「マセマティック放浪記」 1999年5月12日
Mathematics Odyssey May 12, 1999
  ある沖縄の想い出(1)
那覇到着直後の椿事

  沖縄でサミット会議が開催されることになった。プラス要因とマイナス要因の複雑に交錯する問題だから、万事が万事喜ばしいとはいえないかもしれないが、大局的にみれば沖縄にとって有意義なことには違いない。「万歳」という言葉の裏に秘められた歴史的な背景を遠い過去のものとして消し去るがごとく、サミット開催決定の知らせに「バンザイ」を三唱する地元誘致関係者の姿が、私にはとても印象的だった。
  すでにマスコミ報道などでも指摘されていることだが、警備は大変なことだろう。本土から多数の警察官が応援のために派遣されることは間違いない。沖縄が開催地に選ばれたというニュースを聞いて私が真っ先に警備のことを思い浮かべたのは、沖縄にまつわる警備がらみの想い出があるからだ。
  一九八七年の九月二十三日、沖縄で金環食が見られたことがあった。その金環食を取材するため、私はその前日に日航機で沖縄に飛んだのだが、羽田で搭乗手続きをするときからチェックは厳しく、手荷物の中身まで細かく調べられた。それほどに警備が厳重だった理由は、金環食観測に多くの人々が殺到したからではなく、たまたまその時に開かれていた沖縄国体に昭和天皇の名代として現皇太子の浩宮が出席していたからである。私が沖縄に渡ろうとした当日、浩宮は沖縄から東京に戻る予定になっていたのだ。
  眼下に青く揺れ輝く珊瑚の海に吸い寄せられるようにジェット機は機首をさげ、午後二時過ぎ、那覇空港へと滑り込んだ。沖縄を舞台にした金環食のドラマを明日にひかえ、私の胸は弾んでいた。予約してあるレンタカーを借りようと、その会社の空港内事務所に足を運ぶと、数人の先客が、困惑気味の表情で係員の説明に聴き入っているところだった。
 「大変申し訳ないのですが、国体にご出席の浩宮様がお帰りなるために交通規制が敷かれ、車を空港に持ち込むことができません。ただ、ここから十五分ほど歩いた地点までは車が入れますので、そこまでご案内致します。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
  秋とはいっても九月の午後の沖縄の日差しは本土の真夏なみに強烈である。我々は手荷物をさげ汗だくになりながら、トランシーバー片手の女性係員の誘導にしたがった。ところが、ほどなく指定の地点に着くという時になって、係員のトランシーバーが急に鳴りだした。そして、みるみる彼女の顔が泣きだしそうな表情に変わっていった。
 「なんとも申し訳ありません。こちらのほうもたったいま交通規制が敷かれたとのことです。ただもうお詫びするしかございませんが、もう一度空港事務所までお戻りいただけませんでしょうか。幸い構内に当社のワゴンが一台おりますので、その車で皆様を市内の私どもの営業所までご案内しようと存じます。空港を出るほうの道路は無規制ですので……」
  自分の責任ではないにもかかわらず、必死になってそう詫びる彼女の姿は、見ていて可哀相なほどだった。
  我々は再び空港の建物目指してぞろぞろと引き返しはじめた。炎天下、両手に重い荷物をさげながら往復三十分近くも歩くのは、たしかに疲れることではあった。こんなときはお互い様だから、私は老婦人が手荷物を運ぶのを手伝ってあげた。
  我々が乗車し終えるとワゴン車はすぐに走りだした。那覇空港と那覇市街の間には立派な車道が通じている。全島にわたってというわけではないが、本格的な自動車道ができたのは本土よりも沖縄のほうが先だから驚くにはあたらない。むろん、戦後すぐに沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったせいたっだ。
  車窓から反対側車線を見やると、なるほど、沿道には十メートルほどの間隔で警察官が警戒に立ち、その向こうに日の丸の小旗を手にした見送りの人々がずらりと並んでいる。大戦中の悲惨な歴史のゆえに日の丸に対して複雑な感情を抱く人々も少なくないと聞いていた沖縄にしては、日の丸の小旗をもつ人の数が想像以上に多かった。もしかしたら、それなりの背景や多少の演出などもあったのかもしれないが……。
  車を運転していたのは、三十歳前後のどこにでもいそうな感じの男性だった。無事に空港を出た車は市街に向かって快調に走り続けていたが、一本の道が右手斜め前方から合流する変則T字路のところまでくると、速度を落として中央分離帯のほうに寄り、ゆっくりと反対車線方向へ回転しはじめた。
  進行方向に対して車が四十五度ほど曲がったときだった。沿道に並ぶ警官の数人がとんでもないという形相で我々の車に駆け寄ってきた。そして、そのうちの一人が大きな身ぶりでただちに直進するように運転手に向かって指示をだした。
  だが、次の瞬間、運転手は警察官のほうを睨むと、毅然としてこう言い放ったのだった。
 「私の事業所はそこなんですよ。いったいあなたがたは直進してどこへ行けっていうんですか?」
  運転手が指さす方向を見ると、なるほど、反対車線側の三十メートルほど後方にトヨタレンタカーの営業所の看板が見えている。彼はUターンしてその営業所に戻ろうとしたのだった。
 「浩宮の一行がほどなくここを通過するので、こちらがわの車線は交通規制が敷かれています。直進してください」
  二人ほどの警官が車の回転を妨げるようにして右手前方に立ちはだかった。しかし運転手は一歩も引かない。
 「あなたがたも仕事なのかもしれないが、私だって仕事なんですよ。交通規制するならするで、 はじめから時間と場所をしっかり決めてくれているならまだいい。あなたがたのやり方は行き当たりばったりじゃないですか。過剰警備もいいとこだし……」
 「気持ちはよくわかりますが、万一に備え本部から強い規制命令が出てるんです。一時直進して待機してください」
  あとでわかったのだが、このときも多数の警察官が本土から警備の応援に派遣されていた。だが、何かあったとき表に立って直接に対応するのは地元の警察官の任務になっていたようである。東京あたりの警察官なら、この時点で公務執行妨害行為として車を強制排除し、運転手の身柄を拘束しかねないところだったが、そこは沖縄のこと、警察官もそれなりに慎重であった。
  固唾をのんで事態の推移を見守っていると、運転手は一語一語に力を込めてさらに反論した。
 「このお客さんがただって、もう一時間以上も予定が狂ってしまってるんですよ。しかも重い荷物を持ってあちこち振りまわされて……。本来なら空港からレンタカーに乗ってもらうところを、こうして我慢してもらってるんですよ。そういった一般の人々の迷惑はどうなるんですか?」
  驚くべき光景が展開したのは次の瞬間だった。私は思わず我が目を疑った。なんと、婦人警官を含む二人の警察官が、すこし顔を紅潮させながらも、車中の我々一人ひとりに向かって鄭重に頭をさげはじめたのである。東京などでは絶対に考えられないことだった。
  私は強い衝撃を覚えながら、「ここは沖縄なんだ!……人々が黙々として重い歴史を背負ってきた、守礼の国沖縄なんだ!」と心の中で叫んでいた。
  私などは、この際直進もやむを得ないのじゃないかと思いかけたが、それでも運転手は頑として車を動かそうとしなかった。彼には彼なりの内なる思いがあったのかもしれない。その時とうとう、斜め前方の道路のほうに浩宮一行の車の列が現れた。警察官たちは慌てて歩道側の持ち場に引き下がり、我々の車だけが道路中央に取り残された。
  浩宮一行の車の列は、何事もなかったかのように我々の車の脇を通り過ぎていった。車中の浩宮が至近距離から我々のほうに向かって軽く手を振りながら微笑みかけるというおまけまでついて……。さきほどからの騒動を宥め鎮めるかのように、その笑顔は自然で親しみに満ちていた。後部座席の老婦人などは、思わぬ体験にひたすら感激の様子だった。
  一行が通過し交通規制が解除されたあとも、べつだん我々の車の運転手が追及されたり拘束されたりするようなことはなかった。トヨタレンタカーの事業所に着いた我々は、それぞれに車を借りて目的地へと向かって散った。スターレットを借りた私は、那覇市内をそのまま通過すると、その晩宿泊を予定していたヴィラ・オクマ・リゾートのある沖縄北西部の奥間ビーチに向かって西海岸沿いの五八号線を北上しはじめた。私は旅をするとき高級リゾートホテルに泊まることはほとんどないが、このときはJAL広報誌からの依頼原稿の取材ということもあったので、JAL傘下のリゾートホテルが何泊分か先方の手で予約されていた。
  広いドライブウエイに沿って立ち並ぶお店や建物はすっかりアメリカナイズドされていて、まるでカリフォルニアあたりの海岸線を走っているかのようであった。浦添、宜野湾、北谷(ちゃたん)を過ぎ嘉手納に入ると、大きな円環路から四、五本の道路が別々の方向にのびる嘉手納ロータリーが現れた。その周辺は大きな建物が立ち並ぶ市街地になっている。どこにでもある駅前ロータリーなどは違い、機能性の高い大規模ロターリーで、アメリカ的な発想で造られたことは一見しただけで明白だった。
  夕刻が近づいてきていたが、嘉手納を通りかかったついでに米軍基地を一目でも眺めておこうと思い、まず、基地の北側にまわってみた。なるほど、四千メートルはあるという大滑走路が二本、ますぐにのびている。遠くのほうには駐機場があって戦闘機や輸送機らしい機影が散見された。
  突然に背後から轟音が響いてきたかと思うと、黒灰色のデルタ翼をもつ怪鳥のようなジェット機が頭越しに滑走路へと降りていった。その異様な機影はたしかになんとも言い難い不気味さを秘めている。しばらくすると、今度は巨大なアホウドリにも似た四発の大型機が北東方向へと飛び立っていった。私が基地周辺にいたのはせいぜい三十分くらいだったが、その間にも様々な軍用機が地面を揺るがすような響きをたてて離着陸を繰り返した。米軍の極東戦略にとってこの基地がどんなに重要な位置を占めているかは、それらの軍用機の動きを見るだけでも明らかだった。
  いったいその基地の奥ではどんな指揮系統のもとに、日々どのような戦略が立案、遂行されていたのだろう。本土の横田基地などもそうだが、おそらくは地下深くに核攻撃にも耐えうる大シェルターがあって、その中枢部のオペレーション・センターにある超大型スクリーンには、極東全域の航空機や主要艦船の位置と動きがリアルタイムで表示されているに違いない。
  再び国道筋に戻った私は、沖縄戦のときに米軍が真っ先に上陸したという読谷村を過ぎ、恩納村にさしかかった。ムーンビーチ、万座ビーチ、瀬良垣ビーチ、インブビーチと美しい海岸の続くこの一帯は沖縄随一のリゾート地で、当時、本土ではまず見かけることのなかった段状テラス構造の高級ホテルが立ち並んでいた。開業して間もない日航系の高級リゾートホテル、サンマリーナもその一角を占めていて、三晩目に私はそこに泊まることになっていた。折しもバブル経済の絶頂期とあって、沖縄にも大量の本土資本が流入し、観光開発に一段と拍車がかけられていたのである。
  人工的ではあるが、なんとも蠱惑(こわく)に満ちた風景の中を進んでいくと万座ビーチが近づいてきた。左手にハワイかマイアミの高級リゾートホテルを彷彿とさせる豪華な造りの万座ビーチホテルも見えた。私は翌日の金環食をそのすぐ近くの万座毛で観察するつもりでいた。
  サンセット・ロードという呼称を冠してもけっしてその名に恥じることのない恩納村西海岸の道をなおも走りながら、私は南海の美しさにひたすら酔いしれていた。だが、それにもかかわらず、あの運転手の姿とその言葉の裏に秘められた思いがどうしても気になってしかたがなかった。沖縄の幻想的な光景の背後に潜む歴史の陰影を学ばずにその風光のみを耽美することに、私は本能的な罪悪感を感じかけていた。
  せっかくの旅だから素直に楽しんでしまえばよさそうなものだったが、どうしてもそれができなくなりはじめていたのだ。隣県の鹿児島で育ちながら、私はあまりにも沖縄のことを知らなさすぎた。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄関係の映画や戦争報道写真はそれなりに見たことがあったけれども、そこで見聞きしたものが単なる知識以上の意味を持つようなことはなかった。
  私はいまもあの時の運転手に感謝している。あの衝撃的な一件がなければ、翌日の金環食を乾いた科学の目のみで追いかけ、本土のバブル資本によって演出された沖縄の表の美しさだけに見惚れ、南部の戦跡や戦史資料館などを別の惑星の出来事のように眺めただけで戻ってきたに違いないからだ。
  奥間ビーチに向かう途中、軽食をとりに立ち寄ったお店で私の手を一冊の本に導いたのは、あの運転手の見えない力だったに違いない。B5版、およそ二五〇ページのそのハードカバー上製本は、店の片隅に四、五冊そっと積まれていた。「これが沖縄戦だ」というタイトルの本で、米軍サイドが撮影したモノクロの凄じい戦争報道写真と沖縄戦史の記述とを半々に織り交ぜた構成になっていた。地元の琉球新報社が刊行し那覇出版社が発売しているこの本の迫真の写真に目を惹かれて買ってはみたが、著者についてはまったく知見がなく、正直なところ郷土史家の一人くらいにしか思わなかった。
  実際、その本の著者は、当時、沖縄以外ではほとんど知られていなかったし、私のほうも、写真を眺めて沖縄戦について一通りのことがわかれば十分だというくらいの期待しかしていなかった。
  名護市を過ぎ本部半島の根元を横切って本島北部の大宜味村に入ると、道幅も狭まり、海岸線の景観も自然のままの感じに変わった。もしかしたら、まだ幼かった安室奈美恵がその近くで遊んでいたかもしれない。周辺の景色がどんどん人工的な装いを脱ぎ捨てていくなかで、そこだけが妙に明るく華やいだ感じの奥間ビーチに到着したのは、すでに太陽が西の海に沈んだあとのことだった。ヤンバルクイナが棲み、米軍の実弾演習場や特殊部隊訓練場もある山深い国頭村にあって、奥間ビーチ一帯だけはカリフォルニア海岸の飛び地のような奇妙な風情を湛えていた。
  ビーチ裏手の大駐車場に車を置いた私は、とりあえず、ヴィラ・オクマ・リゾートにチェックインした。ホテル周辺は本土からやってきた若いOLたちであふれていた。若い男もいるにはいたが、圧倒的に女性客のほうが多かった。



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