「マセマティック放浪記」 1999年5月26日
Mathematics Odyssey May 26, 1999
  ある沖縄の想い出(3)
金環食のあとで

  翌日は絶好の金環食日和だった。ホテルで朝食をすませた私は、すぐに、金環食帯の中心線の通る恩納村万座毛目指して五八号線を南下した。前日那覇から五八号線伝いに奥間にやってくる途中でも気づいていたが、道路沿いに点々とアイスクリームを売るスタンドがあって、年頃の若い女の子が強い日差しのなかでじっとお客を待っている。暑いから観光客にアイスクリームが売れるのは当然だと思って、はじめのうちはとくに気にもならなかったが、そんな光景を繰返し見かけるうちに、いったいそれで採算が合うのだろうかといささか心配になってきた。
  いつやって来るかわからないお客を待って立っている女の子だって大変だろうと思ったが、その複雑な背景が私にはまだよく見えていなかった。沖縄国体と金環食とが重なって本土からの客も多かったその日の前後はともかくとしても、働き盛りの若い女性がこうもたくさん道端でアイスクリーム売りをやっているのは、よくよく考えてみると不自然なことである。むろん、「乳脂肪率が高く本土のものより美味しい沖縄のアイスクリームはよく売れるからだ」などという表面的な説明で片づけられるようなことではなかった。
  つぶさに観察してみると、アイルクリームスタンドやお土産店の売り子には混血の男女の若者が多かった。すでに過去三、四十年にわたり軍属を主とした米国系の人々と地元住民との間で血の融合が起こり、現在もその状況が進行中である沖縄において、国籍や人種の異なる父母をもつ彼らが生き抜くことは容易でない。米軍基地関係企業をのぞくと経済基盤がきわめて弱く、雇用も不安定なこの地で、自らには何の責任もないにもかかわらず、ときにはあらぬ差別にも堪えて生きなければならない人々の苦悩を、本土の人間が理解するのはきわめて難しい。アイスクリームのスタンド一つにもそのような問題が秘められていたのだが、愚かな旅人の私がそのことに気づくにはいま少し時間が必要だった。
  万座毛とは海蝕断崖上にある天然の広場のことだ。青々とした芝生の広がるこの広場からは、眼下に紺碧の万座の海が見下ろせる。小さな入り江をはさんで万座ビーチホテルの洒落た建物も見えていた。二五〇年ほど前、この地を視察した尚敬王が「万人を座らせるに足る」と称賛したのがその名の由来であるという。
  万座毛一帯は金環食観測にやって来た報道関係者や一般客でいっぱいだった。NHKや朝日新聞社の腕章をつけた報道陣が慌ただしく取材準備をするかたわらでは、商売上手の業者によって日食メガネなるものが売られていた。小さな長方形の白い厚紙の中央に円形の穴をあけ、それに黒いフィルムをはった簡単な道具で、私も試しに一個買ってみたが、結構役に立ちそうだった。
  万座毛の一角では沖縄古来の民族衣装に身を包んだ地元の人々が「うるう祭」というお祭りをやっており、金環食が始まるまでのひととき、観光客の目を楽しませてくれていた。直観的にそう感じただけではあるが、沖縄の伝統的な民族衣装姿はアイヌの人々の民族衣装姿ときわめて似通ったところがあるように思われた。最近のDNAの研究を通して、縄文時代の沖縄や南九州の先住民と同時代の東北、北海道の先住民との間には深いつながりがあったこともわかってきているが、そういったこともなにかしら関係しているのであろうか。
  日食は午前十時頃から始まり、次第に太陽が欠けていって、十一時二十三分に金環食の状態になった。皆既日食とは違って太陽の周端はリング状に明るく輝いて見えるから、予想していた以上に眩しく、肉眼でじかに観察するのは困難だった。結局、持参のフィルターや試しに求めた日食メガネを通して観測するしかなかったが、予測されていた通りの見事な金環食を四分間ほどにわたって観測することができたので、その意味ではこの取材旅行は大成功だった。金環食が起こっている最中に周辺の様子をうかがってみたが、陽光は大きく翳りはしているものの晴天時の夕暮れよりはずっと明るい感じで、その点はいささか意外な気がした。
  考えてみれば、皆既日食と異なり地上に降り注ぐ太陽光が完全に遮断されるわけではないから、美しいコロナを期待することも、天の岩戸伝説にあるように世界が一時の闇に沈むのを目にするのも、もともと無理な話ではあった。生涯において一度出逢うことができるかどうかという自然現象に、沖縄の万座毛という美しい場所でめぐり逢えたこと自体に感謝すべきであったのだった。
  将来、宇宙船などで地球周辺の空間を自由に動くことができるようになれば、皆既日食や金環食の起こるスポットの追尾や選択も意のままになるから、観測の成否が天候に左右されることもなくなるに違いない。だが、千載一遇の機会に賭けるしかない現在においては、金環食を自分の眼ではっきりと見ることができただけでも恵まれていたと考えるべきだろう。
  金環食の観測取材をを終えた私は、名護市まで北上し、本部半島の中央部を抜けて本部町渡久地港に出ることにした。地図で見ると、渡久地から本部半島突端にある沖縄海洋博記念公園までは一走りだった。本部半島中央の伊豆味一帯は沖縄随一のパイナップルの産地である。車が半島中央部の高原地帯に入ると、道の両側も前方も見渡すかぎりパイナップル畑になってきた。道路沿いの観光客向けの売店でとりたてのパイナップルを試食することができたが、その甘酸っぱい香りと味はさすがに本場ならではのものだった。
  伊豆味地方には明治の頃からパイナップルはあったらしいが、もっぱら仏前の供物とされ、沖縄の人々はほとんど食べていなかったという。ところが、戦後の米軍の沖縄駐留にともなていっきに需要が高まり、米軍用に大量栽培されるようになった。それを契機にパイナップル作りが盛んになり、いまでは沖縄の観光資源の一つとなったのだった。
  パイナップル地帯を過ぎ満名川沿いに渡久地の街並みに出、そこからすこし北上すると海洋博記念公園に到着した。博覧会ブームが続いていた一九七五年に、世界初と銘打って開催された海洋博の跡地を国営公園化したもので、国内では最大規模の敷地面積を有している。園内に熱帯植物園や水族館、沖縄館、海洋文化館、沖縄郷土村、アクアポリス、エメラルドビーチ、そしておきまりの大遊園地エキスポランドなどがあった。
  ガイドブックに全施設を見学するには最低でも五時間は必要とか書かれていた大規模な園内施設を、せっかくやって来たのだからと一通りは見てまわったのだが、各施設の細かな様子などはほとんど記憶に残っていない。十二年ほど前のこととはいえ、歴史文化や科学技術、動植物の生態などについての展示はけっして嫌いではないし、もの憶えもそう悪いほうではないつもりなのだが、いったいどうしたことだろう。時のフィルターに耐えうるような発見や感動があまりなかったということなのだろうか。
  わずかに記憶にとどまっているのは、十七世紀から十八世紀にかけての琉球諸島の古民家集落を再現した沖縄郷土村と、未来の海上都市モデル、アクアポリスの水中展望室から眺めた美しい海中の景観、そして、エメラルドグリーンの海の向こうに浮かぶ伊江島と瀬底島の島影だけだ。いや、それにもうひとつ、旅先でめったにお土産を買うことのない私が、園内の公営珊瑚細工店で赤珊瑚のペンダントを二個買い求めた記憶がある。
  そのうちの一個は我が家の奥方の箪笥の底あたりで二度と日の目を見ることのない運命をたどっているのだろうと思うが、もう一個のほうを誰に進呈したものか私もはっきり憶えていない。なんとなく思いあたるふしもないでもないが、いまさら出てこられてもロクなことにはならないから、そちらのほうも眠っていてもらうにかぎる。
  沖縄海洋博記念公園をあとにした私は本部半島の北側にまわり、西日に浮かぶ今帰仁(なきじん)城址を訪ねてみた。長い石段をのぼり、城の本丸のあった広場を抜けると古来のままの城壁を見渡せる展望台にでた。七百年以上も前に築かれた北山王朝のこの城は、首里城、中山城と並ぶ名城だったというが、現在は城郭だけが残っている。北山王朝は十四世紀に中山の首里軍によって攻め滅ぼされた。
  独特の構造の城壁の下は断崖になっており、北方海上はるかに伊屋名島、伊平屋島とおぼしき島影が望まれた。かねてから訪ねる人はほとんどないらしく、城跡に立つのは私一人だけだった。一帯には夕日を浴びて鳴く無数の蝉の声が悲しげにこだまし、その不思議な蝉時雨(せみしぐれ)は、栄華の果てに滅び去ったいにしえの北山王朝一族の霊を、さらにはこの地につかの間の生を刻み、やがて去っていった多くの沖縄びとの魂を弔い鎮めているかのようだった。
  私の心に深くしみいるそれらの蝉の声は九州南部のクマ蝉やアブラ蝉、ニイニイ蝉などのものとは明らかに違っていた。おそらく沖縄地方固有の蝉だったのだろう。実を言うと、蝉の声ばかりでなく、そられを乗せて吹き抜ける今帰仁の夕風のそのものに私の五感は未知の何かを知覚しはじめていた。「ここの風は違う。自分の知っている風とは違う」……一言でいえばそんな思いに襲われたのだった。
  なおも続く蝉時雨を背に、静かに今帰仁城址を辞した私は、本部半島北部の集落を縫う道を走り抜け、羽地内海と呼ばれる美しい内海のそばに出ると、その周辺を見下ろせる嵐山展望台にのぼってみた。羽地内海は本部半島の北側付け根一帯とその少し沖にある屋我地島、奥武島によって大きく囲い込まれた天然の内海で、その中には地元の人々が小松島と呼ぶ多数の小島が点在している。
  人けのない嵐山展望台に立って見下ろす羽地の海とそこに浮かぶ小島の群は、迫り来る夕闇のもとでひたすら静まり返り、気まぐれな旅人の旅愁をいやがうえにも掻き立てた。点々と民家の明かりの灯りはじめた対岸の屋我地島の西部と本部半島との間には細長い自然の水路が開けており、直接には見えなかったが、その水路の外洋よりの部分が運天港となっていた。
  地理的に恵まれた運天港は、古来、沖縄近海を航行する船舶の格好の避難港になってきた。「運天」というその奇妙な地名の由来はなかなかに面白い。あくまでも伝説にすぎないが、保元の乱に敗れ流刑の地伊豆大島にあった源為朝は密かに大島を脱出、運を天に任せた航海の末にたどり着いたのがこの港だったのだという。その決死の航海にちなんで運天という地名がつけられたのだそうだ。
  このときたまたま手にしていたガイドブックをめくって運天港の解説を拾い読みしていた私は、慶長十四年(一六〇九年)琉球を侵略した薩摩の軍勢が最初に上陸したのもこの港であることを知った。そして、自分の育った家にいささか関わる遠い昔のある人物についての記録を想い出したのはこのときだった。学生時代に一度それらしき記述を走り読みしたことはあったが、現代に生きる自分には直接関係なかったこともあって、私はそれにさして興味を覚えなかった。だから、そんな記録などすっかり忘れてしまっていた。
  運天港につながる羽地内海を通りかかったのは偶然にすぎなかったのだが、蝉時雨の今帰仁城址でいつしかこの身に働きかけた宿世の糸は、否応なしに私の魂を四百年も前の世界に引き込もうとしていた。宿命論というものを私は信じない。いまでもすべては偶然だったと考えている。しかし、このときの沖縄の旅において、偶然として片付けるにはあまりにも多すぎる偶然が重なったのは事実だった。
  突然のように降って湧いた複雑な想いを鎮めかねて、しばし私はその場に立ち尽くした。東京に戻って書斎の片隅にある歴史資料を詳しく読みなおしてみなければ、いまひとつ断定はできないという想いはあったが、多分そうなのだろうという予感を打ち消すことはできなかった。正直なところ、それが私の勘違いか記憶違いであればよいのだがとも考えた。
  その晩再びヴィラ・オクマに戻った私は、思わぬ展開の末に生じた胸中の混乱をノートにメモしたあと、昨夜読み残した大田昌秀の著書「これが沖縄戦だ」の後半部を憑かれたように読み耽った。その書中には、信じ難いほどに残虐な数々の出来事が、読み手にその歴史的評価を委ねるがごとく淡々と語り綴られていた。感情の高ぶりを極力抑えてあるぶん、そこに収められた記述にはいっそうの真実味が感じられてならなかった。
  時間的には話が前後するが、帰京したあと、私は薩摩藩に関する歴史資料と私の育った鹿児島県甑島についての歴史資料をあらためて精読してみた。その結果、やはり私のかすかな記憶は間違いではなかったことが判明した。その事実が間違いではないとわかった以上、私には遠い昔の沖縄の出来事を過去の話として眠らせておくわけにはいかなくなった。



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