「マセマティック放浪記」 1998年10月28日
Mathematics Odyssey October 28, 1998
ジョーと晩酌を交わした日々 

  東京多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーがこの十月二十日に死んだ。推定年齢四十一歳、チンパンジーとしてはたいへんな長寿だったらしい。
 今年の八月にたまたま東京都立多摩動物公園の吉原耕一郎さんにお会いする機会があったが、その時に名ボス、ジョーのことも話題にのぼった。吉原さんといえば、ゴリラやチンパンジーの飼育を手掛けて三十余年、霊長類の研究者としても広く知られ、テレビなどでもおなじみの方である。
  動物園の飼育係というと、餌をやったり檻の中を掃除したりするオジサンのことだと思われがちだが、実際には、吉原さんをはじめとして、有名な大学の大学院などで動物生態学や生物学などを修めた人が少なくない。飼育係とは俗な呼称で、実はれっきとした動物の専門研究者なのである。
  吉原さんからチンパンジーの生態についてお話を伺ううちに、我々人間は文字通り「猿にも劣る存在」なのではないかという気分になってきた。自分が、霊長類ヒト科ヒト目ヒトではなく、霊長類サル科サル目ヒトに分類されてもおかしくないのではないかと思われてきたからたった。
  チンパンジーと長年つきあっていると、チンパンジーも人間に似てきますが、人間もチンパンジーに似てくるんですよ。人間は異常なチンパンジーだし、チンパンジーは異常な人間なんですよ――そう言って笑う吉原さんのことばには妙に説得力があった。吉原さんの風貌や身振りがどことなくチンパンジーのそれに似て見えたことも、その一因だったかもしれない。
  マスコミなどで、チンパンジーの知能は幼児並みだなどと報道されたりしているが、それは何の根拠もないことなのだという。確立されたチンパンジーの知能測定法があるわけではなく、どれもがいい加減な推測に過ぎないのだそうだ。長年にわたる自らの経験を通してみるかぎり、彼らの知能は想像以上に高いようだと、吉原さんは語る。
  ニホンザルの社会は、ボスザルや上位のサルが弱者を支配し弱者の物を収奪する専制主義ないしは封建主義型社会だが、チンパンジー社会は管理型社会なのだという。チンパンジーのボスは会社の管理職みたいなもので、人望ならぬ「猿望」、なかでも、雌のチンパンジーたちからの信頼がなければ務まらないものらしい。主なボスの仕事が、外敵から群を守ることや、仲間内の争いごとの仲裁であることは言うまでもない。
  チンパンジーが一対一で喧嘩をすることはすくないらしい。普通は、それぞれが仲間をつくり複数で争うからだ。ボスのチンパンジーは、そんな争いを遠くからさりげなく眺めているが、収拾がつかなくなるようだと、仲裁にはいる。
  その判断と処理は的確で、強者と弱者の間にはいるときには、強者に顔と体を向け、背中で弱者をかばうという。ルール違反の加害者から被害者を守る場合も、加害者に顔と体を向け、被害者を背後におく。争いの当事者のどちらが悪いかを実によく見きわめており、裁定を誤ることは滅多にない。
  だが、「猿も木から落ちる」の諺通り、さしものボスもたまには判断ミスをおかす。そんなときには想わぬ事態が起こるらしい。多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーが、あるとき、被害者と加害者の識別を誤った。裁きに納得のいかない真の被害者のチンパンジーのほうは、手足を激しくバタつかせながら鳴きわめいて抗議し、周囲の仲間たちに裁きの不当性を訴えかけた。すると、多くのチンパンジーがそれに同調し、有力な雌たちが結束してジョーに批判的な態度をとったり、ジョーのことを無視したりしはじめた。
  すっかり自信を喪失したジョーは、ノイローゼ状態に陥って、毎日飼育場の片隅に座り込む事態となった。ピーンと天を突くべき象徴物もうなだれっぱなしの有り様とあって、雌たちからはますます馬鹿にされ、事実上ボス不在となった群は大混乱をきたしはじめた。
  獣医と相談し、人間の場合と同様に精神安定剤を投与しようかという話にもなったが、それなりの問題もあるのでもうすこし検討しようということになった。その時、吉原さんにあることがひらめいた。人間なら、ストレスがたまると一杯やって憂さ晴らしをする。チンパンジーが人間に似ているというなら、ちょっと晩酌をやらせてみたらどうだろうというわけだった。
  吉原さんはジョーを特別室に隔離すると、彼のために蜂蜜で割った特性のウィスキーを用意し、自らもグラスを手にしてどっかりと座り込んだ。かくして、多摩動物園の一隅で、人間とチンパンジー2人、いや1人と1猿の間で奇妙な酒宴が繰り広げられることになった。ベテランの飼育係と長年生活をともにしたチンパンジーは、普通に話す人間のことばを9割以上理解するという。むろん、飼育係のほうもチンパンジーの心が手にとるようによくわかる。吉原さんは、人間を相手にしたときとまったく同じ調子で話しかけた。もし事情を知らない者がその様子を見ていたら、思わず吹き出し呆れはてたに違いない。

吉 原:ジョー、おまえも大変だよな、まあ、一杯やって元気だせよ!
ジョー:オレナァ、モウ、ヤンナチャウヨ!、メスドモガ、ヨッテタカッテ、オレノコト、 
    バカニスンダモンナァ……。
吉 原:おまえの気持ちもわかるけどよぉ、元気になってまた番張ってもらわんと俺も困
    るんよ。おまえらの群がいまのまんま混乱し続けたらよぉ、俺だって首になって  
    オマンマの食い上げになるかもしれんのよ……頼むよ、なぁ!
ジョー:タツモンガタタント、モウドナイモナランヨ……ンデ、ホントニ、コレノムト、
    ビンビンニナルンカイ?
吉 原:いまばやりのバイアグラじゃねえからよぉ、飲んだからってすぐナニができるわ
    けじゃないけどさぁ、気分がよくなってぐっすり眠れはするぜ……。
ジョー:フーン、オメーニモ、クローカケルヨナァ。ジャ、マァ、チョイトノンデミルカ、
    ドレドレ……。
吉 原:そうそう、もっといっきにグーッといきな!
ジョー:ウーン、コレ、ナカナカイケルワ……キブン、ヨウナッテキオッタシナァ!

  ジョーが実際にそうしゃべったわけではないけれど、彼らはこれに似た心の会話を交わしたらしい。何時間かこうしてジョーに話しかけながら晩酌を続けていると、ジョーは気持ちよさそうに寝込んでしまった。そこで、吉原さんは、それから2カ月ばかり続けて、ジョーの晩酌の相手を務めてみた。その効果はなんとも絶大で、すっかりストレスのなくなったジョーの心身、いや心チンはたちまち元通りの力強さを取り戻し、その御威光のおかげで、チンパンジーの群は再び統率を得たのであった。
  チンパンジーが精神的に落ち込んだとき対処療法として晩酌が効果的だという吉村さんのレポートは、ずいぶんと評判になり、テレビなどでも報道された。すると、それを聞いて共感した世のお父さんがたから、ジョーにウイスキーを贈りたいという申し出が折々舞い込んでくるようになった。
  そんなとき、吉原さんは、最近うちのジョーは口が肥えましてジョニクロやレミーマルタンしか飲みませんのでどうかよろしく、と応答してきたらしい。冗談ともしらず、一瞬ことばに詰まるお父さんも少なくなかったという。
  吉原さんのほうがストレスをためこんだとき、ジョーにSOSを求めたのかどうかは聞き漏らしたが、案外、ジョーのほうは、あいつを陰で励ましてやっているのは俺だと自負していたのかもしれない。実際、ジョーを失って、いまもっとも悲しんでいるのは、ほかならぬ吉原さんなのかもしれない。



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