「マセマティック放浪記」 1999年7月7日
Mathematics Odyssey July 7, 1999
  ある沖縄の想い出(9)
首里攻防戦再考

  沖縄戦については、これまでにさまざまな報道がなされたり、各種の戦史本が出版されたりしてきているが、記憶を新たにする意味でもこの際もう一度、おおよその首里攻防戦の様子を振り返ってみることにしたい。以下の文章を書くにあたっては、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊)を中心とするいくつかの戦史資料を引用したり参照したりしたことをあらかじめお断りしておきたい。

  首里攻防戦において最初の死闘が繰り広げられたのは、嘉数から西原にかけての丘陵地帯だった。普天間方面を見下ろす嘉数高地には沖縄守備軍がもっとも堅牢を誇る首里防衛陣地の一つがあった。首里本陣の前衛にあたる数嘉の陣地が陥落すれば首里城地下の守備軍司令部方面への進軍路が開けることは確実だった。四月二十日、米国第二十四軍団のホッジ少将は、軍団配下の第二十七師団司令官に対して、いかなる手段を講じ、いかなる犠牲を払っても、その日の日没時までに嘉数高地を占領するよう厳命した。
  しかしながら、日本側守備軍の反撃は凄まじく、さしもの米軍精鋭部隊も腹這い状態のまま一日に四、五十メートル前進するのが精一杯の状態だったという。結局、米軍が目標地点に進攻し、嘉数高の完全制圧に成功したのは一カ月以上も後のことであった。「嘉数高地の戦闘ほど日本軍に苦しめられた戦いはなかった」と米軍戦史にも記録のある通り、物量に勝るアメリカ軍にとってもそれは極限の戦いであったらしい。
  いっぽう、首里陣地正面、いうならば守備軍の心臓部を攻撃したのは第九十六師団だった。強力な火器をもって激しい攻撃を加えはしたものの、堅固なトーチカ深くに陣を構えて徹底抗戦を試みる守備軍精鋭部隊を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の日本軍守備兵を外に駆り出すには土を深く掘り起こすような容赦のない砲爆撃を加えるしかないと考えた。彼らはそれを「耕し戦法」と名づけていたらしい。ホッジ少将の命令一下、米軍は、陸、海、空の全軍をあげて一大総攻勢に転じ、通常の砲弾や爆弾のほか、当時としては新兵器であったナパーム弾やロケット砲などを守備軍陣地に雨霰と浴びせかけた。その空前絶後の猛爆によって与那原から首里にかけての一帯は一面焼け野原になり、すべての住居建物は跡形もなく崩壊した。
  物量にものをいわせた攻撃と並行し、米軍は地下壕や洞穴陣地の守備軍に対し一つの奇策を実行した。守備軍の各地下壕の上部に夜陰にまぎれて練達の狙撃兵を送り込み、壕の入り口付近に陣取らせて壕内から姿を現す将兵を片っ端から狙い撃ちにしたのである。そして守備軍を壕内に封じこめたところで、戦車を地下陣地の入り口に誘導し、壕内に向かって猛然と火焔放射を浴びせかけたり、強力な爆雷やガス弾を大量に投入したりした。「馬乗り作戦」と呼ばれるこの奇襲戦法によって、難攻不落と思われていた守備軍のトーチカや洞穴陣地は次々に無力化され、その中で多くの将兵が戦うことなく犠牲になっていきはじめた。
  沖縄守備軍の司令官は牛島満中将、参謀総長は長勇中将だったが、実質的に戦略を主導したのは高級参謀の八原博通大佐だったようである。彼は、米軍を至近距離に引き寄せ、短刀で闇討ちするにも似た「刺し違え戦法」をとることを考えた。米軍がある程度南進するまではさしたる反撃もせずそれを黙認し、機を見て守備軍地下壕内に隠してある約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ、一挙に相手の主力部隊を殲滅しようというわけだった。守備軍には砲術の大家として聞こえた和田孝助中将などもいて、砲兵隊の砲術技能は日本軍全体においても最高のレベルにあったという。だから、一斉砲撃開始の時期の判断さえ誤ることがなければ、大戦果をおさめるのは間違いないと信じられていたのである。
  実際には、そんな司令部の予想をはるかに超える米軍の猛攻と巧妙な奇襲戦略のために、大反撃にでる前に主力部隊全体が壕内に封じこまれてしまいかねない状態になってきた。しかし、この時点までは、沖縄守備軍はまだかなりの戦力を維持していた。米軍の攻撃の矢面に立ち激戦に耐えていた藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力はすでに半減していたが、トーチカ内で温存されていた和田中将配下の第五砲兵隊のほか、後方地区に控える雨宮中将麾下の第二十四師団、独立混成第四十四旅団残存部隊、さらには大田少将率いる海軍部隊などの兵力はなお健在であった。
  南部地区に控えるそれらの部隊を首里戦線に投入すれば、ある程度は米軍に反撃態勢をとることができると考えた司令部は、第二十四師団と独立混成第四十四旅団に北上を指示、それらの部隊は夜陰にまぎれて前線に進出した。こうして、首里本陣の沖縄守備軍司令部がその命運をかけた決戦の準備は整った。
  しかしながら、この時点で守備軍司令部首脳の間には戦術上の問題で意見の対立が起こっていた。長参謀総長や若手参謀たちが、全軍をあげて総攻撃に出る機が熟したと判断し、総力をあげて反撃に転じるべきだと主張したのに対して、八原高級参謀は、増援部隊を第二防衛線に配備し、最後まで専守持久の戦法をとるべきだと主張して譲らず、容易には収拾がつかなかった。その間にもじわじわと進攻を続ける米軍は、砲爆撃の狙いを守備軍司令部近辺に集中しはじめ、地下陣地の坑道内まで煙硝が立ちこめる事態にまでたちいたった。当然、守備軍の壕内においては日に日に緊張の度合いが高まり、司令部には殺気立った空気が漂いだした。
  壕内の将兵の間には、このまま持久戦を続け、一矢を報いることもなく敗北と死を待つのは耐えがたいという思いが募り、「攻撃は最大の防御なり」というかねてからの日本軍の教えにのっとって、この際一斉攻撃に転じるべきだ、という気運が高まった。そんな気運をうけて、司令部内の大勢は攻撃論者の急先鋒、長参謀長の主張を支持することで固まった。そして、最終的な幕僚会議における採決に基づき、牛島満司令官は、五月四日早朝を期して全軍を挙げ総反撃攻勢に転じることを決断した。
  この決定を不服とした八原高級参謀は、そのときの心境を「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」と記録している。八原の危惧したとおり、無謀な反撃攻勢策はほどなく無残な敗退を招き、守備軍は再び地下壕に潜って持久戦に転ずることになっていった。
  現実には持久戦術のほうも米軍にはほとんど通用しなかったので、八原の判断が正しかったとは言い難いし、いろいろな発言や行動記録を読み較べてみるかぎり、この人物の言動にはかなりの矛盾と自己弁護とも思われるある種の翳が感じられる。また、のちに彼のとった作戦が結果的には沖縄一般住民の大量死を引き起こすことになっていく。したがって、上官に対する八原の批判の正当さを全面的に信じるわけにはいかないが、彼の見解もそれなりには当たっていたのだろう。
  総攻撃を前にした司令部壕内では、本職の料理人の手になる山海珍味のご馳走に洋酒まで交えた戦勝祈願の祝宴が開かれたという。盛装した若い女性が居並ぶ守備軍首脳の間を酌してまわり、酒の勢いもあって皆が「明日の総攻撃は必勝間違いなし!」と口にするなど、意気軒昂たるものがあったらしい。どこまで本気だったのかはわからないが、長参謀長などは、「天気予報では五月三日から四日にかけては雨だ。敵の戦車は泥にはまって動けず、飛行機は飛べないだろう。五日の端午の節句には戦勝祝賀会をやるぞ」と怪気炎をあげる有様だったという。もっとも、この酒宴の数日前、長参謀長は意見を異にしていた八原高級参謀に向かって「いっしょに死のう」と涙をみせつつ自分の主張に同意を求めたというから、内心では全軍玉砕もありうることを覚悟していたのかもしれない。
  五月四日午前四時五十分、沖縄守備軍は総反撃を開始した。地下壕に温存されていた守備軍の四百門の主力砲がいっせいに火を吐き、砲声が首里丘陵に轟きわたるのに合わせて、九州本土の知覧や鹿屋から飛来した多数の神風特別攻隊機が海上の米艦船群に襲いかかった。戦術や兵器の優劣はともかく、死力を尽くしての守備軍の反撃ではあっただけに、一帯はたちまち修羅場と化した。
  五月四日の午前五時前、米軍第二十四陸軍砲兵隊員は、首里防衛戦線上に位置する二つの集落付近から火の玉が高々と打ち上げられるのを目撃した。そして、次ぎの瞬間、守備軍陣地から米軍の陣地に向かって猛烈このうえない砲撃が始まった。その砲撃の凄まじさは、米兵がそれまでに一度も体験したことのないほどのものだったという。しかし、守備軍の反撃攻勢はあまり長くは続かなかった。米軍も即座に火器や航空機をを総動員して応戦を開始、午前八時頃までには前線全体で守備軍の攻撃をほぼ鎮圧した。
  守備軍敗退の原因の一つは、味方の援護射撃を過信した主力兵団が攻撃開始とともに何の遮蔽物もない平地に無鉄砲に飛び出し、米軍の重砲火を浴びて退路を断たれ動けなくなってしまったことにあった。生存者の言葉を借りれば「まるで逃げ場を失ったカモを狙い撃ちするみだいに次々と撃ち倒されていった」のだという。たとえば、村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊などは、米軍の集中砲火のために進退ともに不可能になり、大半の隊員が戦車もとともなすすべもなく戦死した。また、総攻撃のために地下に温存してあった守備軍自慢の巨砲は、地上に姿を現し一斉に火を吹いたまではよかったが、それを待ち構えていた米軍艦載機の餌食となり、現実にはその威力をほとんど発揮することもなく、ことごとく破壊し尽くされてしまった。
  みるべき戦果をあげることのできなかった地上軍の戦闘に対して、神風特別攻撃隊のほうは、五月四日までにのべ二二二八機を出撃させ、米艦船十七隻を撃沈もしくは大破させるという戦果をあげた。だが、当初こそ攻撃成功率は二割に近かったものの、米軍が神風特攻機に対する防御策を強化するにつれ、その成功率は減少の一途をたどり、ほどなく多数の若い命が、むなしく南海の藻屑と消えていく結果になった。
  五月五日の午後六時、司令官牛島満中将は地下壕内の自室に八原博通高級参謀を呼び、「予は攻撃中止を決定した」と告げたという。総攻撃の失敗を認め、さらなる自陣の損害を食い止めるための決断だった。伝えられるところによると、司令官牛島は、それと同時に「残存兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人になるまで、沖縄の南の端に尺寸の土地の存するかぎり、あくまで持久戦をたたかい本土決戦の準備のために時をかせぎたい。今後は一切を貴官に任せるから、予の方針にしたがい思う存分にやってくれ」と告げたという。
  牛島中将はのちに摩文仁高地の洞穴内で自決しているので、八原参謀が伝えるその言葉が牛島の真意であったかどうかはもはや確かめようがない。陸軍士官学校長を務め、人格者だったとも言われる牛島の言葉にしてはいささかの疑問が残る気もする。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に兵を引いて持久戦を展開、結果的に十万人を超える民間人犠牲者を出すことになった作戦の実質的な指揮官が八原だったことを思うと、どこかに責任逃れのにおいがしないでもない。
  総攻撃が中止されたからといっても、戦いが終わったわけではなく、その後も日米双方には多数の犠牲者が続出した。とくに守備軍の犠牲者の大半は生え抜きの精鋭とうたわれた兵士であっただけに、もはや反撃攻勢は絶望的となった。総攻撃が失敗に終わったこともあって、最終的に累計すると守備軍は首里攻防戦全体を通じてその兵力の七十五パーセントを失ったと言われている。
  沖縄戦当時の鈴木首相は戦後の回顧談の中で「沖縄の日本軍が敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機として具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して守備軍はそうしてくれなかった」と述べた。のちにそれを知った八原は、「いやしくも一国の首相が、沖縄戦にこんな期待を寄せていたとすれば、沖縄の実情をご存知なかったものと言わねばならぬ。沖縄戦においては、現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていたのだ。決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に決戦を強いて本気で戦勝を期待するのは本末転倒も甚だしい」と反論している。
  八原は、大本営と現地守備軍との間には正反対に近い意志の乖離(かいり)があったことを指摘、その裏事情を明らかにしている。彼によると、沖縄戦の始まる前年あたり以降、上は参謀総長から下は参謀本部部員にいたるまで、一人として沖縄に直接視察に来たり、将兵を激励しに来たりした者はいなかったという。それどころか、沖縄方面の作戦について現地の作戦主任である八原自身とさえ親しく膝を交えて談合した大本営関係者は一人もいなかったらしい。しかもそのほんとうの理由は、那覇市の遊郭が全滅して享楽に耽ることができなくなったことや、南西諸島の海域に米軍の飛行機や潜水艦が多数出没しはじめ、身の危険を感じたからであったという。
  八原はさらに、大本営の幕僚たちのこの無責任な態度は、米国の場合とはあまりにも対照的だったと述べている。米国などでは、大統領や首相が自ら前線に出かけて将兵と語り合い、国政方針と戦争現場の実態との調整をはかるのが常だったが、当時の日本政府や大本営首脳にはそんな配慮などまるで欠けていたという。結局、大本営は、自らが導いた沖縄作戦に見切りをつけて増援部隊を送ることをやめ、沖縄本島守備軍、南西諸島海軍部隊、さらには動員された多数の沖縄住民総力をあげての戦いをみすみす見殺しにしたのだった。

  米軍第十軍司令官バックナー中将は、沖縄守備軍の総反撃が失敗に終わったのを見届けると、配下の全軍に五月十一日を期して総攻撃にうつるように命令した。いっぽうの守備軍は総攻撃に失敗したあと、すぐに持久戦態勢に戦略を切り替え、兵力の減少を考慮して戦線を首里周辺に縮小した。米軍が総攻撃に転じたこの日には、神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団めがけて猛然と決死の体当たり攻撃を敢行した。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが、一部の特攻機は米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与え、やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、他の特攻機がそのエンタープライズをも大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移されたという。
  陸、海、空、海兵隊の連携作戦のもと全戦線にわたる総攻撃を開始した米軍に対し、守備軍も最後の死力をふりしぼって頑強に抵抗した。勢い、首里の守備軍本陣に対する砲撃は過去のそれをはるかに上回る激烈なものとなった。米軍主力部隊は昼夜の別なく戦車砲や機関砲、臼砲、ロケット砲を撃ちこみ、じわじわと首里本陣に肉迫していった。
  米軍がシュガー・ローフと呼んだ小さな丘をめぐる攻防戦は、ひときわ凄まじいものであった。この丘が日米どちらにとっても戦術上の要所になっていたため、米第六海兵師団は一挙にその地を占拠しようと、多数の戦車を送り込んで攻め立てた。しかし、首里の西方に位置するこの丘陵地を失えば司令部陣地がたちまち危機に瀕することは目に見えていたので、守備軍も第六十二師団と独立混成第四十四旅団の一部部隊を配置し、同地を死守する構えにでた。
  物量ではるかに勝る米軍は、攻防戦の開始とともに寸刻みの砲撃や爆撃を加えて日本軍の動きを封じ、戦車を盾に攻め進んだ。その猛攻を通常の戦法で防ぐことは不可能と判断した守備軍兵士たちは、爆雷を抱えたまま次々に洞穴陣地から飛び出し、攻め寄せる米軍の戦車や砲兵隊に向かって突入、捨て身の体当たり攻撃を敢行した。こうしてシュガー・ローフの丘を両軍で一日数回も取りつ取られつするという激闘が続き、戦いが始まってから六日後の五月十八日になってようやくその丘は米軍の手に落ちた。
  勝つには勝ったが、あまりにも激烈な戦闘のため、米軍第六海兵師団は二六六二人もの死傷者と一二八九人もの戦闘疲労症患者、すなわち発狂者を出す結果となった。これらの精神異常者を治療するため、米軍は特別に専門の野戦病院を設立しなければならなかったという。むろん、守備軍側の死傷者は米軍の数倍にものぼったと推定される。
  シュガー・ローフ制圧に目途をつけた第六海兵師団主力部隊は、その損傷にもめげず、次ぎに首里本陣北側に隣接する沢岻および大名の両高地の攻撃に取りかかった。いかなる犠牲を払っても同地を死守せよと牛島司令官から厳命を受けた現地守備軍は、力のかぎりを尽くしたが、臼砲や艦砲射撃の猛撃に支援された海兵隊の手によって沢岻高地がまず占拠された。第五海兵連隊の増援をうけた米第六海兵師団の猛攻に、大名陣地守備軍は果敢に立ち向かい、しばらくの間は米軍をまったく寄せつけなかったが、米軍の攻撃はいつにもまして執拗だった。通常砲弾はいうにおよばず、爆雷や火焔放射器からロケット砲、ナパーム弾にいたるまでのあらゆる火器が動員され、ついに大名高地一帯の守備軍陣地は陥落した。
  天然の要塞石嶺高地の攻略にはさしもの米軍も手を焼いた。米軍のある中隊は総員二〇四人で石嶺高地に夜襲をかけたが、一五六人を失った。一二九人からなる別の攻撃隊は生存者が三〇人だけ、交替要員として派遣された五八人の小隊などは、わずかに三人が生還しただけだったという。それでも徐々に激戦を制し、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した米軍は、いよいよ司令部に直撃弾を浴びせはじめた。そして、風前の灯火とも言うべき状況に追い込まれた首里本陣の陥落はもはや時間の問題となっていた。
  守備軍本陣は三っの強固な防衛線で守られていた。右翼には第二十四師団が陣を構え、中央には第六十二師団が陣を布いていた。また、司令部陣地の東北側には防衛線中もっとも堅固で難攻不落とみなされていた弁ヶ岳陣地があった。ところが、大方の予想に反し米軍が真っ先に攻略したのは、平地からそこだけ急に盛り上がった不落のはずの弁ヶ岳陣地だった。米軍がチョコレートドロップと呼んだ標高一六七メートルの弁ヶ岳陣地は、歴戦部隊の米七十七歩兵師団の猛攻撃に合い、あっというまに陥落してしまった。制空権を奪われていたため、米軍機による空中からの支援攻撃や、落下傘部隊の投入によってあっけなく壊滅させられたのだった。
  五月二十一日、米軍はいよいよ首里市内に進軍しようとしていたが、この日沖縄はたまたまひどい豪雨に見舞われていたという。肉迫する米軍を前にしてもはや万策尽きた守備軍首脳部は、首里で玉砕する覚悟を固めつつあった。ところが、八原高級参謀だけは、首里を脱出して南部の喜屋武岬方面への撤退を画策していた。そのため彼は腹心の参謀長野英夫に密かに命じて、守備軍司令部のとるべき方策を考えさせた。暗黙のうちに八原の意向を汲んだ長野参謀は、次のような三案を提示したという。

一、守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠り、最後まで徹底抗戦する。

  五月二十二日の朝、八原はそ知らぬ顔でこれらの三案を長野から長参謀総長に提出させた。八原の画策とは知らぬ長参謀総長はすぐに彼を呼び、その見解を求めた。そこで、すかさず八原は喜屋武方面への撤退案を推すいっぽう、同案について配下の各兵団指揮官の意見を尋ねてみることを勧めたのだった。
  その夜の協議において、第六十二師団の上野貞臣参謀長は配下の将兵の大部分が首里戦線で戦死したうえ、首里洞窟陣内には後送困難な何千人もの重傷者がいるので、最後まで首里で戦うべきだという長参謀総長寄りの意見を述べた。それに対し、第二十四師団の木谷美雄参謀長と軍砲兵隊の砂野高級部員は、喜屋武方面への撤退案に賛成した。また、独立混成第四十四旅団の京僧参謀は、喜屋武地区ではなく、知念半島方面への撤退案を支持し、海軍を代表して会議に参加した中尾参謀はとくに意見を述べなかった。その結果、八原高級参謀の思惑通りにことは運び、牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを最終的に決断した。
  五月二十七日夕刻から二十八日にかけて守備軍の南部撤退は開始された。折からの豪雨と夜陰とが守備軍司令部の撤退に大きく味方した。守備軍首脳陣は周到な撤退計画を練り、いくつかの小隊に分かれて南下した。第三小隊までは摩文仁方面へと直行したが、牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らを含むやはり五十人の第五小隊は、ひとまず津嘉山に立ち寄り、一時的にそこを戦闘司令部にすることにした。 守備軍司令部撤退と前後して、第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下、翌日の二十八日までには首里最前線に布陣していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も、津嘉山の戦闘司令部に合流するため撤退を開始した。
  米軍が守備軍主力部隊の喜屋武方面撤退に気づいたのは、撤退開始後かなり時間がたってからだった。五月二十九日に米第一海兵隊が首里城址に突入したとき、首里要塞はすでにもぬけの殻になっていた。八原の策謀通り、南部での持久戦を狙った一大撤退作戦は米軍の目をも欺き、見事な成功を収めたのだった。しかし、この撤退作戦こそはまた、のちに続く凄惨な地獄絵図の序章でもあったのだ。もし、首里で守備軍が玉砕しておれば、正規軍人約九万六千のほとんどが戦死していたかもしれないが、十数万人にも及ぶ沖縄住民や現地動員防衛協力隊員の死は避けられていたかもしれない。沖縄南部戦線における真の悲劇はこの時点から始まったのだ。
  五月末の軍団長会議には当時の島田叡沖縄知事も同席していた。その席で島田知事は、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と憤ったという。そのとき牛島司令官は、「第三十二軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて会議を締め括ったという。
 「絶え間ない雨のカーテンの陰に隠れて、牛島はその兵力の大部分を率いて脱出することに成功した。そして首里城の真南十四キロ半、岩だらけの海岸を見下ろす絶壁の洞穴に新司令部を置いた。だがこの撤退は沖縄の住民にはとても高価なものについた。恐慌状態に陥った民間人の群れが軍のあとを追って南へ逃げ、砲爆撃で虐殺された。何千もの死体が、ぬかるみの道端に置き去りにされていた」
  これは、ジョン・トーランドがこの沖縄守備軍の南部撤退について述べた一文である。まさに彼の指摘の通り、その作戦は、ひめゆり部隊の悲劇をはじめとする数々の大惨劇を引き起こしたのだった。



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