「マセマティック放浪記」 1999年5月19日
Mathematics Odyssey May 19, 1999
  ある沖縄の想い出(2)
ヴィラ・オクマの夜

  私が通されたのはツイン仕様の洒落たコッテージで、一人で泊まるのはもったいないくらいだった。気をきかせてこんなコッテージを用意してくれたのだろうが、あいにく、このとき私は一人旅だった。誰かと一緒に来ればよかったかなとは思ってみたが、あとの祭りである。すぐに魔法を使って美女を出現させるなんて芸当ができれば苦労はないが、そうそううまくことが運ぶわけもなかった。
  奥間ビーチ一帯はもともと米軍の保養施設だったところだけに、ホテル内もその周辺も完全なリゾートタイプの造りになっている。ヨット、カヤック、ウィンドサーフィン、水上スキー、ダイビングなど、あらゆるマリンスポーツを楽しむことができるうえ、夜間でも使用可能なトレーニングジム、プール、各種球技施設なども完備していた。ホテルの従業員を兼ねた各種競技や遊技のインストラクターなども多数いて、滞在客の指導や対応にあたっていたが、よく見ると彼らの多くは白人系の混血らしい若い男女で、しかもなかなかの美形揃いだった。
  私はとりあえず浴室で汗を流し、レストランで夕食をすませた。そして、各種プレイング・ルームやディスコ、スポーツジムなどをひとわたりのぞきまわったあと、夜のビーチへと散歩にでた。広いビーチは波打ち際にいたるまで明るく照明が施され、いかにもリラックスした感じの男女が、三々五々、心地よい海風に全身をゆだねながらアバンチュールを楽しんでいた。ビーチのあちこちにはスタンドバーやティースポットもあって、軽食などもとれるようになっている。渚伝いにビーチの端のほうまで歩いていくと、大きな仕切り用ネットが現れ、そこから先には進めないようになっていた。その向こうにあるのは米軍専用のリゾートビーチらしかった。
  しばし一帯を散策しながら南国の夜の潮騒に聞きほれたあと、浜辺の一隅にあるベンチに腰をおろした。そして何を想うでもなく遠くの漁火を眺めているうちに、たまたま隣り合わせになったチャーミングな女性と、どちらからともなく話し込むことになった。彼女は会社のグループ旅行でこのホテルに泊まっていたのだが、仲間が遊技に興じている間に独りでビーチに出てきているところだった。
  翌日の金環食の話題にはじまり、沖縄についてのお互いの想い、さらには様々な旅や仕事の話などを、我々は二時間近くにわたって語り合った。沖縄の旅の夜風が心の緊張を解きほぐし、それまでに生きてきたそれぞれの時空の隔壁をいっきに消し去ってくれたこともあって、きわめて自然体のままに、私たちは偶然の出逢いの生みもたらした共有時空をしばしの間楽しんだ。
  部屋に戻って翌日の金環食取材の準備を整えたあと、ベッドに横になった私は、奥間ビーチに来る途中で買い求めた戦史記録、「これが沖縄戦だ」に軽く目を通しはじめた。巻頭には手榴弾による集団自決直後の凄惨な現場写真や、隠れていた壕の中から現れた一人の少女が、ありあわせの木の枝に白い三角旗をつけ、おびえながら米軍のほうへと近づいてくる写真などが収められていた。後者は「白旗を掲げる少女」として米軍の沖縄戦記録フィルムにも登場する有名なシーンの写真だった。
  この本で私がその写真を目にしてから何年かのち、比嘉富子さんという那覇在住の主婦が「あの白旗の少女は私です」と名乗り出て、朝日新聞などでも大きく報道された。比嘉さんは当時六歳で、首里が戦火に巻き込まれたため、兄、姉、弟とともに南へ逃げるうちに兄は銃弾を浴びて死亡、姉、弟ともはぐれて一人になってしまったのだった。ちょこちょこ動き回るため日本兵からも危険視され、お前が生きているとこちらが危ないと、何度も退避壕から追い出されたという。そうやって逃げ回る途中でたまたま飛び込んだ壕の中に、両手両足のない老人と目の不自由な老女の夫婦がいた。
 「もう戦争は終わったから出てきなさい」という、投降を勧告する米軍の呼びかけがある日突然聞こえてきた。するとその老夫婦は、どうしても外に出たがらない比嘉さんをなだめすかし、老人の下着を切り裂いて作った白い三角旗を持たせて壕から送り出したのだそうだ。その後の老夫婦の消息は比嘉さんにもまったくわからないというが、その運命は想像に難くない。
  迫真力と衝撃力とにみちた数枚の巻頭写真を見たあと、「米軍、慶良間を攻略」というタイトルの初章を軽い気持ちで読みはじめた私は、あっという間にその文中に引き込まれた。そして容易にはページを閉じることができなくなってしまった。沖縄戦についての正確かつ詳細な記述、日米どちら側にも公正な客観的叙述、極力感情を押さえたジャーナリズムの手本のような明快で的確な文章、驚異的なまでの調査力と情報収集能力、冷静な情報分析力、読む者の心をひきつけてやまない見事な構成力、さらには沖縄戦がなんであったかを如実に物語る三百枚近い戦争報道写真――このうえなく愚かで悲惨な戦史を描き著した本であるにもかかわらず、それは絶賛に値する一冊であった。
  私は目を見開かされる思いでその本の半分ほどを一気に読み通した。そのまま最後まで読破してもよかったのだが、敢て残り半分を翌晩まで読まずにとっておくことにした。一晩で読み終えるのはもったいないような気がしてならなかったからである。
  冷静な筆致で書かれたこの戦史の本文中には、むろん著者の影らしいものはまったく感じられなかったが、その人物がただ者ではないことだけは明らかだった。恐るべき筆力に感嘆した私は、昭和五十二年の初版刊行時に琉球大学名誉教授仲宗根政善が執筆した巻頭献辞文や著者自身の前書き、巻末の著者略歴などをあらためて細かく読み直し、その人となりのおよその輪郭をつかもうと努めてみた。
  沖縄守備軍司令官牛島満が自決した昭和二十年六月二十三日(一説には自決は二十二日ともいう)の前日、日本軍司令部のあった摩文仁の丘一帯では日米両軍の最後の死闘が繰り広げられていた。沖縄師範鉄血勤皇隊に所属する二十歳前の一人の若者も、岩さえも燃え砕けるその熾烈な砲撃戦の直中で生死を賭して戦闘を続けていた。戦いに利なく、多くの仲間が戦死するなか、かろうじて凄惨の地を脱出したその若者は、三カ月にもわたる死の彷徨を続けたすえに奇跡的な生還を遂げる。
  終戦後本土に渡り、早稲田大学に学んだ彼は一九五四年に渡米し、ニューヨークのシラキュース大学大学院を卒業、帰国後は東大新聞研究所で研究員として専門研究に従事する。その後、彼はさらにハワイ大学イースト・ウエスト・センター教授を経て、琉球大学法文学部社会学科教授に就任し、私が沖縄を訪ねた十二年前の時点ではまだ同大学で教鞭をとっていた。
  自らの生は多くの人々の血であがなわれたものと深く悟ったこの人物は、米国留学から帰国したあとも沖縄戦の資料を求めて機会あるごとに渡米、ワシントンの米国国防総省で膨大な沖縄戦関係の写真資料を探しだし、その中から一千数百点の写真を選び出して日本に持ち帰った。さらに、米国立公文書館、米陸海軍、米海兵隊などが保管する沖縄関係資料や防衛庁戦史室保管資料、各種戦記類など内外の資料を可能なかきぎり収集して、沖縄戦の全貌を明らかにしようと試みた。その心中に悲壮なまでの使命感があっただろうことは推測に難くない。
  入手した資料を体系的に整理した彼は、地元紙の琉球新報に「これが沖縄戦だ」というタイトルの連載記事を書き始める。そして、その記事にさらに加筆し、三百点近い未公開の写真と組み合わせて編集出版されたのが、たまたま私が手にすることになった一冊の本というわけだった。この本の特徴の一つは、収録されている写真のすべてが米軍側によって撮影されたものであり、しかもそれらはアメリカに現存する関係資料写真のごく一部に過ぎないということだった。日本側の記録写真がほとんど存在しないのは、沖縄守備軍がほぼ壊滅したことにもよるが、より大きな理由は、それほどまでに彼我の間に物量的な力の差があったということである。
  同書を出版したあとも、その著者は毎年のようにアメリカと沖縄とを往復して沖縄関係の写真や機密文書を収集、著述内容の改訂を進めてきた。むろん、それは、前述の経歴からもわかるように、青春期、自ら戦火の直中にあって生き地獄を体験し、戦後の留学を経て日本人としては指折りのアメリカ通となり、語学堪能で米国人の知己も多いこの著者にしてはじめて可能なことであった。
  大田昌秀――その人こそがこの本の執筆者にほかならない。この人物がのちに沖縄県知事になろうとは、その時の私には想像もつかないことであった。現在の出版情況はわからないが、おそらくいまも沖縄でならその著書を入手できるのではなかろうか。沖縄を訪ねる機会のある人や沖縄戦史に関心のある人にはぜひ一読をお勧めしたい。現在の沖縄の抱える問題の根源は、本書を一冊読むだけで明らかになると言ってもよい。いま一度あらためて紹介しておくと、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊、那覇出版社発売)がその貴重な戦史記録の書名である。

  昭和二十年三月二十六日、沖縄守備軍の予想を裏切り慶良間諸島を攻略制覇した米軍は、その海域を基点にして沖縄本島上陸作戦を敢行した。慶良間諸島では七百人以上の住民がその時点ですでに集団自決していたのだ。米軍兵員は延べ五十四万八千人、艦船数千五百余隻、対する沖縄守備軍は地元から強制動員された十三歳から六十五歳までの男子と女子学生看護部隊を含む十一万人であったという。
  当時のアメリカの著名な従軍記者が、「これは戦争の醜さの極致だ。それ以外にはこの戦いをうまく説明しようがない。その規模において、その範囲の広さにおいて、その激烈さにおいて……」と報じた激戦の幕は昭和二十年四月一日静かに切って落とされた。
 「海三分、船七分」と日本側の監視員が打電したというほどに海面を埋め尽くした米軍団主力部隊は、読谷村の渡具知海岸に続々と無血上陸を果たす。のちに待ち受ける凄絶な戦いからは想像もつかないくらいに、その上陸風景は平穏なものであったという。沖縄守備軍が水際決戦を避けて全軍を沖縄南部に配し、首里高地一帯の地下にトーチカを構えて米軍の進攻を待ち伏せる作戦をとったからだった。
  沖縄守備軍は南部に下がって陣地を構えるに先立ち、北(読谷)飛行場や中(嘉手納)飛行場を爆破し使用不能にする戦略をとった。学徒を大量に動員し、長い年月をかけて完成したばかりの飛行場であったが、上陸した米軍に補給や攻撃の基地として使用されるのを恐れたからである。
  しかしながら、日本側参謀本部の思惑はあっけなく裏切られた。優秀なアメリカ工兵隊は、多数のブルドーザーとトラックを揚陸すると、わずか二、三日で両飛行場を修復、拡張整備して使用可能にしたばかりでなく、周辺一帯に車両用の広い道路をあっというまに建設した。
  前述の本に収められている一枚の写真を目にしたとき、私は思わず我が目を疑った。米軍が上陸して数日と経たないうちに造られた嘉手納ロータリーと、その円環路を走る多数の米軍車両を撮影した航空写真があるのだが、なんとこの日通ってきたばかりの嘉手納ロータリーの形そのままだったからである。路面が舗装され、道路沿いには建物がびっしりと立ち並んでしまっているが、ロータリーの形や道幅は建造当時とほとんど変わりがない。
  嘉手納ロータリーを走りながら、このロータリーはアメリカ的な発想のもとで造られたものだと感じはしたが、まさか米軍の沖縄上陸直後に建設されたものがそのまま残されていたなどとは夢にも想ってみなかった。戦時下の状況にあっても将来を見越して立てられた米軍の戦略構想に較べて、日本軍部のそれはなんと愚かで短絡的だったことだろう。



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