「マセマティック放浪記」 1999年9月8日
Mathematics Odyssey September 8, 1999
  奥の脇道放浪記(2)
夕陽の名所弥彦山
絵・渡辺 淳


夕陽の名所弥彦山――寺泊から新潟港へ

  寺泊の町並みにさしかかったとき、私は、突然、このあたりの名物のひとつである鯛の浜焼きのことを思い出した。十分に塩をほどこした新鮮で大きな鯛をまるごと串刺しにし、焚き火や炭火でじっくりと焼きあげたもので、その姿かたちといい、味といい、文字通りの絶品である。夕食の準備らしいことはまだなにもしていなかったので、貧乏旅行中の身にはちょっと贅沢だが、一尾調達してみようということになった。
  日没も間近な時刻とあってか観光客の姿はすっかり途絶え、国道沿いの土産物屋のほとんどはすでに店じまいを終えていた。一軒だけ見つけた店じまい寸前の海産物屋に飛び込み、鯛の浜焼きはないかとたずねると、ちょっとまえに片づけてしまったという。諦めきれずに店の隅をうろうろしながら、女店員の手でいまにも奥へと運び去られようとしている箱の一つをのぞきこむと、なんとそこにまぎれもない「鯛の浜焼き様」のお姿があるではないか!
  どうしてもこの鯛を譲ってほしいと食い気まるだしの形相で懇願すると、相手はしばし戸惑いの表情を浮かべはしたものの、そのあとすぐに快く願いを聞き入れてくれたのだった。えたいの知れないこの二人の客は、ほっておいたらなにをしでかすかわからないと、胸のなかで思ったのかもしれない。それにしても、四十センチ近い立派な鯛の浜焼き一尾で八百円というのはなんとも安い買い物だった。もっとも、単品としては、今回の我々の旅を通じてもっとも高価な買い物ではあったのだが――。
  鯛の浜焼き様をうやうやしく車中にご案内申し上げた我々は、それからほどなく、大河津分水路の河口付近にかかる野積橋に差しかかった。大河津分水路は信濃川本流から分岐する大規模な排水路で、良寛ゆかりの国上山の南西側を流れている。緑に包まれた小さな入り江状の河口は、折からの夕陽を背にして粛然と輝き、我々の旅愁をいやがうえにもかきたてた。淳さんがさっそくスケッチブックを取り出したことは言うまでもない。

        

  淳さんのスケッチが一段落するのを待って、私はまた車のエンジンを始動させた。目指すは弥彦山スカイラインである。地図上で判断するかぎり、日没までには間違いなく弥彦山頂付近に到達できる。そこから日本海に沈む夕陽を眺めることができれば言うことはない。野積の集落近くで国道から分かれ、弥彦山スカイラインに入ると、みるみるうちに高度があがった。そして、山裾から中腹にかけての濃い緑の樹林帯を抜けると、いっきに展望がひらけてきた。実際に登ってみると、弥彦山は想像していた以上に険しく、しかも奥深い。眼下に広がる日本海に向かって、その斜面はかなりの急角度で落ち込んでいた。
  スカイラインを登りつめたあたりの駐車場に車を置き、そこから十五分ほど坂道を登って、海抜六百三十八メートルの弥彦山頂上近くにある展望台に辿り着いたのは午後六時半頃だった。日本海のほうから、かすかに霧を含んだ涼風が吹き上げてきている。一汗かきながら急な道を登ってきた直後だけに、その風がなんとも心地よく思われた。
  やわらかな芝草に覆われた展望台からの眺めは望外のものだった。正直なところ、弥彦山からの眺望がこれほど素晴らしいとは思っていなかった。夕陽に映えて鏡のようにしずまりかえる海の向こうには、まるでローラーで平らにならしでもしたかのような佐渡の島影が低く広がって見えた。たぶん、小木から赤泊にかけての佐渡南部の一帯だろう。かなり以前に佐渡を訪ねてみて、想像以上に山の多いところだという印象をもっていたので、海が荒れたらたちまち海中に没してしまいそうにも見えるその光景はちょっと意外だった。標高六百メートル余の山の上から見下ろしているせいなのだろう。
  東側に大きく目を転じると、視界いっぱいに飛び込んできたのは、果てしなく広がる緑の沃野、越後平野だった。夕陽にところどころ水面が光って見えるのはもちろん信濃川、そして、その周辺に広がるのは三条か燕あたりの田園地帯だろう。中空にはすでに月齢十二・三日ほどの月が昇っていて、俺の出番にはちょっと早すぎたかなとでも言いたげに、申し訳程度の白い光を発していた。
  佐渡の島影のほうへと大きく傾いた夕陽は、しだいに深い赤みを帯び、まるい輪郭をはっきりと浮かび上がらせながら、漂うように沈んでいく。眼下の海面のあちこちが白く煙っているのは、海霧のせいらしい。あたりの気温がぐーんとさがって、斜面沿いに吹き上げてくる風が肌寒く感じられるようになってきた。それでも、私と渡辺さんは、それぞれの想いにひたりながら、じっと夕陽を見つめていた。
  展望台付近には、我々のほかに、男女三人からなるもう一組のグループがいて、夕陽を眺めながら野外パーティをやっているところだった。その人たちのほうをなにげなく見やっていると、突然、「よければ一緒にどうですか?」と声をかけられた。なんとなくうらぶれた格好の二人の男が、夕風に吹かれながら腹をすかした感じで立っているのを見かねて、心優しいその方々はさりげなく誘ってくださったに違いない。
  そこは貧乏旅行の途上にある我々のこと、これぞまさに天の助けにほかならないというわけで、すぐさまその申し出を受け入れた。むろん表向きにはいったん遠慮はしたものの、内心では「やったぁ!」という感じである。三人の方々は、近くの三条市にお住まいの久保富彦御夫妻と、三条まで遊びにみえておられた久保夫人の妹さんだった。弥彦山の夕陽は素晴らしいので、いつもここに来ては、落日の舞いを肴に一杯おやりになるのだという。久保さんはもう一度コンロを取り出し手際よく点火すると、鴨鍋の素材のはいった大きな缶詰を切り開け、図々しい二人の珍客のために熱々の鍋汁を作ってくださった。そして、缶ビールにおつまみ、さらには、おにぎり、お新香にいたるまでを気前よくすすめてくださったのである。
  こうなるともう、花より団子ならぬ、「夕陽より鴨鍋」、「夕焼けよりビール」である。思いもかけぬご馳走に感激しながら、二人で放浪の旅をするにいたった経緯などを説明したりしているうちに、呆れ顔の夕陽のほうは、「これ以上やっとれるかい!」とばかりに赤く気色ばみながら、さっさと佐渡の島影に沈んでしまった。我らが風流心もこの程度のものかと思わず赤面しかけたが、そんな場を救ってくれたのは、「今日は西の水平線近くに雲などがあって美しさもいまひとつなんですが、ほんとうなら、ここの夕陽はもっともっと綺麗なんですよ。まあ、それはそれとして、せっかくだから楽しくやりましょうや」という久保さんの一言だった。
  西の空が黄昏色に染まり、やがて弥彦山一帯が夕闇に包まれるまで、我々は歓談しつづけた。久保さんは山が好きで、深田久弥の「日本百名山」に紹介されている山々のうち、すでに六十二峰を踏破なさったとのことであった。久保さんの話に耳を傾けながら、ふと東の空を見上げると、先刻まで白く淡い心もとなげな輝きを見せていた月が、ほれぼれするくらいに澄んだ光を放ちながら己の存在を誇示している。眼下はるかに点々と瞬き灯る色とりどりの民家の明かりは、越後平野の夜を彩る無数の宝石そのものだった。
  別れ際に、我々は、大きな缶ビールのほか、いくらかのおつまみなども頂戴した。善意の人々の好意を貪るインチキ修行僧の托鉢みたいで、良寛様からは叱られそうな気もしたが、ともかく有り難いことではあった。旅の初日からこんな調子だと、野良犬や野良猫なみに、行く先々で人様に媚を売ってはそのおこぼれを頂戴する癖がついてしまいそうで、いささか気にはなる。だからといって、すこしは誇りをもって人間らしく振る舞うべきだと反省したかというと、そんなつもりはさらさらなかった。もっとも、そのあと第二、第三の久保さんが容易に見つかったかというと、それはまた別の話であった。
  弥彦山をあとにした我々は、再び海沿いの国道に出て、新潟方面へと走り出した。見事に整備された国道で車の影もほとんどないとあって、おのずからスピードメーターの針は、右へ右へと歓喜のステップを踏むことになった。それでも、途中のコンビニで簡単な食材を買い込み、新潟市西部の関屋浜に着いた頃には、かなり遅い時刻になっていた。たまたま場所的にも都合がよかったので、いったん車を駐め、あらためて晩飯をしっかり食べなおそうということになった。
  コンロで湯を沸かし、味噌汁その他のインスタント食品を調理したのだが、なんといっても、この晩の主役はクールボックスの中の「鯛の浜焼き様」だった。コンロの火で温めなおして食べたのだが、そのうまいこと、うまいこと!――二人で感激の言葉を連発しながら、崇め奉るようにして一尾の大鯛をあまさず貪り尽くしたようなわけだった。驚くほどに身もついていて、浜焼きだけでお腹がいっぱいになってしまったほどである。渡辺さんは、鯛を箸でつつくかたわら、先刻、弥彦山で頂戴してきた缶ビールをうまそうに飲みながら、もう極楽とでも言いたげな表情だった。まさかその缶ビールが、この放浪の旅路においてありつくことができた最後のビールになろうとは、さすがの渡辺さんも想像だにしておられなかったことだろう。
  旅の経費を極力安くしようという出発前の了解事項もあって、半ば暗黙のうちに、時々コンビニで買い求める牛乳類のほかは、もっぱら、旅の先々で探しあてたうまい清水とそれを沸かしていれた緑茶や紅茶だけを飲もうということになったからである。弥彦山で出逢った久保さんのような方がその後も次々に現れていたら状況は違いもしたろうが、世の中そうそう甘くはなかった。アルコール飲料がなくても平気な私のほうはともかく、元「酩人」の渡辺さんにとっては、そんな成り行きは思わぬ誤算であったかもしれない。
  ともかくも十分にお腹を満たした我々は、ほどなく関屋浜をあとにし、新潟市の中心部を抜けて、午後十一時半頃に信濃川河口の新潟港、新日本海フェリー発着埠頭に辿り着いた。埠頭にはたまたま小樽行きの新型フェリー「ニューしらゆり」が接岸しており、ほどなく出航しようとしているところだった。この最新設計の白い巨船は、国内最大のフェリーである。近くで目にするその巨大な船体の迫力は凄じい。
  気まぐれな旅ゆえに、これから「ニューしらゆり」に乗っていきなり北海道へという手もなくはなかったが、小樽行きのフェリー埠頭にやってきたのはそのためではなかった。このフェリーをこれまで何度か利用し、周辺の状況に通じていた私は、願ってもない機会ゆえ、ぜひ渡辺さんに「ニューしらゆり」をお見せしたいと思ったのだった。
  渡辺さんには息子さんが一人おられる。昔炭を焼いておられた頃、渡辺さんは、まだ幼かったこの息子さんを山奥の樹の幹にロープでつないでから仕事をなさっていたという。むろん、幼児虐待でもなんでもなく、危険な作業の多い炭焼き仕事と息子さんの身の安全とを両立させるための苦肉の策だった。
 「息子も、あの体験にはよっぽど懲りたらしいんですわ。そのせいか、大きゅうなりよってからは、山での仕事は絶対に嫌や、海のほうがええゆうて、船乗りの仕事につきよったんですわ」と、渡辺さんは、昔話をしてくださったことがある。
  実をいうと、その息子さんが、最近まで、この新造船ニューしらゆりの一等航海士をなさっていたのである。一等航海士と言えば、船長につぐ要職で、実質上、船の操縦と運行全般をとりしきるのがその職務である。いま、息子さんは、同じ新日本海フェリーの舞鶴ー小樽航路の船のほうで、やはり一等航海士を務めておられるが、船長となられるのは時間の問題に違いない。忙しい渡辺さんは、これまで、息子さんの乗っておられたニューしらゆりをご覧になったことはなかったし、この新潟港のフェリー埠頭においでになったことさえなかった。そんな事情をうすうす知っていた私は、胸の内では是非と思いながらも、気まぐれを装ってこの埠頭へと車を進み入れたような訳だった。
  午後十一時五十分ちょうどに、夜の大気を震わせるような低く力強いエンジン音を轟かせながら、ニューしらゆりはゆっくりと岸壁を離れた。小樽までは十八時間ほどの航海である。船のブリッジの奥のほうにはかすかに人影らしいものが見えた。渡辺さんの息子さんもあのあたりに陣取って、航行の指揮をとっておられたのだろう。埠頭に立ってこれだけの巨船の出港風景を目にするのは久々だったが、いつ見ても言葉には尽くしがたいロマンと旅情が感じられ、心踊るばかりであった。
  最後の太い繋留ロープがはずされ、自由の身となった大きく白い船体が、おのれの羅針盤とレーダーだけをたよりに大海へと向かって動き出したとき、渡辺さんの脳裏をよぎったのはいったいどのような想いだったのだろう。山奥の樹木の幹にロープで繋がれた幼い日の息子さんと、やがてそのロープを解き放ち、何ものにも拘束されることのない大海原へと旅立っていった息子さんの姿とが複雑に交錯していたのかもしれない。
  ニューしらゆりの航海灯が遠ざかっていくのを見届けて車に戻ったときには、もう深夜一時に近くになっていた。結局、、今夜はこの埠頭の片隅で車中泊しようということになり、ワゴンのシートをフラットに倒して寝る準備にとりかかった。新日本海フェリーのビル内の洗面所は明朝まで使えない。我々は、高い岸壁の真下に寄せる波の音を聴きながら、とりあえず男の特権を活用した。就寝前の簡単な洗面をすませるには、ペットボトル一本分の水で十分だった。横になってほどなく、我々は淡い月光の差し込む車中で、深く心地よい眠りについた。



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