女」であることに自信のなくなった女性があれば、十和田湖畔を訪ねてこの像を仰ぐがよい。かならずや「乙女」としての自信を取り戻すことができることだろう。
  休屋をあとにすると、瞰湖台展望所、子の口を経て、十和田湖北岸にそびえたつ御鼻辺山へ向って車を走らせた。子の口を過ぎしばらくすると道は急峻になり、エンジンが激しい唸りをたてはじめた。高度が上がるにつれ、薄緑色に煙るようなブナ林が現われた。やわらかな新芽を吹き出したばかりのブナの樹々の根元一帯はまだ深い残雪に覆われ、地肌はまったく見えない。車を停めて高さを競うブナの大木を眺めながら、ふと根元の雪面に視線を落とすと、野生の小動物の足跡とおぼしきものが、点々と林の奥へと続いていた。
  十和田湖随一の景観を誇る御鼻辺山展望台周辺には、我々のほかに人影はなかった。崩落の危険があるというので展望台は立ち入り禁止になっていたが、ちょっとだけお許しくださいと警告を無視して展望台に立つと、美しく静かな湖面が目下の視界いっぱいに広がった。はじめてこの御鼻辺山の頂きに足跡を刻んだ古代の山人の気分になったような思いだった。

     



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