「マセマティック放浪記」 1999年7月21日
Mathematics Odyssey July 21, 1999
  ある沖縄の想い出(11)
摩文仁ノ丘にて  

  夕刻だったせいもあってか、摩文仁ノ丘は何かを押し隠しでもするかのようにひっそりと静まり返っていた。この地があの地獄絵図の繰り広げられた場所と同じところであるとは信じられないほどに、あたりは森閑としていて、思わず身が引き締まる感じだった。大駐車場で車から降りた私は、まず平和祈念堂をめぐり、それから平和記念公園、平和記念資料館付近を経て、海抜九十メートルほどの摩文仁ノ丘の頂へと向かうことにした。
  首里攻防戦で正規軍の七割を超える兵力を失い、沖縄本島南端の摩文仁から喜屋武岬にかけての一帯へと撤退を決めた守備軍は、強制的に動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を最後まで軍に同行させた。いっぽう、守備軍の南部撤退によって置き去りにされた老人や子供、婦女子らの間には、迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感が募り、彼らのほとんどが何の情報も統率もないままに守備軍のあとを追って南下するという事態になった。
  正規軍と動員部隊と一般住民とが混沌とした状態で南部へと退くのを追撃した米軍は、全軍を挙げて容赦ない砲爆撃を敢行した。いっぽう、戦闘能力をほとんど失っていた正規軍は、自暴自棄に近い敗走状態の中で、多数の一般住民や動員部隊を巻き添えにしたばかりでなく、彼らを盾にさえするという異常な状況に追い込まれた。極限に近いパニック状態のなかで徐々に冷静な判断力を失い、やがて日本に未来はないと絶望するにいたった島民のなかには、自ら命を絶つ者も多数現れた。
  戦史記録によれば、最終的な日本側の戦死者数は二四万四一三六名、その内訳は正規軍六万五九〇八名、地元で編成された防衛隊員二万八二二八名、動員された住民戦闘協力者五万五二六四名、一般住民九万四七五四名であったという。いっぽう、米国の公式資料には、沖縄戦における米軍の死者は一万二五二〇名で、うち陸軍が四六七五名、海兵隊が二九三八名、海軍が四九〇七名であったと記されている。すでに述べたように、日本側の死者の大部分は、首里攻防戦で日本軍が敗退し、八原高級参謀の提唱にしたがって南部への撤退作戦が決行されたあとに生じたものである。
  多数の住民が身を犠牲にしてまで戦わなければならなかった理由について、八原高級参謀は、「日本本土が戦場となった場合、軍隊のみならず、老幼婦女子に至るまで打って一丸となり、皇土防衛に挺身すべきであることは、国民の抱懐する理想であり指導精神であり、わが指導者たちの強調してやまぬところであったからだ」と語り、さらに、「国家民族の興亡安危にかかわる来たるべき戦闘においては、およそ役立つ男子はことごとく軍旗の下に馳せ参ずべきだったからだ」とも述べている。
  だが、いっぽうで、この同じ人物は、昭和二十年六月二十三日早朝、上官の牛島満守備軍司令官や長勇参謀総長が摩文仁断崖の洞窟内で自決し沖縄戦が終ったあとも生き残り、上官らが自決する直前の六月二十日に、砲兵隊高級部員の砂野中佐とつぎのような想いを語り合ったということを伝え残してもいるのである。その内容が前述の戦争指導理念とはあまりにもかけ離れたものであることに、私はただ驚きあきれ果てるばかりで、述べるべき言葉もない。
 「沖縄敗るれば祖国もまた亡ぶ。日本の将来は見えすいているのに、中央の指導者たちはほんとうに文字通り滅亡の道を選ぶであろうか。もし降伏するならば、無力化したわが無数の将兵が未だ全死しない間に降伏して欲しい。否、わが指導者たちは、その本能から自己の地位、名誉、そして生命の一日でも存続するのを希望して、わが将兵の二万や三万を犠牲にしても意に介さないないのであろうか」
  もはや不可能なことではあるが、この言葉の中の「わが無数の将兵が」という部分を「無数の沖縄住民が」に、また、「わが将兵の二万や三万を犠牲にしても」という部分を「沖縄住民の十万や十五万んを犠牲にしても」と置き換えたうえで、そのまま八原という人物に突き返したい思いがするのは、この私だけなのだろうか。
  組織としての意思決定が正しくなかったと判明した場合、その責任の所在が曖昧になるようにあらかじめ意図された構造をもつのは、わが国の各種組織の最たる特徴だと言ってよい。日本古来の談合精神にルーツをもつこのような組織体のありかたは、当該組織が順調に機能しているときや組織が抱える問題が小さなときは都合がよいが、いったん大きな不祥事が起こったり、緊急に組織としての意思決定や明確な責任の所在が要求される事態が生じたりした時には、その欠陥を無惨なまでにさらけだす。
  このような組織体には、名目上その組織の長を務める者を含めて、誰一人として自己責任のもとに迅速な事態の収拾をはかることのできる者が存在しないし、たとえ存在したとしても構造上そうすることが許されていないからだ。多大の迷惑を被った者やあとに残された者には何の救いにも慰めにもならない、「自決」、「自殺」、「辞職」といった、詰まるところは間接的な自己美化ともいえるおきまりの対応がなされ、結局すべてはうやむやにされてしまう。
  首里から摩文仁周辺へと撤退してからの守備軍は、ただひたすら最後の瞬間を待つ無残な敗戦部隊以外のなにものでもなかった。残った守備軍は、南端の喜屋武岬と摩文仁ノ丘一帯の限られた地域に追い詰められ、米軍の砲火に一方的にさらされるだけの存在になった。客観的に判断すれば、全員玉砕は時間の問題だったが、そのような状態を冷静に見つめ投降をはかる者はほとんどいなかった。内心それが最善だと考えた指揮官がいたとしても、日本的組織のなかに染まりきったその身にとって、それを実行に移すのは別の大きな勇気を必要としたに違いない。戦場の露と消えた二十余万の人々の直接的な怨念や、それに対する残された人々のやり場のない怒りよりも、「国体」という名の実体の存在しない亡霊のほうが、我々日本人にとっては今も昔もずっと恐ろしいということだったのであろうかか。
  追い詰められた守備軍がたてこもる喜屋武岬から摩文仁高地一帯の背後の海上は、大小無数の米艦船群によって黒々と覆い尽くされた。そして、それらの艦船群からは、昼夜の別なく、喜屋武岬や摩文仁高地の守備軍拠点に対して猛烈な砲爆撃が繰り返された。また、航空機による銃爆撃も激烈をきわめ、陸上からはM4戦車群とそれらを盾にした米地上軍が四方八方からジリジリと包囲網を狭めてきた。この頃になると守備将兵の死者は連日一千人を超え、戦傷者の数はそれをはるかに上回った。さらに、その戦闘のさなかを右往左往して逃げ惑い、なすすべもなく倒れていった無数の非戦闘員たちの有様は、地獄絵図さながらであったという。
  あまり知られてはいないことだが、あちこちの洞内や壕に隠れる一般住民を救出するため、司令官バックナー中将の指令を受けた米軍は、カリフォルニアやハワイに住む沖縄出身の一世や二世のうち沖縄弁の得意な者を厳選し急遽前線に送り込んだ。そして、彼らにハンドスピーカーを渡し、洞内や壕内に潜む人々に向かって、安全を保障すから外に出てくるようにと呼びかけさせた。この説得工作によって命を救われた住民もそれなりの数にはのぼったが、残念なことに、期待されたほどの効果はあがらなかった。米軍の説得に応じることはスパイ行為や裏切り行為だとみなされ、背後から銃弾が飛ぶヒステリックな状況のなかでは、救命のために尽くされたあらゆる努力は無為に等しいものとなったのだった。沖縄女子師範の若い学生からなるひめゆり部隊の悲劇は、その象徴ともいうべき出来事だった。
  バックナー中将は、六月十日付けで守備軍司令官牛島満中将宛に降伏勧告状を送っていた。「閣下の率いる軍隊は勇敢に戦い善戦しました。日本軍歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍からも等しく尊敬されるところであります」と述べ、守備軍が降伏することを丁重に勧告したこの書状は、どういう経緯のゆえかは不明だが、牛島司令官の手には届かなかったという。三度目の降伏勧告状が六月十七日になってやっと牛島司令官の手に届いたが、彼はそれを笑殺するに終わったと伝えられている。
  牛島司令官自決の五日ほど前のこの時点で沖縄戦が終結していれば、戦死者数も五万人は少なくてすんだろうという見方もあるようだ。しかし、すでに守備軍の指揮系統や通信網が寸断崩壊し、各残存部隊の将兵も一般住民も極度のヒステリー状態の中で自己の判断に基づいて戦闘行動を続けなければならなかったことを思うと、結果はほとんど変わらなかっただろうと推察される。牛島司令官自決後も多くの将兵や住民が二、三ヶ月も死線をさ迷ったという事実も、そのことを裏付けていると言ってよい。要するに、すべては後の祭だったのだ。
  沖縄守備軍首脳が再三にわたる米軍の降伏勧告を無視し続けたにもかかわらず、米軍は大量の降伏勧告ビラをまき、一定時刻がくると砲撃を中断して一般将兵や動員住民に投降を呼びかけた。米軍の記録によると、六月十八日頃には投降者が五十人ほどになり、翌十九日になると自発的に投降する兵士の数は四百人に及んだという。全体からすればわずかな割合ではあったが、米軍の努力はまったく無駄だったわけではなかったようである。
  それにしても人間の運命というものは皮肉なものである。牛島守備軍司令官に降伏勧告状を送った米軍司令官バックナー中将は、六月十八日の午後一時頃、部下の最後の進撃状況を視察するため、第二海兵師団第八連隊の前線監視所に出向いた。この視察に出向くに先立って、彼は第六海兵師団第二十二連隊長ハロルド・H・ロバーツ大佐から、日本軍陣地からかなりの流弾が飛来するので前線の視察は見合すようにとの警告を受けていた。しかし、彼はその警告を押し切り、部下の激励をかねて前線に立った。
  そして、その直後、守備軍側の狙撃兵の放った一発の銃弾がバックナー司令官の胸に命中、彼はその場で落命したのだった。しかも、バックナー中将に警告を発したロバーツ大佐のほうもそのおよそ一時間後に狙撃されて死亡するという二重の不運に襲われた。敗軍の将牛島司令官の自決死よりも早くバックナー米軍沖縄方面総司令官が死亡したという事実は、単なる運命の皮肉という問題を超えて、当時の日米両国の軍隊のもつ構造的な違いというものを強く感じさせてくれる。
 
  摩文仁ノ丘大駐車場左手の沖縄平和記念堂には、沖縄の生んだ芸術家山田真山父子が二十一年の歳月をかけて完成した平和記念像がおさめられていた。大量の漆を捏ねてはりつける堆錦(ついきん)という沖縄独自の工法で造られたこの記念像は、高さ十六メートル、幅八メートルもあり、製作に費やされた漆の総量は三十五トンにも及んだという。山田真山は自費を投入して像の制作に取りかかったが、途中で費用が足りなくなり、国の補助を仰がなければならなくなった。
  ところが、はじめ製作を意図した仏像の観音菩薩像のままでは特定宗教の象徴物への国費の投入を禁じる法律に触れるため、補助金を交付してもらうのは困難だということが判明した。そこで、急遽、台座の蓮の花を別の花にかえ、製作中の像が観音菩薩像ではなく、あくまで平和記念像であるということにし、補助金をもらうことができたというエピソードも残っている。父の山田真山は像が完成するのを目にすることなく他界したという。
  沖縄平和記念堂から摩文仁ノ丘の頂へと向かう途中には広々とした平和記念公園があって、その左手の一角に平和記念資料館が建っていた。この資料館には沖縄戦の各激戦地から集められた様々な兵器や兵士の所持品二千点以上が展示されていた。容赦ない砲火のもとで戦場の屍と化した物言わぬ主たちにかわって、それら展示品の一つひとつは、戦争の悲惨さと酷さを切々と訴えかけているかのようだった。見る人それぞれの感じ方にもよるのであろうが、私には、古びた銃砲から鉄兜、飯盒、各種手記類にいたるまでの品々がそれぞれにある種の怨念を発しているようにさえ思われた。
  平和記念資料館から少し行ったところにある平和広場の手前には島守の塔が建っていた。この慰霊塔は当時の沖縄県知事島田叡ら沖縄県庁職員三五一名の霊を合祀したものである。昭和二十年一月、爪と髪の毛を家族に残して戦地沖縄に知事として赴任した島田は、食料の確保と島民の安全のために奔走した。最後は守備軍と行動を共にしたが、六月十八日を境に彼は消息を絶ったという。摩文仁ノ丘のどこかで倒れたものと思われる。
  平和広場一帯には、沖縄戦の戦死者の名前を刻んだ慰霊碑がずらりと立ち並んでいた。この戦場で戦死した兵士の出身地は、日本の全都道府県にわたっており、慰霊碑に刻まれた戦没者名は出身地ごとに整理配列されていた。慰霊碑に日本兵の名前ばかりでなく、戦死した米軍兵士の名前も刻まれているのはとても印象的だった。
  平和広場の慰霊碑群の間を抜けて斜面を登りつめると、海抜八十九メートルの摩文仁ノ丘の頂上に出た。守備軍最後の司令部が置かれていた洞窟の真上にあるこの沖縄戦終結の地には黎明の塔が建っていた。激戦の跡とは信じられないほどに静まりかえた丘の上からは、沖縄南部を一望することができた。他に人影のないこの丘の頂きに一人佇み、最後の戦闘の状況を想像しながら海と夕空を眺めやっているうちに、どうやら私の身体はある種の霊気に包まれてしまったようだった。ぞくりとした感覚をともなうその不思議な気配に導かれるままに、私は丘の南側断崖を縫って海岸に続く急な細道を下りはじめた。鬱蒼とした亜熱帯樹林に覆われるその断崖のなかほどには、牛島満司令官と長勇参謀総長が自決した洞窟がいまもそのまま残っていて、いかにも暗く淋しい感じの小道はその洞窟のほうへと続いているのだった。



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