「マセマティック放浪記」 1999年6月23日
Mathematics Odyssey June 23, 1999
  ある沖縄の想い出(7)
沖縄は沖縄固有の物差しで

  翌日は朝食をすませたあと、ホテル専用のビーチに出て一泳ぎした。純白の珊瑚砂も綺麗だし、エメラルドグリーンの海の色もなかなかのものだった。だが、私にはいまひとつ物足らなかった。前夜は気がつかなかったが、このビーチは大量の珊瑚砂を運んできて人工的に造ったものであることは明らかで、海底の構造が単調なうえに海中に生物の影がほとんど見当たらないのが、そのなによりの証だった。海に何を求めるかは人それぞれだから、純白の砂と青く透明な水のきらめくこのビーチが素敵だと思う人も多いことだろう。それはそれで結構なことであり、他人がそれに対してあれこれ言う筋合いのものではなかったが、ともかく、野蛮な育ちの私の感性にはいまひとつフィットしなかった。
  ホテル・サンマリーナをチェックアウトした私は、五八号線をいまいちど北上し、部瀬名岬にある恩納海岸海中公園を訪ねてみた。当時のここの売り物は岬の沖一七〇メートルほどのところにある海中展望塔で、ラセン状の階段を降りると、水中展望室の窓から海底の様子が眺められるようになっていた。珊瑚の林と潮の動きに伴ってゆらめき動く海草、そしてそれらの間を泳ぎまわる色とりどりの熱帯魚の群れとそれなりに見ごたえはあった。私自身は子供の頃から海に潜ってこういう光景を幾度となく見てきたのでとくに驚きはしなかったが、水族館とは一味違う自然まかせの光景で、展望室に近づく魚類もそのときどきで異なるから、都会育ちの人などにはとても新鮮に感じられたことだろう。
  せっかく海中公園にきたついでだからと思って観光用グラスボートに乗り一帯の海の中をのぞいてみたが、群生する珊瑚そのものは皆小振りなものばかりだった。近年の状況はわからないが、私が育った甑島でもかつてはそれより数段大きなテーブル状珊瑚の群生を見ることができた。もっとも、座間味諸島や宮古島、西表島などに行けば話はまた違ったことだろう。
  この海中公園についていまも強烈に私の記憶に焼き付いているのは、それとは別の光景だった。私が乗船したグラスボートの舳先にはかなりの数の菓子パンが山積みしてあった。ボートに乗ったときから、それらはいったい何のために使うのだろうと思ってはいたが、いまひとつピンとはこなかった。ある地点にやってきたとき、ボートの舵をとっていた船頭が私を含む同乗の三人の客に向かって「そのパンをちぎって海面に投げてみてください」と声をかけた。
  一瞬何ごとだろうと思ったが、その直後に起こった事態に私はあっけにとられて言葉を失った。ボートの周辺の海面にまかれたパン切れ目指して、大小無数の魚が殺到してきたからである。バチャバチャと水音をたてて跳ね回る魚でボートの周りは埋め尽くされた。
  池の鯉ならともかく、海中に棲む天然魚がパン切れに向かって飢えたピラニアのごとくに群がる光景は、なんとも衝撃的なものだった。べつに魚がパンを食べて悪いということはないが、どうみても、その光景は、私が過去に見慣れた海の魚の生態とはまるで異質のものだった。あえて述べれば、アメリカ的とでも言うべきだったろうか……。
  目の前で起こっていることが善いとか悪いとか言う気はまったくなかった。私が言葉に窮したのは、そんな魚たちの姿に戦後の沖縄の置かれている状況を重ね見たからである。終戦直後から現代に至るまで、沖縄では本土の日本人の想像をはるかに超える文化の融合が起こってきた。古来、沖縄は、沖縄独自の文化と、大陸文化や東南アジア文化さらには日本本土の文化との融合点であった。だが、終戦後にこの地で起こった一連の文化融合の流れは、融合の規模の大きさと融合のもととなった各々の文化の相対的な違いの程度において、過去の歴史の常識をはるかに超えるものであったのだ。沖縄の現状を肯定するにしろ否定するにしろ、我々本土の人間が己の物差しを振りかざして軽々しく云々できるようなことではないと、つくづく思わざるを得なかった。その象徴的な光景を目のあたりにしながら、沖縄はいまこの地で暮らす人々の総意の向かうところに進んで行くしかないと、心底私は感じたのだった。
  奇しくも、海中公園のあるこの部瀬名岬一帯が来年開催予定の沖縄サミットのメイン会場に選ばれた。沖縄県当局と名護市が中心になって、現在関連施設の建設や周辺環境の開発整備をおこなっているところだそうだが、付近の状況はさらに一変することだろう。各国の首脳たちが沖縄にどのような印象をもっているかは知るよしもないが、明るく近代的に整備されたリゾート地としての一面ばかりでなく、人類史においてもまれな、重いおもい歴史を背負ったもう一面の沖縄の姿も十分に知ったうえでサミット会議に臨んでほしいものである。一回や二回のサミット会議で世界の重大懸案が解決されるほど甘いものではないことは即刻承知だが、沖縄のあの岬の一角において、もつれにもつれたこの世の矛盾の糸玉をほぐす糸口でも見つかれば、それはそれで喜ばしいことである。
  ただ、沖縄でサミット会議を開けるようにしてやったし、それによって一時的に経済効果もあるのだから、その代償として米軍基地の存続には沖縄の住民もそれなりの協力をすべきだなどという本末転倒した考えをもつ国会議員などがいるとすれば、不見識もはなはだしい。本土の政治家や財界筋の要人には、戦後の沖縄経済は米軍基地がなければやってこれなかったなどと平気で主張する人も少なくないが、それは大変誤った一面的な見方である。
  終戦後まもなく米軍の軍政下におかれ、極東から東南アジア一帯にかけての戦略基地として重要視されるようになったという特殊な歴史状況のゆえに、沖縄経済が米軍基地ならびにその関係施設の存続維持と密接な関係をもつようになったことは事実である。沖縄本島の市町村のなかには、経済的理由のゆえに米軍基地関係の誘致に積極的なところも少なくない。そういった市町村の現実的な財政苦や住民の生活状況を考えるとき、それらの自治体が基地関係施設の存続や誘致に肯定的であることを責めることはできないし、大田昌秀前沖縄知事が先の選挙で敗れたのもそのあたりの問題への対処の難しさがあったからだろう。
  しかし、たとえ沖縄に現在のような米軍基地が存在しなかったとしても、沖縄は沖縄として存続し、戦後の荒廃から立ち上がってそれなりの発展を遂げていたに違いない。昔から沖縄には産業らしいものがあまりなかったから、米軍基地抜きでは戦後の沖縄経済は成り立たなかっただろうなどと、本土の人間が訳知り顔で語ったりするのは、沖縄の歴史文化に対する無知と冒涜以外のなにものでもない。世界のどんなに環境の厳しいところでも、どんなに貧しいところでもそこに住む人々は独自の文化と歴史を築きながらたくましく生き抜いてきた。それが人類史の常識である。
  まして沖縄は、古来、南海交易の要衝として、幾たびかさまざまな苦難に面しながらも豊かな繁栄を続けてきたところである。そもそも、沖縄の文化と富とを収奪し、挙げ句の果てにそれらを破壊し尽くしたのはいったい誰だったというのだろう。また、戦後に再出発した日本本土の地方自治体のうち、自立した経済を営むことができたところがどれだけあったというのだろう。

  部瀬名岬の海中公園をあとにした私は、五八号線をいっきに嘉手納ロータリーまで南下し、嘉手納基地の北側を抜けて東海岸側の具志川市に向かう道路に入った。途中までは沖縄にやってきた当日に一度通った道である。基地脇を過ぎしばらく行くと沖縄市知花にある東南植物園の近くに出た。どうしようかなと思ったが、せっかくのことなので、とりあえず立ち寄ってみることにした。沖縄随一の規模を誇るこの植物園には、珍しい熱帯植物や亜熱帯植物が園内のいたるところに生い茂っていたが、十年以上たったいまとなっては、椰子の木がやたらに生えていたなあというくらいの記憶しか残っていない。
  ただ、園内の売店で飲んだ椰子の実のジュースの味だけはいまもはっきりと憶えている。椰子の実をまるごと一個買い、なかほどの核部の殻が見えるまで繊維質の厚い皮と剥ぎ取り、まるい殻の一部を切除してもらった。そして、ストローをつかって中のジュースを飲んだ。ご存知の方も多いと思うが、白く半透明の椰子の実のジュースは、色も味も市販のスポーツドリンクのポカリスエットによく似ている。ジュースの量は、椰子の実一個で缶ジュース二個分ほどはあった。もしかしたら、ポカリスエットの発案者は、椰子の実のジュースをヒントにしてその清涼飲料水をつくりだしたのかもしれない。殻の内側に薄い層をなしてついている白い油脂分も食べられるというので、お店の人のすすめに従い七味をかけて試食してみたが、結構いける味だった。
  東南植物園のある沖縄市から隣の具志川市にかけての街路や街並みは、周辺に建ち並ぶすべての民家もふくめてなにもかもがアメリカ的だった。その驚くほどのアメリカ化の理由は、駐留米軍関係者やその家族が多数この一帯に住み着いていることもあるが、熾烈を極めた沖縄戦において、琉球古来の文化を留めていた南部の主要集落は徹底的に破壊し尽くされ、灰燼に帰してしまったとにもよるのだろう。戦後、米軍の主導によって生活環境の復興整備の行われた沖縄南部が古来の文化の影をほとんど喪失してしまったのは、その時点で残すべきものがほとんど失われてしまっていたからに違いない。
  具志川市を抜けた私は、太平洋に向かって南東に大きく突き出た勝連半島を目指すことにした。この半島の北側は与那城村(よなぐすくむら)、南側は勝連町になっている。この半島の近辺にはホワイトビーチなどをはじめとする米軍専用のビーチが多い。半島のほぼ中央を貫く道路をしばらく走り北側の海岸線に出たところが与那城村の屋慶名港だった。港の背後の展望台にあがるとすばらしい景観が望まれた。眼前には藪地島、そのむこうには浜比嘉島、さらに、海面を二つに切り分けてはるかにのびる海中道路の先をたどると、平安座島、宮城島、伊計島の島影が浮かんで見えた。勝連半島にほとんど接する感じの藪地島はその名とは裏腹になかなか美しいたたずまいの島だったが、地元の人の話によるとハブが多いことで有名だとのことだった。
  屋慶名と平安座島の間の浅瀬を埋めたてて造った四七〇〇メートルの海中道路は、実際に走ってみると、なんとも快適なドライブコースだった。もともとこの道路は石油コンビナートと石油備蓄基地のある平安座島と沖縄本島とをつなぐために設けられたものだそうだが、すでに観光道路としても一役買っている感じだった。現代の地図を見るかぎりでは平安座島と宮城島とは一つの島になっている。私もはじめは、一つの島に二つの名前がついているなんて何かの間違いではないかと思ったが、事情を知って納得した。かつては別々の島だったのだそうだが、石油基地を拡大する過程で二つの島の間も完全に埋めたてられて一体化し、地図では見分けられなくなったらしい。
  景観のよさも抜群だったが、海中道路を走りはじめてすぐに気になったのは、Yナンバーの車が圧倒的に多いことだった。一瞬私は、誤って米軍専用の地域に紛れ込んでしまったのではないかと錯覚しかけたほどである。ほとんどのYナンバー車には男女のカップルが乗っていて、外国人男性と現地の若い女性という組み合わせが大半を占めているように思われた。たぶん米軍軍属たちのちょっとしたデイトコースにでもなっているのだろう。
  左手の金武湾越しに沖縄本島東海岸線を遠望しながら宮城島の突端まで走り、狭い海峡に架かる橋を渡ると、そこが一番はずれの伊計島だった。島の南側には小集落があって、近くの港にはアーケードのような奇岩が立っていた。島の西側のほうにまわると美しいビーチが現れたが、そこが知る人ぞ知る伊計ビーチだった。私はビーチを左に見ながら行けるところまで行き、そこで車を駐めると、しばし青く輝く海を眺めながら休憩をとった。
  あたり一帯には本部半島の今帰仁城址で耳にしたのと同じ蝉の声が響いていた。どんな姿形をしているのだろうと思って鳴き声のする樹木の枝を注意深く観察してみると、羽が透明で頭部が青い色をした、ツクツクボウシを二倍にしたほどの蝉が見つかった。やはり本土では見たことのない蝉だった。
  伊計島から再び海中道路を通って勝連半島に戻ると、中城湾沿いの道を走って中城村(なかぐすくむら)方面へ向かって南下した。そして、中城城址に立ち寄った。十五世紀の中頃に建てられた山城だというが、壮大な城壁がいまもほとんど往時のままで残っており、その築城技術は高く評価されている。。伝えられているところによると、かのペリー提督もかつて琉球を訪れたとき、この城壁を見てその建築技術の高さを絶賛したらしい。ペリーはこの城の築城技術をフランス式だとみなしたのだそうだが、実際になんらかのかたちでフランスの築城思想の影響があったものなのか、それともたまたま似通ったものになったのかは、素人の私には判断がつかなかった。ただ、東南アジア方面から異国人がやってきて築城技術に影響を与えたということは、まったく考えられない話ではない。
  城の東南側は高さ数十メートルの絶壁になっていて、青々と潮のうねる中城湾が眼下いっぱいに広がっていた。この城は首里王朝の忠臣護佐丸の居城だったというが、彼は政敵で勝連城主でもあった阿摩和利の妬みを買い、その讒言によって謀反の罪をきせられた。忠節を尽くした主君の尚泰久王に疑われるのは無念と、護佐丸は一族郎党とともに自害して果てたという。したがって、この城は悲劇の城の一つだと言ってよい。のちになって、謀反を企てたのは讒言をした阿摩和利のほうであったことが発覚、激戦の末に勝連軍は敗れ、阿摩和利は刺殺された。この史話は沖縄芝居にも取り入れられ、以来、地元ではもっとも人気のある演題になってきたのだそうである。
  中城城址をあとにするころには日も暮れかかってきていたが、ついでなので大急ぎで国の重要文化財中村家を訪ねてみた。中村家は二百年以上の歴史をもつ沖縄最古の民家で、幸いにも戦火による焼失をまぬがれた。背後に魔除けのひんぶん(石の衝立様のもの)をもつ門をくぐって入った敷地内には、赤瓦葺きの母屋のほか、アシャギ、高倉、豚舎など、五棟ほどの建物が配されていた。正面の母屋の右手にあるアシャギには二男や三男が結婚するまで住む部屋があり、また、その一部は客間として使われることもあったらしい。母屋の左手にあるのは高倉と呼ばれる大きな倉庫で、ネズミや水害などによる被害を防ぐために床面を高い柱で支えた南方独特の構造になっていた。
  中村家の建物全体の建築主材は木質が硬く耐久性のあるイヌマキで、建物本体はずいぶんと古いが、現在の赤瓦葺きの屋根だけは明治以降のものであるらしかった。中村家は村長も務めた豪農の家柄だったが、士族ではなかったために、明治になるまでは瓦葺きの屋根の家に住むことは許されていなかったからだという。夕刻のせいもあったが、中村家の周辺には各種の樹木が繁っていて、実に静かで落ち着いた感じだった。
  中村家の庭ではたまたま沖縄伝承芸能の一つ「花風(はなふう)」の舞のテレビ撮影が行われているところだった。撮影関係者のほかには私しかいなかったのをよいことに、愛惜の思いを深く秘めたゆるやかなテンポのその踊りに見惚れていると、なんとも言えない気品を湛えた民俗衣装姿の舞踊家の方が撮影の合間に自分のほうから近づいてきて、花風の舞について簡単な説明をしてくれた。
  この花風は、昔遊女が愛する人との別れに際して、永遠の祈りと深い惜別の情を込め密かに舞ったものだという。遊女は愛する人が旅立って行くのを表立って見送ることが許されなかったので、別れを前にこの特別な舞を披露し、相手にそっと自分の哀しみを伝えたのだった。現在伝承されている花風は、琉球王朝の踊を取り入れ、明治の初めにいまのかたちに完成されたとのことだった。無言の言葉を内に秘め、青紫に内張りした日傘の揺れに思いをたくす花風の舞に、時を忘れて私はいつまでも見入っていた。こんな舞で見送られたであろう昔日の沖縄人を、内心で羨ましく思っていたことは言うまでもない。
  中城の中村家をあとにするころには夜の帳(とばり)が一帯を覆いはじめていた。私はアクセルを煽るように踏み込みながら与那原町まで南下すると、そこから那覇郊外の首里に通じる道路に入り、首里城跡の近くの沖縄グランドキャッスルホテルに午後七時頃チェックインした。丘の上にある高層のホテルの窓からは、那覇市の中心街方面の夜景を一望することができた。
  ホテルの自室で一服したあと、私は那覇の繁華街国際通りに出て周辺を散策、伊勢エビとステーキを合わせ盛った料理を食べさせてくれるレストランを見つけるとすぐ中に入った。注文した料理は看板に偽りなくとても美味で、しかも本土に較べてはるかに安い料金だった。また、たまたま食事中に隣り合わせになった地元の若い女性は、私の沖縄訪問が初めてだと知ると、那覇市街や首里をはじめとする沖縄南部地域についての情報をいろいろと教えてくれた。笑顔の素敵な平良さんというその女性はボーイフレンドと待ち合わせ中だったが、彼が現れるまでの間、取材を兼ねた私の質問に親身になって答えてくれた。
  夕食後あてどもなくぶらついた夜の国際通りは、その名に恥じず大変な賑わいぶりで、外国人の姿もずいぶんと見かけられた。そして、那覇市の人口からすると不釣り合なくらいに、付近のお店や市場は大規模なものが多く、商品も国際色豊かだった。本土とは違って、案内の看板も日本語のほか英語、中国語、韓国語と四カ国語で表記されており、まさに国際都市那覇の面目躍如というところだった。



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