「マセマティック放浪記」 1998年11月11日
Mathematics Odyssey November 11, 1998
猿だといってなめんなよ! 

  多摩動物公園の吉原さんのところには、動物学専攻の学生たちが飼育実習にやってくる。その理由は明らかではないが、そんな学生を一目見ただけで、チンパンジーには、こいつらは1週間もすればいなくなってしまうとわかるらしい。どいつもこいつもアホづらしてるけど、ちょっとの辛抱だから、まあ言う通りになってやるか――なんてわけで、実によくその命令をきくという。
  ところが、おなじ初顔でも、これから五年も十年もつきあわねばならない新人飼育係がやってくると、頑として言うことをきかない。先が長いっていうのに、オメーみたいな新米になめられてたまるもんかい――ということであるらしい。
  指話をおぼえたチンパンジーなどは、見慣れた相手には一定速度でサインを送るが、相手が新米の人間とみると、小馬鹿にしたようにゆっくりと指を動かしながらサインを出すという。オメーが相手じゃ、手加減してやんねぇとわかんねぇだろうからな!――とでも考えているのだろう。
  吉原さんが長年育ててきたベティという雌のチンパンジーがいる。ある日のこと、いつものようにベティと呼ぶとプイと横を向かれてしまった。そんな風にチンパンジーにそっぽを向かれるのは初めてだったので、呆気にとられてもう一度ベティと声をかけると、くるっと背中を向け、両手で頭を抱え込むポーズをとった。むろん、呼びかけ無視の意志表示である。想わぬ事態にしばし戸惑いを覚えたものの、そこはベテランの吉原さん、すかさず、「ベティさん」と「さん」づけで呼びかけてみた。すると、一瞬振り向いて吉原さんの顔をチラッと見たあと、また知らんぷりをきめこんだ。
  そこで、敬意を込め、何度も「さん」づけで話しかけるうちに、ようやく機嫌がなおったのだという。仲間たちのと関係もあって、成長するにつれチンパンジーにもプライドが芽生えてくるらしいのだ。そんな行動が人間のことばを解してのうえであることは言うまでもない。
  チンパンジー社会には「先取り特権」のルールがある。餌などを見つけた場合、第一発見者に先取権があり、物欲し顔の仲間たちに取り巻かれたりはするが、他の者がそれを力づくで奪い取ることはないという。餌などを仲間うちで分配し合うのもチンパンジーの特徴の一つであるらしい。「猿にも劣る」ということばがあるが、こんな話を聞いていると、「人間にも劣る猿にだけはなるなよ」と、彼らが互いに戒め合っている光景すら浮かんでくる。
  人間とは声帯の構造が異なるため、人語をしゃべらせるのは無理らしいが、記号を用いると200〜300もの単語を学ばせることができる。すると、彼らはそれらの記号を組み合わせて意志表示をするようになる。尻尾の長い通常の猿をじっと見ていたチンパンジーが、突然、「オマエ、キタナイ、サル」という、それまで誰も教えたことのない表現をして人間を驚かせたのは有名な話だが、この程度の造語能力は彼らには普通にそなわっているのだという。
  想像以上の知能をもつチンパンジーだが、彼らの身体能力もまた凄い。吉原さんは、チンパンジーは猛獣だと断言する。その握力は三百キロに近く、相手が本気で力を込めたら人間の指の骨などたちまち折れてしまう。腕力もたいへんなもので、八十キロもある鉄板を空中に放り上げ、すばやくその下をくぐり抜けるという芸当など朝飯前なのだという。脚力も凄じく、足で物を押さえたり引っ張ったりする力は三百五十キロにも達し、垂直飛びにいたっては、三・五メートルから四メートルにも及ぶのだそうだ。また、成獣の場合、体重は軽く八十キロを超えるから、全力で体当たりされたり、横に力いっぱいはたかれたりしたら、並みの人間は一発で致命傷を負い、ダウンしてしまうという。
  よく、三輪車や自転車に乗る芸達者なチンパンジーがいるが、ふだん遊んでいるときにそれらを与えても絶対に乗ることはないらしい。彼らにとって、それは苦行にも近いことのようで、放っておくと、その馬鹿力をもって三輪車や自転車をグニャグニャ、バラバラに分解してしまうという。



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