「マセマティック放浪記」 1999年9月1日
Mathematics Odyssey September 1, 1999
  奥の脇道放浪記(1)
良寛の心を訪ねて
絵・渡辺 淳


良寛の心を訪ねて――越後長岡から出雲崎へ

  のんびりとした気分でワゴン車のハンドルを握り、早朝、東京府中を立った私は、一般国道をゆっくりと走り継いで群馬と新潟県境にある三国峠を越えた。より正確な言い方をすれば、三国トンネルを抜けた。「国境のトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という、かの文豪の言葉にあやかりたいところだったが、五月も末のこととあってさしもの深い雪も消え、付近は一面輝くような緑の若葉に覆い尽くされていた。
  もっとも、雪はないといってもそれは国道周辺のことで、苗場山や谷川岳などの山々はまだたっぷりと残雪を戴き、陽光を浴びてまばゆく輝いていた。この冬、裏日本一帯は久々の豪雪に見舞われたから、例年に比べて初夏の訪れが二、三週間ほどは遅れている感じだった。
 時間調整と休憩をかねて、苗場と湯沢のなかほどにある二居道路ステーションに立ち寄ると、すぐそばの急な岩肌の斜面からこんこんと清水が湧き出ているのが目にとまった。試しに一口飲んでみると、これが実にうまい。学生時代以来の山旅を通して名水と呼ばれるものはずいぶんと口にしてきたので、水の味だけは相応にわかるつもりだが、そんな私の経験からしてもここの清水はなかなかのものだった。関越自動車道、清水トンネル入り口手前の谷川岳パーキングエリアの湧き水も巷に名高いが、この水のうまさはそれ以上のものに思われた。
  長旅に水は必需品である。私は、車から「六甲の水」と表示された空の二リットル用ペットボトル五本を取り出すと、それらに水を詰め込んだ。味とこくでは本物に少しも劣らない「偽六甲の水」の誕生である。あまりの冷たさにしびれる指先をこすり温めながら、「二百本ほどペットボトルがあればちょっとした商売ができるかもしれないな」などと妙な想像をしたりもした。
  信濃川の支流、魚野川にそってのびる国道十七号を越後平野に向かってくだり、北陸本線の長岡駅に到着したのは午後一時半だった。一昔前、国中に名を馳せた辣腕政治家のお膝元だけのことはあって、駅ビルやその周辺の建物、道路などは十分に整備が行き届いている。駅近くの路上に車をとめた私は、雷鳥四十四号に乗って一時五十七分に長岡に到着するはずの旅の相棒を迎えるべく、中央改札口へと歩を進めた。パンパンにふくれた大きな皮袋を肩にして、青い丸つば帽子に青シャツ、ジーンズ姿の日焼けした人物が改札口にその大柄な姿を見せたのはそれから間もなくのことである。眼鏡の奥の大きな瞳が笑みをたたえてキラリと光った。長年にわたり水上文学作品の挿絵や装丁を担当してこられたことでも知られる著名な画家で、若狭大飯町川上在住の渡辺淳さんの登場だった。
  若州一滴文庫で渡辺淳さんと劇的な出逢いをしてからもう八年近くたつ。その間に何度か、二人だけで気ままな旅をしようという話が持ち上がったりはした。これまでも二、三日の短い旅には、何度か一緒にでかけたことはあるのだが、一週間を超える長旅ともなると、双方の時間の調整をつけるのがなかなかに難しく、思い通りには計画を進めることができないでいた。そこで、今年こそは長年の夢を現実のものにしようと、新年早々に淳さんと電話で相談し、五月末から六月初旬の十日間ほどをあらかじめ旅のためにあけておこうということになったのだ。そして、いまようやく、二人の念願がかなおうとしているような訳だった。

        

  暑く感じるほどの日差しのなか、淳さんを駐めてあった車のところまで案内すると、すぐさま出発の準備にとりかかった。我々は、この旅をするにあったて、三つだけ大まかなガイドラインを設けておくことにした。第一は旅費をできるかぎり安上がりにすませること、第二はその時々の成り行きに任せて行く先やルートを選び定めること、そして第三ガイドラインは日常的な二十四時間単位の行動パターンを放棄してしまうことである。その日その日のおおよその旅の方向を決めるのは、とりあえず、運転手の私に一任されることになった。
  出発してほどなく、まずは日本海沿いの道に出てみようかということになり、信濃川にかかる与板橋を渡って中之島町から与板町へと向かうことにした。雪融け水を満々と湛えた信濃川の雄姿とその迫力はさすがである。たちまち頭をもたげる道草癖を抑え切れなくなった我々は、与板橋を渡り終えるとすぐに河原へとくだる道を探し、橋の真下へと降りて車を駐めた。初夏の日差しを浴びて河原の草木が一斉に放つ緑の生気と、時間の雫を数限りなくあつめて流れる信濃川の水面の輝きには、唯々圧倒されるばかりである。さっそくスケッチをはじめた淳さんのかたわらで、私のほうは悠然と流れる大河に見惚れながら旅のメモでもとることにした。もしもこれが気ままな放浪の旅でなかったら、観光のポイントなどとはまるで無縁のこんな場所を訪れ、のんびりと想いにひたることなど絶対にないだろう。 
  さて、それはいいのだが、長岡を出発してまだ三十分も経たぬというのにこんな道草をしているとなると、いったい今日はどこまでいけるやら――。どんなところで寝るのも平気な我々二人のことゆえ、今夜はこの橋の下で野宿でもといったようなことになりかねなくもなかったが、いくらなんでもそれにはまだ日が高過ぎた。お日様にもうすこしはくらいは先へと叱咤された我々は、かつて良寛がいくたびも往来したという塩之入峠を越えて和島村に入り、たまたま目にとまった案内板に誘われるままに、隆泉寺木村家墓地内の良寛の墓を訪ねてみることにした。
  良寛は、安永四年、十八歳で尼瀬光照寺にいり、二十二歳のときにたまたま来越した国仙和尚に随行して備中玉島円通寺に赴き、そこで修行を積むことになる。大愚良寛と称するようになったのはこの頃からのようである。三十八歳になって越後へ戻った良寛は、赤貧に甘んじながら出雲崎や国上山麓一帯を転々とし、一所不定、現代風にいうなら、「住所不定、無職」同然の生活を続け、五十近くになってようやく、国上山五合庵に定住した。そして、そのほぼ十年後には国上山麓の乙子祠脇の草庵に移り住み、六十九歳以降は、島崎村能登屋、木村元右エ門邸に寓居する。当時まだ三十歳の若さだった美貌の貞心尼がはじめて良寛を訪ねてきたのはその一年後、良寛七十歳のときのことであった。
  長岡藩士の娘として生まれた彼女は、生みの親とは幼くして死別、成長してからも、その並みはずれた美貌と才気が逆に災いし、浮世の辛酸をなめつくすことになる。やがて、柏崎近くの浄土宗閻王寺に駆け込むかたちで尼となり、修行を積んで貞心尼と名乗るようになった。良寛を訪ねてきた当時、貞心尼は長岡在福島の閻魔堂に独りで住んでいたという。それからわずか四年足らず時間のなかでおこなわれた、良寛と貞心尼との心の絆の深め合いについては、既に広く世に語られている通りである。
  良寛が貞心尼に別れを告げ、静かに天上界へと旅立っていったのは、天保二年(一八三一年)新春の夕刻のことであった。

  いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき
 (俗世の生死の境地を超えた仏門に帰依するこの身にもまた、避けがたい別れのあるこ
  とのなんと悲しいことでございましょう)

という貞心尼の歌に対して良寛が返した

  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ

という一句が、はからずも辞世の句となったという。聖俗両面をあわせもち、悟りの世界と煩悩苦の世界とのはざまを生涯自然体で生き抜いた人間良寛の散り際に、それはなんともふさわしい句であった。はらはらと散り行く紅葉に良寛自身の姿が重ね合わされていることは言うまでもない。
  良寛と貞心尼との四年間近くにわたる心の交流の一部始終を述べ伝えた貞心尼の自筆稿本「はちすの露」は、「天保二年卯年 正月六日遷化 よはひ七十四  貞心」という一文で結ばれ、貞心尼の深い悼みを暗示でもするかのようにそこでぷっつりと終わっている。のちに貞心尼の墓碑に刻まれることになった彼女の辞世の歌 

  来るに似て帰るに似たり沖つ波立ち居は風の吹くに任せて

のイメージは、師、良寛の臨終をまえにした深い想いを通して生まれたものではないかと考える研究者もあるようだが、言われてみると、たしかにと頷(うなず)けるふしがある。
  激しく吹き狂う風に翻弄され、寄せ来るでも引き去るでもなく逆巻き立ち騒ぐ沖の波を貞心尼自身の人生に見立てれば、この歌に秘められた想いは自然と見えてくる。寄せる波を紅葉の表に、また引きゆく波を紅葉の裏に、そして波を起こす風を紅葉を散らす風に対応させれば、両者の奥に流れている人生回想の本質は同じものだからだ。
  良寛の墓は、いまや伝説ともなっている清貧そのものの生涯からはとても想像できないほどに立派なものであった。石碑の幅はゆうに一メートルを越え、高さのほうは台座も合わせると三メートル近くにも及ぶのではないかと思われた。私と渡辺さんとは思わず顔を見合わせながら、「当時の有力者達が良寛の徳を讃えて建てたんでしょうが、ちょっとやり過ぎみたいな気もしますね。あの世の良寛は顔をしかめていたかもしれませんね」と正直な印象を語り合った。
  だが、あとになって調べてみると、そんな想いは、どうやら我々の不勉強と早とちりのせいでもあったようなのだ。新潟県柏崎の出身で、良寛の研究者として知られる北川省一著の本によれば、この墓碑は時の有力者達の手によって建てられたものではなく、生前に良寛を慕った越後の無名の人々の手で、良寛の没後二年経った天保四年に建立されたものなのだという。良寛の死を悲しんだ越後の人々は「石碑料志」と記した奉加帳を作って募金にかけまわり、資金を集めたうえで、寺泊の七つ石というところから花崗岩の巨石を運びこみ、この地方には類をみないような大墓碑を建てたのだそうである。厳しい身分制度の敷かれていた徳川幕府の治政下においは、墓の大きさにもおのずから制限があった。徳川幕府の政策を愚かと断じ、幕府の庇護下にあって権勢を貪る僧侶や文人たちを鋭く批判し続けた良寛は、権力者の立場からすれば、乞食坊主と唾棄すべき追放僧の身に過ぎなかった。だから、没後二年のうちにこれほど巨大な墓を築き、「良寛禅師墓」と大きく刻み込むなどということは、当時の身分制度に真っ向から挑戦する行為でもあったらしい。しかも、その碑の銘文は、苦悩多き生涯を生き抜いた良寛のかねてからの想いを象徴する歌や、人心から遊離した宗門に対する厳しい告発と訓戒の言葉を刻んだものだった。
  良寛の死後、幕府や宗門からの指示を受けた出雲崎の代官所は、良寛の歌稿その他の手稿類の強制的な提出を命じたり、関係者の取り調べをおこなったりしたという。そして、追放僧良寛の巨大な「禅師墓」を取り壊そうともしたらしい。
  しかし、良寛その人のあまりにもまっとうな精神と主張、さらにはなんとも的を射た碑文のゆえに、さすがの権力者達も墓碑に手をだすことはできなかった。権力者が無理に墓碑を取り壊しでもしていたら碑文そのままの蛮行となって、国中の民衆から笑いもにされ、たちまち権威を失墜したに相違ない。それにしても、墓碑を建てるに先立ち、権力者の手を巧妙に封じる仕掛けを案出した民衆の知恵は相当なものである。
  良寛の墓から戻る途中、我々は一羽の雀の子が参道脇にうずくまっているのを発見した。ときおりチュンチュンと鳴き声をあげている。どうやら巣から落ちたか、いったん巣立ったもののうまく飛べずにその場に舞い降りたものらしい。遠巻きに様子を窺っていると、二羽の親雀がたまに飛んできては餌をやっている。猫に狙われでもしたらひとたまりもないので、心配しながらしばらくじっと見守っていたが、我々も旅の身ゆえ、一緒に連れていくわけにもゆかず、ここは親雀の知恵と愛情に任せるしかないと判断した。うしろ髪をひかれる想いでその場をあとにしたのだが、いつにあっても自然の摂理とは厳しいものである。だが、良寛が目にして自らの無力さに打ちのめされたという地獄絵図、すなわち当時の庶民の悲惨な現実は、そんなものとは較べものにならぬほとに救い難いものであったに違いない。
  良寛の墓をあとにした我々は、次に、良寛の遺墨、遺品の類が数多く展示されている出雲崎の良寛記念館を訪れた。そして、筆を執っているときだけは現世の苦しみから解放され、文字を書いているのだということさえも忘れて無心に紙と戯れていたのではないかと思わせる、なんとも自由奔放な墨跡に、我々は心の底から感動した。美しく書こう、立派に仕上げよう、多くの人々の称賛をかおうなどという卑俗な意識を超越した良寛の姿がそこにははっきりと感じられるのであった。
  ただ、だからと言って、私は良寛という人物が超然たる悟りの人だったとは思わない。浮き世という名の濁流のなかにあって自らも濁りの一因をなしているにもかわらず、それ自体の輝きはけっして濁り衰えることのない石英の砂粒にも似た存在であったように思われてならない。
良寛記念館のある高台を下りて日本海沿いの国道に出ると、太陽がかなり西に傾いて見えた。幸い落日までにはまだ少々時間がありそうである。夕陽を見るなら弥彦山あたりがいい。夕凪に静まりかえる日本海を左に見ながら、我々は寺泊方面へと走りだした。



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