「マセマティック放浪記」 1999年10月6日
Mathematics Odyssey October 6, 1999
  奥の脇道放浪記(6)
乳頭温泉郷と月下の田沢湖
絵・渡辺 淳


乳頭温泉郷と月下の田沢湖――角館の武家屋敷から田沢湖へ

  翌朝は七時半に起床し、カップラーメンと茹卵で簡単に食事をすませたあと、田沢湖方面に向かって出発した。本庄から内陸にはいり、大曲、中仙北、角館を経て田沢湖へ抜けるというのがこの日のおおまかな予定ルートだった。本庄から国道一〇五号沿いに北上、大内町を経て大曲方面へと東進する頃には、それまで時折振り返っては眺めていた鳥海山の大きな山影もはるか後方に遠ざかり、やがて我々の視界から消え去っていった。
  角館に着いたのは午前十一時頃だった。角館は武家屋敷がいまだに当時の面影をとどめている場所として名高い。せっかくだからちょっと立ち寄っていこうかということになり、表町下丁近くの駐車場で車を降りた。周辺の町域全体が風致保存地区に指定され、街並みや建物の隅々にいたるまできめこまやかな配慮が行き渡っているせいだろう、何気なく歩いていても、まだ時間の流れのゆるやかだった藩政時代に戻ったような錯覚におそわれる。石黒家、青柳家、河原田家、小野田家といった武家屋敷が街路に沿って並んでおり、それらの古い門構えの屋敷からは、大小の刀を腰に差した丁髷姿の侍がいまにも飛び出してきそうな雰囲気だった。

       

  我々は、現存する角館の武家屋敷のなかでもっとも昔のままの面影を留めているという石黒家を訪ねてみた。堅固な構えの門を入ると、正面に二層の大きな寄せ棟屋造りの母屋が現れた。見事な造りの母屋からは、斜め後方にのびるかたちで、ずっと奥の大きな土蔵のほうまで建物がつづいている。母屋の土間に靴を脱ぎ、廊下にあがって時間の眠る広大な庭を眺めると、なんとも落ち着いた気分になった。洗練された石組み、庭苔、巨大な古木をはじめとする心憎いばかりの庭木の配置など、地方の武家屋敷にしてはなんとも贅を尽くした造りである。
  母屋を支える柱の一本いっぽんも、また、床の間をはじめとする室内の要所の造作も風雅を極めたものになっていて、実に素晴らしい。最後に足を運んだ大きな土蔵のなかには、石黒家に代々伝わる数々の調度品や武具類が展示されていたが、いずれ劣らぬ貴重な品々ばかりで、往時の角館武家の優雅で豊かな生活ぶりと交流の広さが偲ばれた。石黒家は佐竹北家の財政を預かる納戸役や勘定役を務めていたらしい。
  もともと角館の武士たちは藩主の家臣であった佐竹氏の家臣、すなわち、陪臣であった。直臣ではなく、直臣の家臣という、当時としてはけっして高いとはいえない身分のゆえに、禄高もせいぜい百石程度に抑えられていたという。下級武士としてのその禄高からすれば窮乏生活を余儀なくされてもおかしくない彼らが、どうしてこのように立派な屋敷を構え、それほどに豊かな生活を営むことができたのであろうか。
  角館の武士たちは幕末近くになると、地の利を活かして、絹製品、菅笠、樺細工、樹皮加工などの殖産と技術の研鑚に積極的に取り組み、それによって、彼らの禄高からは想像もつかないような屋敷家屋を維持できるほどの財力を得たのであった。いまでは全国各地の土産物店で目にする桜の樹皮を張った茶筒や細工類なども、昔はこの角館の特産品で、莫大な収益源になったのだという。いろいろと知恵をしぼったあげくに、彼らは、小型にして軽量で、しかも値の張る特産品を考案し、それらを広く流通させた結果として多大な利益を手にしたのである。むろん、地理的条件にともなう土地の安さや建築資材の入手のしやすさなども、壮麗な武家屋敷構築を可能にした一因だったのではあろう。
  一通り武家屋敷群や資料館などを見学したあと、うどんの老舗「稲庭」で昼食をすませた我々は、車に戻り、国道四六号を田沢湖方面に向けて走り出した。すると、角館市街を抜けてほどなく、「抱き返り渓谷方面へ」と記された案内標識が目に飛び込んできた。男心を妖しく誘うその呼称に一目惚れした我々は、一も二もなく標識の指す方角へと車を乗り入れることにした。それからほどなく渓谷入り口に着いたのだが、駐車場が混雑しているうえに、渓谷の奥に入るにはそこからさらに谷沿いに歩かねばならないらしい。渓谷を遡るといくつか滝があるということだったが、見たところ、景観に格別な特徴のある渓谷でもなさそうだったし、こう人が多くては、たとえ谷奥から妖艶な美女が現れても、ひそかに逢う瀬を楽しむわけにもいかない。たちまち夢破れた我々は、「抱き返し渓谷」ならもっと意味深になるのになどど囁きあいながら、そそくさとその場から退散したのだが、国道へと戻る途中、たまたまあの有名な劇場「わらび座」を目にすることができたのは、ちょっとした収穫だった。
  田沢湖町が近づくにつれ、頂上部の稜線が平な秋田駒ヶ岳の姿が大きく眼前に迫ってきた。急に一風呂浴びたくなった我々は、田沢湖畔を訪ねるのはあとまわしにし、まずは、駒ヶ岳とそれに連なる山々の懐深くに抱かれた乳頭温泉郷へと向かうことにした。田沢高原への道に入ると、高度はぐんぐんあがり、いっきに展望が開けてきた。二人して思わず驚嘆の声をあげたのは、田沢国民休暇村の駐車場まで登ったときだった。明るい陽射しをいっぱいに浴びて、駒ヶ岳をはじめとする前方の山並み全体が、夢かとまがうばかりに艶やかな輝きを発していたからである。「やわらかな」という形容詞がこれほどまでに似合う緑に私はついぞ出逢ったことがなかった。渡辺さんがすぐさまスケッチブックを取り出したことは言うまでもない。



  国民休暇村を過ぎるとすぐに車は深いブナ林の中にいり、それを待っていたかのように、道のほうもくねくねとした細く急な坂道となった。ハンドルを左右にさばきながら道路脇にちらちら目をやると、あちこちにかなりの数の水芭蕉が群生しているのが見える。どうやら花を開いてまだ間もないらしい。ブナ林を抜けて乳頭温泉郷の最奥にある黒湯の駐車場に着いたのは、午後四時前くらいだったろうか。駐車場のなかの小高くなったところから谷向こうの山筋を眺めやると、乳首のぴーんと張った若い女性の乳房そっくりの山影が目にとまった。それが、乳頭温泉郷という名称のもとともなった乳頭山の頂であることは明らかだった。
  黒湯温泉は乳頭山から流れ出る先達川と湯森山からから流れる黒湯沢が合流する谷合にに位置している。延宝二年(一六七四年)頃にはすでに秋田藩主佐竹本家の湯治場として知られていたというだけのことはあって、どっしりとした造りの黒い茅葺き屋根の建物が、内に秘めたその歴史の重みをすぐさま我々に語りかけてきた。すぐそばの沢のいたるところからはこんこんと温泉が湧き出ており、一帯には湯気と硫黄の煙がもうもうと立ちのぼっている。一人五百円の入浴料を払ってはいった露天風呂は白濁した酸性の硫黄泉で、湯加減もほどよく、たちまち肌がつややかになる感じだった。秘湯と呼ばれるだけのことはあって湯舟から眺める沢の景観は実に素晴らしく、渡辺さんなどは、湯舟にインスタントカメラを持ち込んでしきりに周辺の景色を写しておられたほどだった。いまは一面に新緑が映えわたっているが、秋にはその若葉の一枚いちまいが見事な紅葉に変わることだろう。また、すぐ近くには黒湯という呼称のもとになったとおもわれる、黒っぽく透きとおった色の単純硫化水素泉の浴室もあって、我々の身体を奥底から温め、知らず知らずのうちに張り詰めていた全身の筋肉をやわらかくほぐしてくれた。
  黒湯で身体を洗い清めたあと、我々は沢沿いの道を徒歩で五分ほどくだったところにある孫六の湯を訪ね、温泉のハシゴをすることにした。雪融け水がほとばしる先達川を見下ろしながら橋を渡ると、なんともひなびた温泉宿が現れた。むろん、孫六の湯である。乳頭温泉郷のなかで湯治場としての風情をもっとも残しているというこの温泉は、「山の薬湯」などとも呼ばれているらしい。泉質の異なる四つの浴場と露天風呂があって、なかでもラジウム含有泉は特に薬効があるらしかった。水音の激しい渓流のすぐ脇にある露天風呂はすこしぬるめだったが、天然の岩を組んでできた湯舟から眺める清流の美しさや、やさしくあたりを包むブナ、トチなどの緑の息吹に感嘆するうちに、身体もほかほかと温まってきた。
  露天風呂のすぐ隣の木造りの小屋の中にある石の湯は、大きな一枚岩をくりぬいた浴槽に澄んだ深緑色の単純泉が満々と湛えられていて、湯加減もほどよく、これまた実にいい雰囲気だった。我々のほかには入浴客はおらず、貸し切り状態だったから、もう言うことはなにもなかった。帰りぎわ、孫六の湯の宿泊所脇に湧いている清水を口にしてみると、冷たくコクがあってとてもうまかった。そこで、いったん車に戻ったあと、空のペットボトル五本を携えてもう一度引き返し、ミネラルをふんだんに含んだその水をいっぱいに詰め込んだ。孫六の湯を訪ねる機会のおありの方には、ぜひともこの水を試飲なさってみるようにおすすめしておきたい。
  黒湯、孫六の湯をあとにした我々は、いったん国民休暇村のあるところまで戻り、そこから、妙乃湯、大釜温泉を経て蟹場温泉へとつづく道へとわけいった。これら三つの温泉はいずれも先達川沿いにあって、黒湯、孫六の湯の下流側に位置している。妙乃湯のところで先達川を渡ったが、若緑のブナ林を深く刻むその美しい渓谷には、ちょっと言葉では言い尽くせないような懐かしさが感じられた。渓谷美を背景にした露天風呂が売り物の妙乃湯、そして原始的な景観と九八度の源泉をもつ大露天風呂で名高い大釜温泉を過ぎてしばらく進むと、道が行き止まりになった。前方に目をやると、新しい造りの宿が見えている。そこが蟹場温泉だった。どうやら、付近の沢に蟹がたくさん棲息していることにその名は由来するらしい。昔は自炊の湯治場だったというこの温泉は、やはり、原生林に囲まれた露天風呂で知られているが、時代の流れを反映してか、いまでは乳頭温泉郷のなかでもっとも立派な温泉宿になっている。また温泉のハシゴをという思いもあったが、夕暮れも迫ってきたし、まんいち湯あたりでもしたら困るので、蟹場、大釜、妙乃湯の三つの温泉については、とりあえず宿の雰囲気だけを外から眺めてすまそうということになった。
  再び大釜温泉、妙乃湯の前を過ぎ、田沢国民休暇村を経て、「秘湯・鶴の湯温泉入口」としるされた案内板の前まで来たときにはもう五時半を回っていた。いったんは通り過ぎようと思ったのだが、こまったことに、看板の「秘湯」という強調文字が我々の心を捉えて放さない。「秘薬」という文句につられてついつい怪しげな薬を買ってしまうときと同じ心理状態で、案内板の指すその林道へとはいってしまった。だが、先達川へと下り、川を渡って対岸沿いに鶴の湯方面へとつづくこの林道には意外なほどに味があった。まずなによりも、この林道から振り向き仰ぐ秋田駒ヶ岳の姿が素晴らしかった。純白の冠雪が静まりかえった森の樹々の緑とうまく調和して、美しいなかにも厳かな雰囲気を醸し出している。先達川沿いの道路脇の深い木立に囲まれた湿地に人目を忍ぶように群生する水芭蕉にも、この地ならではの風情と奥ゆかしさが感じられた。
  鶴の湯に着いたのは夕方六時頃だった。訪れるお客が結構多いとみえて、広い駐車場には大型バスを含めてかなりの数の車がとまっていた。観光パンフレットで調べてみると、この鶴の湯は乳頭温泉郷のなかでは最古で、秋田藩主佐竹義隆公以来、代々の藩主の湯治場として知られた温泉だと書かれている。開湯以来三百五十年というその歴史を裏付けるかのように、由緒ある宿だとすぐにわかる立派な長屋風の建物が二棟、中央の広い通路を挟むようにして並んで見えた。ここまで来たら入浴せずに帰る手はない。当然もうひと風呂浴びようということになった。
  だが、車を降りて、左右それぞれの柱に「本陣鶴乃湯」、「秘湯鶴乃湯」と記された看板の掛かる古風な木造りの門をくぐろうとすると、日帰りの入浴客は午後五時までしか受け付けないという注意書きが目にとまった。がっかりしていったんは車に戻りかけたのだが、人間だめだと言われるとよけいに気にはなってくる。いささか未練がましい思いにかられながら門前で様子をうかがっていると、たまたま宿の関係者らしい中年の男性がお客を送って駐車場に現れた。なるべくならそういった手段に頼りたくはなかったのだが、このチャンスを活かすには非常手段もやむをえないと、即座に私は決心した。そして、その男の人がひとりになるのを待ってから、旅の途中、急に鶴の湯の取材を思い立ってふらっとやってきたのだが、入浴受け付け時間は五時までということなのでとても残念だと話しかけてみた。
  その相手が鶴の湯の支配人、佐藤和志さんだったのは天の祐けと言うほかない。佐藤さんは、どこか薄よごれて怪しげな格好をした我々をとくに訝る様子もなく、すぐに入浴できるよう便宜をはかってくださった。しかも、入浴料はいらないとおっしゃる。なんだか申し訳なくなってはきたが、ここはお言葉に甘えて、昔のお殿様と同じ気分にひたらせていただくことにした。佐藤さんによると、五時で日帰り入浴客の受け付けを締め切るのは、泊まり客の方々にゆっくり温泉にはいっていただくための配慮や、日没後に多い不審者に対する対策上のことなのだという。
  門からまっすぐに奥へとつづく道の左手には、かつては藩の警護の侍が詰めていたという本陣が往時の姿をいまも留めて建っている。それは、三百年以上の風雪に耐えつづけたという見事な茅葺きの長屋だった。右手の建物はそれにくらべればずっと新しい造りだったが、やはり一部に白壁を配した木造の長屋だった。両長屋にはさまれた通路の突き当たりには快い水音をたてて流れる湯の沢の清流があって、その清流にかかる橋を渡ってすぐのところに古風な木造の浴棟と大露天風呂が配されていた。我々はまず、本陣の建物の最奥にある管理事務所に立ち寄って佐藤さんに鶴の湯の歴史の概略をうかがい、そのあとすぐに湯につからせてもらうことにした。
  浴棟は黒湯、白湯、中の湯の三棟に分かれており、各棟の湯はそれぞれに泉質が異なっていた。泉質分析表によると、澄んではいるが黒っぽい色の黒湯は、身体が芯から温まるナトリウム塩化物・炭酸水素泉、乳白色の白湯は、肌がすべすべしてくる感じの含硫黄・ナトリウム・カルシウム塩化物・炭酸水素泉、そして眼病や神経系統の病気に卓効があるという中の湯は、含重曹・食塩硫化水素泉だということだった。すでに夕食時にかかっていたせいか、かなりの数の泊まり客があると思われるにもかかわらず浴場には他に人影はなかった。照明を抑えた浴棟内にはほどよく湯気がたちこめ、なんともいい雰囲気である。我々はまず黒湯につかり、それぞれに一日を振り返りながら身体を温めた。なるほど、時を待たずに体中がほかほかしてきて、たちまちに疲れがとれる感じである。
  しばらくして、こんどは、すぐ隣にある白湯にはいってみた。適度に硫黄分を含んだ白くやわらかな湯は、「肌にやさしい」という表現がぴったりで、皮膚感触が抜群だった。まだ交通の便がきわめて悪かった時代に、大名たちがこんな奥地まではるばる湯治にやってきたというのも、なるほどとうなずける感じだった。温泉のハシゴでさすがにすこし疲れがでたのか、渡辺さんはもうちょっとだけ黒湯につかりなおして湯からあがるということだったので、私のほうは、さきにひとり浴棟をでて、鶴の湯の看板ともいうべき大露天風呂にチャレンジすることにした。
  ジャンル別全国温泉百選露天風呂の部で第一位に選ばれたというだけのことはあって、巨大な牛乳岩風呂かとまがうばかりに白くやわらかなその湯は、想像以上に入り心地がよかった。ガイドブックの鶴の湯の紹介記事に偽りはなく、みるみる肌が生き返ってくるような感じである。私は、熱くもぬるくもない長湯向きの湯加減に満足しながら、洒落た石組みの浴槽の奥でじっと目をつむり、半ば眠るようにしてお湯に身をゆだねつづけた。
  しばらくすると、突然あたりが騒がしくなり人の動きが頻繁になってきた。急に明るいライトが二・三基灯され、それを待っていたかのように、タオルで胸から下を覆ったテレビタレント風の若い娘が湯舟の端に現れた。ディレクターらしい人物を中心に、ビデオカメラや集音マイクをもった数人の男女がなにか打ち合わせをしているところをみると、どうやらなにかの撮影が始まるらしい。そうこうするうちに見物人らしい人影も増え、さらにもう何人か、やはり下半身だけをタオルで隠した女性たちが姿を見せた。
  私のほうは完全に湯からあがるタイミングを逸してしまった。脱いだ衣類とタオルを置いた露天風呂脇の簡易棚はライトアップされてしまっている。多くの若い女性を含む人々の視線のまえに、ライトアップされた中年男のストリップ姿をさらすなど、洒落にもならない。いくら湯加減がいいとは言っても、さすがにのぼせ気味になってはきていたが、ここはじっと我慢するしかないと、首だけを湯から出して湯舟の中に座り込んだ。わたしの姿に気がついたディレクターは、一瞬、「よけいな奴がいるわい」と言わんばかりの表情を見せたが、ほどなく女の子たちも浴槽につかり、結局そのまま撮影が始まった。どうやら、九州地方のテレビ局の温泉探訪番組の撮影らしかった。
  いつのまにか露天風呂の周辺はかなりの人だかりになっしまった。綺麗な女の子たちとの混浴という望外のお膳立てとあって、昔のお殿様気分にひたるには格好の展開と言えなくもなかったが、ここまで人目にさらされるとなると、そうそう喜んでばかりもおれなかった。私は、なるべくカメラから遠く人目につきにくい露天風呂の隅へと湯の中を這うように移動し、ひたすら祈るような気持ちで撮影が一段落するのを待った。のぼせすぎて湯の中で気を失うか、我慢しきれなくなってお湯から飛び出し、番外のストリップショウを演じるかの決断を迫られる前に撮影がいったん休止されたのは幸いだったというほかない。いっぽう、そんなこととはつゆ知らぬ渡辺さんのほうは、ひとり車のそばに立ったまま、湯冷めを気になさりつつ、じりじりする思いで私の帰りを待っておられたらしい。思わぬ展開に大名気分も吹っ飛んだ鶴の湯の探訪は、このようにして幕となった。

  乳頭温泉郷での露天風呂のハシゴに思いのほか時間を費やしてしまったため、国道筋にでたときにはすっかり夜も更けていた。田沢湖畔に向かう道筋のどこかで晩飯の食材を求めるつもりでいたのだが、困ったことに開いているお店がどこにも見つからない。仕方がないので、もう一度角館方面へと引き返し、ようやく見つけたホカホカ弁当屋に飛び込んで弁当を注文、晩飯にかえた。
  田沢湖畔にでたのは真夜中近くのことだった。湖岸沿いの道を右回りに走りながら、我々は車を駐めて眠るのにふさわしい場所を探しにかかった。折りから十六夜の月が南天高くに昇っていたため、田沢湖の湖面や対岸の山並みが澄んだ光のなかにくっきりと浮かび輝いて見えた。実を言うとこの田沢湖にはちょっとした想い出があった。いまから十二年ほど前の一九八四年の八月十八日のこと、私は日本一の水深を誇るこの湖の単独横断遊泳に挑戦した。四二三・四メートルというその桁外れの深さと、摩周湖につぐという透明度に魅せられての、物好きとしか言いようのない試みだった。もしかしたら湖畔一帯の遊泳は禁止されていたのかもしれないが、私は人目を忍んで行動し、湖心からかなり偏ったところにある最深部近くの岩場から水中に入った。
  田沢湖は旧火口に水が溜ってできたカルデラ湖である。透明度そのものは極めて高いのだが、湖岸から数メートルと離れないところから、湖の壁面はほとんど垂直に近い角度で落ち込み、底無しの青黒い水中へと消えている。湖岸から数十メートルも離れると、暗く青い色の水のほかにはもう何も見えなかった。四百メートルを超える水深から考えてみれば当然のことなのだが、水中眼鏡ごしに見るその光景にはちょっとした凄みがあった。魚影らしきものはほとんど見あたらなかったように記憶している。
  横断遊泳自体は快適そのものだった。真夏のこととあって湖面の水温は思いのほか高く、冷たさはまったく感じなかった。湖岸を離れてほどなく、たまたま近くを通りかかった遊覧船の乗客が私の姿に気がついて、なにやら大声で騒ぎたてているのが聞こえたが、それ以外にとくに支障になるようなことはなにもなく、最深部を横切っての湖面横断遊泳は無事成功をおさめたのだった。
  田沢湖に棲む龍の化身、辰子姫の像の立つ浮木神社付近を過ぎ、湖畔を四分の三周して北岸の御座の石神社近くの駐車場に着いた我々は、翌朝までそこで眠ることにした。あたりはしーんと静まり返り、他に人影はまったく見当たらない。車を降りて湖畔にでると、そこで我々を待っていたのは、いまにも竜が立ち現れそうなくらいに美しく神秘的な光景だった。
  湖の南側にあたる対岸の山並みの上にかかった月は、湖面を明るく、しかし、どこまでもやさしく静かに照らし出していた。そして、滑らかに磨き上げた巨大な銅鏡を想わせる湖面には、外輪の山々の影が逆さになってくっきりと映り、ほんものの山々と相呼応して虚実一体の見事な対称図を構成していた。時折上空を流れる淡い色の雲のために月の光は刻々と微妙な色合いの変化を見せていたが、それがまた、湖面とそれに接する澄んだ大気に言いようのない彩りを生みもたらし、我々の目を釘付けにした。水中に浮かび漂う月影は、まるで我々二人の魂を湖底深くにいざない去ろうとしているかのようでもあった。
  深夜の幻想的な田沢湖に時を忘れて見入るうちに、私は突然ハーモニカを吹いてみたくなった。こんな気分になったのは久々のことである。急いで車のサイドボードからハーモニカを取り出し湖畔に戻ると、湖中に少し突き出た船着き場の先端に陣取り、青い山脈を手始めに、荒城の月、月の砂漠、北上夜曲と、次々に懐かしい昔日の歌曲をメドレーで奏でてみた。いつもよりハーモニカの音色が澄んで聞こえたのも、気のせいばかりではなかったのかもしれない。田沢湖のかもしだす幻夢の世界に酔いしれたあと、我々は車に戻り、明日の旅路にそなえて眠りについた。もう丑の刻に近かったと思う。
  私はまったく気づかなかったのだが、そのとき、渡辺さんは、月光に浮かぶ田沢湖を背にハーモニカを吹く私の姿をスケッチにおさめておられたらしい。後日、自由国民社から私の作品集「星闇の旅路」が刊行されることになり、その装画を渡辺さんにお頼いすることになった。そして、いろいろと検討された結果、表紙絵となって登場することになったのは、なんとその晩の田沢湖の情景だったのである。渡辺さんの心のこもった絵というだけあってそれは実に素晴らしく、どこにも文句のつけようなどなかったが、それでもなお、私にはいまひとつだけ気がかりなところがあった。その絵の左下端にあって、せっかくの田沢湖の月夜の風景をだいなしにしてしまっている怪しげな風体の人物は、いったいどこの誰だったのであろうか……。



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