「マセマティック放浪記」 1999年8月25日
Mathematics Odyssey August 25, 1999
子猫の開いた小窓から  

  生まれたばかりの樹々の緑が爽やかな風に眩しく光って搖れていた四月下旬のことである。ミーミーという産後間もない子猫の鳴き声らしいものがどこからか聞こえてくると、とつぜん家人が言い出した。まさか我家のノラあがりの雄猫チータローが飼い主に無断で性転換の手術を受けていたわけでもあるまいし、「そんな馬鹿な?」とはじめは半信半疑だったのだが、「ミーミー」がいつの間にか、「ミギャー!・フギャー!」の絶叫に変わる騒ぎに及んでは、さすがにその存在を認めないわけにはいかなくなった。
  これはというので調べてみると、ことはすでに容易ならぬ事態へとたちいたってしまっていた。隣家の屋根伝いにやってきた雌のノラ猫が、我家の軒先の雨樋のつけねに生じたわずかな隙間から一階の天井と二階の床にはさまれた狭い空間に侵入し、どこかに子どもを産んでしまったものらしい。しかも、運悪く隣家の屋根の補修作業が始まったために親猫のアプローチ・ルートが断たれてしまい、生まれたての子猫だけが孤立無援の状態に置かれているらしかった。その証拠に、鳴き声はある時点をピークにして弱まっていっている。「ミギャー!・フギャー!」は子猫にすれば命を賭けた叫び声なのだった。
  鳴き声のする場所がどうやら二階に通じる階段上部の裏側付近らしいと判明したのは、かなり時間がたってからのことである。場所が場所だけに他に救出手段はないと判断した私は、階段の垂直面に四角い穴を切り開けることにしたのだが、猫のいる正確な位置がつかめぬため、四段にわたって鋸をふるうはめになった。
  中から現れたのはまだ眼に薄膜のかかった生後一週間ほどの三毛とキジトラの二匹の子猫で、三毛のほうは取り出したとたんに「ミギャー!」の連発をはじめたがキジトラのほうは体が冷えきってしまっていて、「ニーニー」とかすかな声で鳴くのがやっとのようだった。愛らしいその顔つきや尻尾のかたちをよく見るとチータローそっくりだ。家の猫が共犯者とあってはもはや責任は免れ得ない。ペットショップに子猫専用の哺乳瓶とミルクを買いに走るやら保温器具をさがすやら、たちまち家中が大騒ぎになった。四個の穴は板で塞いでみたものの、パッチワークの失敗作みたいで惨状もはなはだしい。そこで一計を案じ、手元にあった鳥獣戯画や源氏絵巻の絵葉書などを継ぎ板が隠れるように貼り付けると、思いのほか洒落た感じの階段ギャラリーができあがった。
  すっかり衰弱していたニーニーのほうは必死の介抱もむなしく翌朝眠るようにして息を引き取ったが、三毛のミギャーは本能的に前足を交互に動かす搾乳ポーズをとりながらミルクをよく飲み、二日ほどすると毛艶もかなりよくなった。だが、生後三週間までの子猫には昼夜を問わぬ二時間おきの哺乳と微妙な体温の維持調整が不可欠で、排尿排便も自力ではままならず、通常は親猫が舌で局部に刺激を与えてやってはじめてそれが可能となる。  
  親猫にかわってそれらすべてを人間がやるなど並の覚悟では無理なのだが、悲しいかな、そのへんの事情に我々はまるでうとかった。ミギャーの必死の訴えと、よかれと思う我々の懸命の介護とは皮肉なまでのすれ違いを演じるところとなったのだった。突然ミルクを受けつけなくなった原因が体温調整の失敗による嗅覚機能の低下にあると気づくまえにミギャーは体力を消耗し、里親を頼みに知人宅の雌猫のもとに駆け込んだときには、もう自力で乳を吸う力もなくしてしまっていた。その雌猫の慈愛深い必死の介抱にもかかわらずミギャーはどんどん衰弱し、その場でついに息絶えた。
  深い痛みにさいなまれつつも、私は久々に開いた小窓から感性をとぎすまして世界の奥底をのぞいていた。言葉と言葉が、そして意思と意思とがすれ違い、結局は失うことによってしか学ぶことのできないこの世の縮図を見つめていた。失ってはじめて小窓が開くんだよ・・・恋はもちろん、魚の味さえも知らずに逝ったミギャーの声が聞こえてくる思いだった。そのせいか、おりしも過ぎ行く選挙カーの連呼の声がいつもよりいっそう虚しく聞こえもした。
  翌日、庭の片隅にあるニーニーの墓の横にミギャーの墓を並べてつくった。ところがその数日後、こともあろうに、我が子の墓を踏み越えてガールハントに出陣するチイタローの姿が目撃された。「花も嵐も踏み越えて……」どころか、これではまるで、「墓も子どもも踏み越えて、行くは男の生きる道……」ではないか! 私はしばしあっけにとられてその様子を眺めていた。かくしてまた、これら懲りない面々の手によって、「愛」と「哀」との歴史は明日も繰り返される。



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