「マセマティック放浪記」 2004年3月10日
Mathematics Odyssey March 10, 2004
ある奇人の生涯 (50)
母国の土を踏む

 佐世保湾内では想像していた以上の数の引き揚げ船が碇泊したり移動したりしながら接岸の順番を待ち続けていた。敗戦直後の一九四五年十月から四年半ほどにわたって、中国、旧満州、朝鮮半島、台湾、東南アジア各地などから、百三十万人を超える民間人や元軍人などが引き揚げ船に乗って佐世保を目指し、佐世保湾東部に位置する浦頭の地に上陸した。その後この地には浦頭引揚記念資料館が設けられ、当時の状況を現在に至るまで伝えている。同資料館は全国から寄せられた寄付金などをもとに佐世保市が建設にあたり、一九八六年五月にオープンした。
 一口に引き揚げ船とはいっても、船の種類も大きさも驚くほどにまちまちだった。小さくて速度も遅い米軍の上陸用舟艇などにぎゅうぎゅう詰めにされたまま東シナ海を渡って佐世保に辿りつく引き揚げ者もすくなくなかったから、最新鋭の駆逐艦に乗って帰還することのできた石田などはその点でも恵まれていたと言うべきだった。
 実際引き揚げ船の状況は相当に悲惨なものであったようで、乗船前の検疫にもかかわらず出航後に船内でコレラ感染者などが大量発生し死者が続出したほか、栄養失調が原因で母国上陸を目前にして衰弱死する者もあとを絶たなかった。記録の物語るところによると、引き揚げ船入港開始から二年八ヶ月経た一九四八年六月までの間に佐世保引揚援護局が処理した遺体数だけでも、三千七百九十三体にのぼったという。石田がその事実を知ることになったのはかなりのちのことになるが、彼よりもすこし遅れて上海を発った妹のひとりも、佐世保へと向かう引き揚げ船上で病が悪化しそのまま息を引き取ったのだった。
 上陸許可がおりるまでの間、船上の引き揚げ者たちは時間をもてあましながらじっと辛抱を続けるしかなかった。眼前に本土の港が見えているというのに、上陸できぬまま碇泊した船上にただじっと坐ってひたすら待機するというのは、ある意味で苦行に近いことでもあった。詳細は掴めなかったが、周囲の人々の囁き噂するところなどからすると、石田の乗る駆逐艦上でも、衰弱して死亡したり重態に陥ったりした者が何人かは出たようであった。
 時間を潰すために時々石田は舷側に立って船のまわりの海中を覗き込んだりもした。大きなクラゲが近くの水中を悠然と泳いでいたり、大小様々な魚類が群をなして眼下の船腹近くに寄り添うように集まってきたりするので、それらを眺めて気をまぎらわせるのも悪くはないと思ったからだった。元軍人の引き揚げ者らの中には、飯盒を取り出してそれをゲートル(巻脚絆)の一端や有り合せの紐の先などに結びつけ、船側から海中におろしてクラゲや小魚を掬っては退屈しのぎをしようとする者もあったりした。
 かつて台湾航路の貨物船に乗っていた頃などは、基隆港などで船が碇泊している間に舷側から釣り糸を垂れ、釣りあげた魚を食べたりしてもいた。だから彼はせめてそんな釣りの真似事でもできないものかと思ったりもしたが、釣りの道具など持参していようはずもなかったから、そんなことは不可能だった。もっとも、どんな場合にも容易周到な人間はいるもので、もともと用意していたものなのかそれとも船員あたりから入手したものなのかはわからなかったが、釣り糸を垂れる者たちも現れたりした。
 その様子をじっと脇から眺めていると、時折ちょっとした魚が釣れたりもした。文句の言える筋合いではなかったものの、船上で出される食事には皆いささか辟易していたから、見るからに活きのよさそうな魚を手にして、彼らはそれを料理したらさぞかしうまかろうと喜色満面であった。さりげなくそんな有様を目にしながら、正直なところ石田も内心で舌なめずりをしそうになったが、その時になって突然彼の脳裏にある光景が思い浮んだ。そして、次ぎの瞬間にはすっかりその食欲は醒めきってしまっていた。
 その原因は船尾に特設された例のトイレにほかならなかった。佐世保湾内に碇泊して検疫の順番待ちをする間も乗船者たちはそれらの臨時仮設トイレを利用せざるをえなかった。船が河や海を高速で走っている時は排泄物がたちまち眼下の奔流に呑み込まれ、すぐに消え去ってしまうのだったが、波が静かで潮の動きも緩やかな湾内に碇泊した状態で大勢の者が次々に排泄をするとなると、船の周辺がおのずから好ましからぬ浮遊物だらけになってしまうのは必然の成り行きだった。しかも、その浮遊物が細かく砕け散ったものなどを群をなした魚どもが食べている様子を、石田はトイレに行った際に目撃してしまっていた。
 さらにまた湾内には同様の状態の引き揚げ船が多数浮かんで順番待ちをしている状況ときていたから、周辺の魚どもがなんらかのかたちで異常な量の浮遊物の洗礼を受けている可能性は大きかった。もちろん、海水の浄化力はたいへんなものだから、現実にはそれほどに心配することもなかったのかもしれないが、心理的にはどうしても受け入れ難いものがあった。
 ともかくもそんな船上で何日か待機したあと、ようやく順番がまわってきて石田らは浦頭への上陸を許された。乗船時よりも厳格な検疫を受け、そこを無事通過すると待ち構える看護婦らからまたもや全身にDDTを浴びせかけられた。検疫官は検疫に先立ち、「ご苦労様です」と引き揚げ者たちに声をかけたが、その声を耳にしてようやく帰国がなったと安堵し、その場で泣き崩れてしまう者もすくなくなかった。
 検疫が終わると特別に定められた引き揚げ者用の入国手続きをすませ、引き揚げ証明書などの交付を受けたあと、やっとのことで学校か何かの建物らしい臨時宿泊所に案内された。こうしてようやく浦頭の地で帰国の第一歩を踏むことができたのであったが、石田自身には、結局日本に戻ってきたかというどこか諦めに近い思いがあるだけで、特別に深い感慨のようなものは湧いてこなかった。
 臨時宿泊所のトイレは異常なほどに混んでおり、その近くには順番待ちをする男女の長い列ができるほどだった。もしかしたら、それは、苦労の末に母国へと辿り着いたという安堵感がもたらす緊張の緩みのゆえの一時的心理現象かもしれなかった。列に並んだあと順番がやってきたので空いているトイレを確認しようとしてトントンとドアをノックすると、中からは「おう!、なんだ?」といういささか横柄な応答が返ってきた。
 てっきりトイレの中にいるのは中年の男だろうと思っていると、用足しを終えて出てきたのはなんと頭を丸刈りにし男装した若い女性だった。敗戦のため苦労して中国の奥地から命からがら逃れてきた女性などは、表面的に男装しているばかりでなく、身振舞いや言葉遣い、さらには声色まで男を真似て身を守ってこなければならなかった。どうやらその習慣が反射的に出たもののようだったが、石田にも女性たちのそんな苦労の一端はわかっていただけに、その有様がどんなに不自然で珍妙なものに映っても、それを冷笑する気などにはなれなかった。
 浦頭港や臨時宿舎のある一帯はかなり大きな島様の地形になっているらしく、とても大きなアーチ状の木橋が水路を跨ぐ感じで内陸側へと架っていた。夕方になると、その橋の上から。どこからともなくやってきた子供たちの歌う日本の歌曲や童謡の調べが聞こえてきた。どうやら、その子供たちは、引き揚げ者を慰問するためにその橋の上で日本の歌を合唱するように指示されていたらしいのだが、たとえそうであったとしても、しみじみと胸に響くその懐かしい歌声は不思議なほどに聴く者の魂の奥底まで沁みいった。浦頭港に上陸しても特別な感慨はなかった石田であったが、その子供たちの歌声を聞いていると、さすがに、生まれ育った母国の温もりとでもいうべきものを感じざるをえなかった。
 臨時宿泊所に何泊かしたあと、引き揚げ者援護局からいくばくかの現金と鉄道乗車券を支給され、石田ら引き揚げ者はそれぞれの故郷へと帰っていくことになった。宿泊所近くに架るその大きな木橋を渡りしばらく歩くと鉄道の駅があった。列車は足の踏み場もないほどの混雑ぶりを呈しており、乗れるだけでも幸いだと思わなければならない有様だったが、佐世保周辺から彼が生まれ育った博多まではたいした距離ではなかったので、蒸し暑い車内での辛抱もほんの一時のことにすぎなかった。博多駅に着いた石田は駅のホームの水道の蛇口に近づくとまずは手と顔を洗い、それからごくごくと渇いた咽を潤した。なぜか自分でも不思議なほどにその水が美味しく感じられた。
 戦災の直後とあって博多の街並みはすっかり荒れ果てうらぶれて、かつてのような活況はどこにも見られなかった。摩天楼の立ち並ぶ国際都市上海から戻ってきたばかりだったからその思いはひとしおだった。街を行く人々の姿はどこか殺伐としていて、その様子には余裕というものがまったく感じられなかった。
 あとから帰国する母や妹たちの当面の落ち着き先を下見しておく必要もあって、生まれ育った下町の長屋周辺を訪ねてもみた。その一帯もまたすっかり活況が失われてしまっていたが、幸い、昔の大家や一部の住民は健在で、すっかり成長し大人になった石田を驚きと親しみの目をもって温かく迎え入れてくれた。ひとつには、上海に移住したあとも母たちが以前一緒に暮らしていた下町の人々と互いに連絡を取り合い、なにかと世話を焼きあっていたお蔭でもあったが、ともかくも昔馴染みの人々の人情は身にしみた。
 粗末なものではあったけれど、とりあえず身を落ち着ける小部屋なども提供してもらえることになったから、そのまま博多に住まうことも可能ではあった。ただ、そうするにしても、これから先いったい何をやって生きていくかが第一の問題であった。すぐに博多で適当な仕事が見つかるだろうとも思われなかったし、またそれまで苦労して積み重ねてきた語学力やその他の知識経験をうまく活かせるような職場がそうそうあるだろうとも考えられなかった。
 いろいろと思案を重ねた末に、結局、石田は再度東京へと向かうことを決意した。焼け野原と化したと報じられている東京のことだから、上京すればなんとかなるといったようなものではないことは承知だったが、博多の下町にそのまま埋もれたままになっているよりは幾分ましかもしれないという気もしてならなかった。もちろん、かつで横浜の山下公園でそうだったように行き倒れになるおそれもなくはなかったが、現状を打破するにはともかくも行動に踏み切るほかはなかった。それにまた、山下公園で行き倒れになった頃に較べれは石田は能力的にみても精神的にみても数段成長を遂げていた。
 それからほどないある日のこと、東京へと向かう混雑した列車の中に石田の姿が見かけられた。広島も神戸も大阪も、そして名古屋も横浜も、途中の車窓から眺める日本の大都市の姿は惨憺たるものであった。各地の田園風景などにはそう大きな変りはなかったし、戦災を免れ無傷のままで残されている京都周辺のようなところもあったが、日本の都市部の被った損害の甚大さが並大抵のものではないことは、車窓の向こうに見る光景を通して十分に推察がついた。
 ――このぶんだと東京はもっと悲惨な状況におかれているに違いない。いまさらそんな東京に出かけて行って、いったいどうなるというのだろう。絶望的な光景をまのあたりにして途方に暮れるだけではないのか。今一度上京してみようと決断したこと自体が誤りだったのかもしれない――迷いとも戸惑いともつかぬそんな複雑な想いが彼の胸中を駆け巡った。それまでの波瀾に満ちみちた人生をさらに上回る劇的な展開が行く手に待っていようとは、さしもの石田もこの時はまだ夢想だにしていなかった。
 ほどなく東京に到着するという頃になって、石田は上海に独り残ったミサのことを想い浮かべた。そして、どんな苛酷な運命が彼女を待ち受けているかもしれないにしても、彼女が選んだ道はそれなりに適切だったのかもしれないと感じもした。あの激しい気性、あの洗練された感覚、そしてあの並外れた能力と行動力からして、彼女がいまこの日本に戻ってきたりしたら、たちまち身の置場に窮してしまうだろうことは目に見えていたからだった。そして、その時まだ彼は何も知らないでいたが、上海で暮らすミサの身にも、運命の悪戯とも言うべき想わぬ展開が生じかけていたのだった。(「ある奇人の生涯」第一部・完)



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