「マセマティック放浪記」 1999年6月16日
Mathematics Odyssey June 16, 1999
  ある沖縄の想い出(6)
新旧の沖縄の狭間にて

  タナガーグムイに向って山間部を通過中、突然、バリバリバリバリという不気味な轟音がどこからともなく響いてきた。しかも、エンジン音をかき消すくらいに激しいその音は繰返し繰返し聞こえてきた。機関砲を連射している音のようにも、軍事用のヘリコプターが超低空で飛行している時の音のようにも思われた。おそらく沖縄駐留の米軍が、近くの山岳地帯でなんらかの軍事訓練でもやっていたのだろうが、豊かな自然と静かな環境の残る沖縄東北部にはなんとも不似合いな物音だった。
  タナガーグムイの入り口は安波方面へと続くダートの山岳道路の右脇にあった。よく注意していないと見落としてしまいそうなほどにその場所は目立たなかった。車を近くのスペースに止めたあと、軽い気持ちでその入り口に立った私は、予想外の状況に思わず息を呑んだ。私の立つ地点から眼下の谷底に向かって、人間一人が降りるのにやっとなほどの隘路が四十五度ほどの急角度で一直線に落ち込んでいたからである。そして足元の鉄杭に一端を固定された太く長いいロープが一本、その隘路に沿って張られていた。どうやら、そのロープを伝って下に降りろということらしかった。こんなところを訪ねる物好きはめったにないとみえ、あたりはしんと静まり返り、人の気配はまったく感じられなかった。
  私はロープにつかまり身体のバランスをとりながら、脆い砂岩質の岩と粘土質の赤土のむきだした急斜面を降り始めた。若い頃に山歩きや沢登りをずいぶんとやっていたから、その程度のことはたいして苦にならなかったが、もし雨が降っていたら赤土で身体中泥々になっていたことだろう。谷の底は割合平坦になっていて、沼地の水辺伝いに細道を少し歩くと、滝の注ぎこむ淀のそばにでた。あたりの岩盤は様々な形に侵食されていて、奇岩怪石と呼んでよいような岩々がいくつか立ち並んでいた。
  流れる水はかなり鉄分を含んでいる感じで、淀の周辺の岩や緩やかな滝の川床の基盤はちょっと赤茶けた色をしていた。一帯はかなりの広さの湿地帯になっていて、初めて目にする様々な植物類が繁茂していたが、それら一つひとつの名称は門外漢の私にはよくわからなかった。リュウキュウアセビ、アオヤギソウ、コケタンポポ、ヤクシマスミレなどの珍種奇種も群生しているとのことだったが、花のシーズンを少しはずれていたこともあって、これがそうかなと思う程度で、十分には確認できなかった。
  タナガーグムイに流れ込む川の上流側は鬱蒼とした亜熱帯樹林になっていた。滝から流れ落ちる水に手を入れているうちになんとなく奥に分け入ってみたい気分になって、ちょっとだけ前進しかけたが、そんな私の足を引き留めたのは前方に現れた一枚の黄色い警告板だった。髑髏のマークが描かれたその警告板には英語で「WARNING!」と大書され、その下にやはり英語で警告理由を記した一文が添えられていた。いつごろ建てられたものかは定かでなかったが、それは駐留米軍の衛生管理当局の手によるもので、水遊びや探検ごっこにやってくる人々に注意を促す内容だった。
  詳しく目を通すまでは、一帯のあちこちに棲むハブなどに注意するよう促したものかと思っていたが、警告の内容はそうではなかった。それは、この付近には熱帯性の特殊な有害水生細菌が生息しているので、水遊びなどは慎むようにという内容の警告文だった。アメリカ人などは家族や仲間内でちょっとした冒険がらみのフィールドワークを楽しむことが多い。そういった人々向けの警告板なのだろうが、日本の当局によって建てられたものではなく、米軍の管理当局の手によって建てられたものであるということは、過去の沖縄の状況を無言のうちに物語るもので、なんとも興味深いかぎりだった。もしかしたら、かなり前に建てられたものがそのまま残っていたのかもしれないけでども……。
  再びロープを頼りに急斜面をよじ登りタナガーグムイをあとにした私は、安波の集落へと下っていった。安波川のすぐ近くまで山の斜面が迫り、その山裾に段状をなして古い造りの民家が立ち並んでいる。現在はどうなっているのかわからないが、当時はほとんどが昔ながらの茅ぶき屋根の沖縄民家で、その風情豊かな光景を通して、遠い時代の沖縄の姿の一端を偲ぶことができた。車から降りて集落の細い小路を歩いてみると、隅々まで実によく手入れが行き届いていて、各々の家の門口付近には亜熱帯種の美しい花々が鮮やかな彩りを競うかのごとくに咲き誇っていた。集落一帯はどこも静まり返っていて、その不思議な静けさが心身の奥底までじわじわとしみとおってくる感じだった。
  安波を出てしばらくすると、車は与那覇岳の東山腹に差しかかった。先にも述べたように、この与那覇岳の東側一帯はノグチゲラやヤンバルクイナが生息するので有名なところである。むろん、よほどの幸運に恵まれないかぎりそれらの珍鳥にはめぐりあえないとわかっていたので、とくに期待もしていなかったが、そんな鳥たちの棲む豊かな自然の中を走るのは気持ちのいいことだった。
  与那覇岳の山麓を過ぎると、車道は複雑な山岳地形を避けるかように海岸線のほうに向かって下り始め、ほどなく海辺からそう遠くない平坦地に出た。大泊、大工泊、魚泊、宮城、川田と海岸に線沿う小集落を抜け、やがて車は平良湾に面する東村の中心集落平良に入った。そして、平良から宇出那覇のT字路に出て左折、しばらく道なりに南下していくと慶佐次の集落に着いた。この集落の位置する慶佐次川の河口にはヒルギ、すなわちマングローブの群落が形成されている。海水の塩分にも耐えるヒルギ林は南の島ならではのもので、その独特の枝ぶりや葉の形、根の張りかたなどを実際に目にしたのはその時が初めてだった。
  慶佐次から有銘湾をめぐって再び山中に入り、しばらく走ると大浦湾沿いの集落に出た。眼前にひらけた湾をはさんで進行方向左手に大きくのびだして見えるのは辺野古岬のようだった。大浦湾から辺野古岬一帯は名護市に属しており、来年開催される沖縄サミットにおいてはこのあたりが中心会場になる予定で、現在開発整備が進められているという。また、普天間飛行場の代替として海上基地の建設地の候補にあがっているのも、名護市の東海岸にあたるこのあたりにほかならない。むろん、その時点においては、世の喧騒から隔離された美しく静かなその地が、やがて国際政治劇の渦中に巻き込まれることになるなど想いもよらぬことではあったのだ。
  辺野古岬をめぐり、宜野座村を経て中部の金武町に入ると、周辺の雰囲気が一変した。いかにもアメリカ的な感じの建物が立ち並び、見るからに基地の町という独特の空気が漂っている。考えてみると、キャンプハンセンをはじめ、金武町内の七割が駐留米軍の軍用地となっているというから、街並み全体がどこかけばけばしい感じがするのはやむを得ないことだった。由緒ありげな町名につられて沖縄古来の静かな農村風景を期待するほうが無理というものではあった。
  金武の街並みを通り過ぎ、舗装整備の行き届いた金武湾沿いの道に出ると、屋嘉ビーチを左手に見ながら石川市方面に向かっていっきに走り抜けた。左手海上はるかに浮かぶ島影は、翌日に訪ねるつもりでいた平安座島、宮城島、伊計島のもののようだった。東海岸の石川市と西海岸の恩納村仲泊の間は、沖縄本島がもっとも細くくびれている部分である。石川市に入った私は、東海岸沿いに南下する幹線路から西に分岐して仲泊に出ると、西海岸伝いに残波岬目指して走りだした。できることなら、残波岬で西の海に沈む美しい夕日を見たいと思ったからだった。
  旅先にいるとすぐに夕日を追いかけたくなるというのは、私の困った習性の一つである。子どもの頃に身についてしまった厄介な習癖で、ほとんど「夕日中毒症」とでも呼んだほうがよい状態になっている。サン・テグジュペリの「星の王子様」の中に、一日何回も夕日が見られる小さな星の話が出てくるが、もしかしたら、サン・テグジュペリも私と同病だったのかもしれない。この厄介な病を抑えるには、誰か素敵な女性にでも旅先まで同行してもらい、日没の時刻が近づいたら「私と夕日とどっちが大切なのよ!」と強引に迫ってもらうくらいのことをするしかない。
  朝日のほうはどうかといえば、まあ、けっして嫌いではないが、旅先で常に早起きしてそれを見るというまでのこだわりはない。そもそもフリーランス人間というものは、朝は弱いと相場が決まっている。北アルプスの山の頂で見るモルゲンロート(朝焼け)のような例外もあるにはあるが、美しさという点では、一般的には滅びの影を秘めた夕日のほうが素晴らしい。
  余談になるが、日の丸というのは、「日出る国の天子云々…」の聖徳太子の言葉を待つまでもなく、エネルギッシュな朝日をイメージしたものに違いない。与党筋に日の丸大好き人間の先生方が多いのも、一歩間違うと「見よ東海の空明けて旭日高く昇るとき…」というアナクロニズムに通じかねないイメージへの思い入れがあってのことだろう。少しくらいは夕日の厳粛さをイメージした日の丸でもあれば、夕日派の私などももっと日章旗に好感を抱くことができるだろうにと思わぬこともない。もっとも、いま私がこの拙稿を書かせてもらっているこのホームページのオーナー会社も「夕日新聞」ではないから、話はなんともややこしい。
  真栄田岬の付け根を横切り、与久田ビーチ沿いに走って、残波岬に辿り着いたのは日没時刻の少し前だった。残波岬の北側は数キロにわたって高さ百メートルほどの断崖になっていて、絶え間なく東支那海の荒波が打ち寄せている。岬の先端付近に立つと、東支那海が一望できた。西方海上の水平線上に雲が湧いていたために、残念ながら美しい夕日を眺めることはできなかったが、残波岬というその名称からも連想される通りの、落日にきらめく神秘的な夕波の輝きを想い浮かべることは容易であった。中国の淅江省はこの岬の西方はるかに位置している。中国大陸から見れば、日の昇る東方の海上に浮かぶ琉球諸島はまさに仙人の住む蓬莱(ほうらい)島そのものであったに違いない。
  残波岬から西海岸線伝いに十キロたらず南下したあたりが、沖縄戦の際に米軍主力部隊が無血上陸を果たした読谷村の渡具知海岸だ。一九四五年四月一日午前八時、奇しくもエイプリルフールの当日に、「アイスバーグ作戦(氷山作戦)」と名づけられた米軍沖縄本島上陸作戦は敢行された。もしこの岬に立つ人があったとすれば、南西方向の海上一面を覆う米艦船群を遠望することができたであろう。米軍将兵の間で「これはもしかしたらマッカーサーの上陸か?」というジョークが飛び交かったほどに、日本軍の抵抗のまったくない静かな上陸風景だったというが、それは沖縄南部戦線における地獄絵図を裏に秘めた、文字通りの「嵐の前の静けさ」に過ぎなかった。
  夕暮れの残波岬にしばし佇んだあと、私は五八号線まで引き返し、ムーンビーチの少し先にあるホテル・サンマリーナにチェックインした。本格的なリゾートホテルとして当時開業したばかりのサンマリーナの造りは、さすがに見事なものだった。広い一階のオープンスペースは音楽演奏用のステージと青い水を湛える人工池をそなえた屋内ガーデン風の造りになっていて、あちこちにロングチェアが配されていた。照明器具をはじめとする各種デコレーションも計算し尽されたもので、上部空間は建物の最上階に至る巨大な吹き抜け構造になっていた。さらに、各階には屋内回廊があって、それらの回廊から一階のオープンフロアを見下ろすことができるような工夫もされていた。エレベータの内部から吹き抜け空間全体を見渡せるようになっているのもなかなか味な感じだった。
  鍵をもらって自室に入るとすぐ浴室に飛び込み、北東部海岸で泳いだときに身体についた潮気を洗い流した。あてがわれた部屋は立派なツイン仕様になっており、階段状に配された部屋付きのテラスからは、大小の屋外プールのある大庭園とその向こうに広がる海を見下ろすことができた。自ら好んでホテル・サンマリーナを選んだわけではなく、このホテルの取材も仕事のうちだったので泊まることになったのだったが、せっかっくのことなので野次馬精神を丸出しにしてあちこちを散策してみたりもした。
  ホテル脇には、各種ヨットやマリンスポーツ用のボートのほか、サンセット・クルージングやムーンライト・クルージング用の船が発着できる専用マリーナが設けられていた。広大な屋外プールには、夜間照明のもとで思いおもいに泳ぎを楽しんでいるかなりの数の宿泊客の姿も見受けられた。また、ホテル敷地の外側に続く綺麗な珊瑚砂のビーチはサンマリーナの宿泊客専用で、夜間であっても、寄せる波の音に耳を傾け、サクサクと砂地を踏みしめながら散策を楽しむことができた。マリンスタッフと呼ばれるホテル専属のレジャー指導員は、男女ともヴィラ・オクマと同様になかなかの美形揃いで、そのほとんどはやはり白人系の混血のようだった。
  私はダイニングルームでのんびり食事をとったり、ティルームでお茶を飲んだり、レジャールームをはしごしたり、プールで泳いだりしながら、宿泊客の様子をさりげなく観察してみた。若いOLや女子学生風のお客が圧倒的に多いのに比して、男性客はかなりの高齢者か外国人がほとんどだった。なかに何組か若い男女のカップルがいたが、面白いのは、どのケースも女の子のほうが主導権をとっていることだった。ホテルの洒落たダイニングルームで夕食をとるときも、若い男の子のほうがどこかおどおどした感じなのに対し、女の子のほうの身振る舞いは実に堂々としていた。かねがね私は各方面での女性の社会進出に肯定的な人間だが、このときばかりは、「日本の若い男どもよ、もうちょっとしっかりせんかい!」と尻を叩きたくなるような気分だった。
  それにしても、働き盛りの日本人男性がまったくと言っていいほど見あたらないのは、考えてみると奇妙なことだった。ひとつには九月という時節柄もあったのだろうが、一番心身のレフレッシュを必要としているはずの人間が少なくOLが異様に多いということは、表面的には絶頂を誇る日本経済の底の浅さを物語るもののように思われてならなかった。リゾート地でのんびりと休養をとるのは要職にある男のすることではないという社会通念が崩れ、働き盛りの人間がもう少し余暇を楽しめるようにならなければ、日本人の生活が真の意味で豊かになったとは言えないと感じたわけである。だが、現実にはそうなる前にバブル経済は崩壊してしまった。どうせ崩壊する運命にあったのであれば、当時の企業戦士たちはもう少し余暇をとって人生をエンジョイすべきだったろう。あの頃なら、本人の選択次第で十分そのことが可能だったはずだから……。



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