「マセマティック放浪記」 1999年4月21日
Mathematics Odyssey April 21, 1999
さらば甑島、また逢う日まで  

  鋭い目、精悍な顔つき、全身に漂う不思議な生気とそのゆえの存在感……小川三郎さんは、いにしえの古武士を偲ばせる風格をそなえた方である。勇壮な鎌倉武士であった御先祖の血を受け継いでおられるからかもしれない。
  武蔵野守日野宰相宗頼の子孫で武蔵野国二宮郷(現在の東京都秋川市)一帯を領していた小川太郎季能は、承久の乱において鎌倉方北条義時につき、宇治川の合戦などで武勲をたてた。小川季能はこの戦功により恩賞として肥後益城郡の七十町と薩摩国甑島の地頭職を授けられたといわれている。九州に転封した季能の子、小川季直は配下の武士団とともに宝治元年(一二四七年)前後に甑島に入島し、文禄四年(一五九五年)に改易されりまでの三世紀半にわたってその一族は代々甑島を支配した。小川三郎さんはその小川家の流れを汲むお一人だ。
  小川さんが本格的に民俗学の研究に専念しはじめたのは、二十年余務めた里郵便局長の職を退かれる直前のことだというが、甑島の民俗、なかでも甑島周辺の漁労や魚類の生態に精通され、鹿児島県民俗学会や同学会誌上において数々のすぐれたレポートを発表しておられる。小川さんの叔父君で生前に村長をお務めの梶原仲吉氏は、若い時代に民俗学者柳田国男と交流があった。その縁もあって、柳田国男は民俗研究ため調査員を何度も甑島に派遣した。
  中央大学を卒業したての一九五七年、小川さんは叔父君に連れられて柳田国男のもとを訪ね、直接にその話を聞く機会があった。柳田は、小川さんに向かって、「甑島は民俗学の宝庫ですからね。生涯をかけて郷土のことを何か研究されたら、きっと社会に役立つようなことができますよ」と語りかけたのだという。当時すでに八十歳を超えていた柳田が、甑島の方言をはじめとする島内のあらゆる民俗事象やそれら関連資料をそらんじているのに驚嘆はしたが、大学を出たばかりの若い小川さんは民俗学に興味をもつまでには至らなかった。いま思うとなんとも残念なことをしたと、小川さんは当時のことを振り返る。
  だが、柳田国男翁は、青年だった小川さんの心の奥に民俗学の種の一粒を密かに蒔き残していたのだろう。実家が里村で水産加工業を手広く営んでおられたこともあって、子どもの頃から島の漁業を体験し、魚類の生態や漁労関係の民俗に通じていた小川さんは、定年を前に民俗史の研究に没頭することになった。柳田国男がさりげなく蒔いた種が長い長い時を経てついに芽を出し、葉を伸ばしはじめたのだった。
  小川さんは、かつて家業で取り扱っていた中国や東南アジア向けの輸出品「明鮑(めいほう)」、すなわち干し鮑を主とした鮑の研究をライフワークになさろうとしている。最近は鮑の水揚げは激減してしまったようだが、小川家には往時の繁栄を偲ばせる証として長径が十八センチにも及ぶ大鮑の貝殻が残っている。私が小学生だった頃は、小川さんのお宅近くの浜辺にはたくさんの鮑がところ狭しと干し並べられていたものだ。
  お互い手紙で折々の状況を報告し合うだけで二十数年近くお会いすることはなかったが、小川さんの学会誌発表のレポートはその都度つぶさに拝見しており、昔の甑島の民俗についていろいろと教わるところも多かった。島津藩政時代の御用海商で、密輸王としても名高い浜崎太平次の話なども最初は小川さんに御教示を賜った。四半世紀にも及ぶ時間の空白がまるで一日か二日のことに過ぎなかったかのように私たちの談話は弾んで、あっというまに二時間ほどが経過した。そのままもっと話し込んでいたかったが、明日の出立の準備もしなければないし、あちこちにお別れの挨拶にも伺わなければならない。私は後ろ髪を引かれる思いで重たい腰をあげ、小川宅を辞したのだった。
  別れ際、私は小川さんからお土産として数枚の見事な鮑の貝殻を頂戴した。虹色の美しい光沢を放つそれらの鮑の貝殻は、そのまま小皿のセットとしてお刺し身の盛りつけなどにも使えそうに思えたが、それではもったいないので、東京に戻ったら大切な宝物として棚の奥に大切に陳列保存することにした。
  このあと私たちは現在の郵便局長塩田忠人さん宅でご馳走になり、一晩泊めていただくことになっていた。里村交流センター甑島館に出向きゆっくり温泉につかりたい気分ではあったが、二、三軒挨拶回りをしているうちに塩田宅を訪ねる時間になってしまった。かくしてまた、甑島館でのんびりと温泉に入浴をという願いははかなくもついえ去った。
  塩田宅での歓待はたいそうなものだった。地元で獲れた新鮮な魚に舌鼓を打ちながら、心ゆくまで私たちは想い出話などに花を咲かせた。塩田さんの甥で塩田酒造当主の塩田将史さんなども途中から姿を見せ、島外では幻の焼酎などと呼ばれる「百合焼酎」についての談議なども始まって、その場はますます盛り上がった。
  懐かしいキビナゴの刺し身に箸をつけていた私は、またまた遠い日の情景のいくつかを想い起こした。島の人々がジャコと呼ぶキビナゴは、昔はずいぶんと獲れたものだった。この小魚は、刺し身のほか煮つけにしても塩焼きにしてもテンプラにしても実にうまい。とくにコモッジャコと呼ばれる五月中旬から六月上旬の産卵期の子持ちキビナゴは、獲りたてのものに荒塩をふりかけ、そのまま囲炉裏の火や七輪の炭火などで直焼きして食べるのがなんといっても最高だった。
  いまはもうそんな光景など見られなくなったのだろうが、漁業シーズンの最盛期の夜などにキビナゴやイワシの大群が島の岸辺に押し寄せると、海面が広範囲にわたって燐光色に輝いた。高台の見張り番がそれを発見すると、合図の火を焚いて集落の人々に知らせたりもしたものだ。キビナゴは昔は地曳き網などでも獲れたが、資源の減少に加えて、港湾の著しい近代化に伴い地曳き網そのものを使える浜辺がほとんどなくなった。
  産卵期のキビナゴ漁には、刺し網と呼ばれる特殊な網が用いられた。深さ十メートル、長さ二百メートルほどの長四角形の網を海面に対してほぼ垂直になるように配置する。産卵に押し寄せたキビナゴの群れが網の目を通り抜けようとすると、網の目の大きさよりも太ったキビナゴは腹部のまわりを漁網にはさまれ、網の目に突き刺さったような状態で動けなくなってしまう。一時間ほどしてから網をあげ、網の目に刺さった無数の子持ちキビナゴをふるい落とすようにしてはずす。網の目の大きさに一定の規格を設けておけば獲れるキビナゴのサイズは揃い、未成長の小さなものは網の目を通り抜けてしまうからなかなかに合理的な漁法なのだ。ただこの漁法は特定の魚にしか使えない。
  キビナゴがどんどん獲れた時代には、鹿児島県本土はむろん、天草や島原方面にまで運ばれて多くの家々の食卓を飾っていたし、良質のダシジャコ(出汁用キビナゴ)なども製造され、本土各地で好評を博した。最近でもある程度の水揚げはあり、本土のファミリーレストラン・チェーン店などに出荷されているそうだが、キビナゴ漁の昔の繁栄ぶりからすると淋しいかぎりのようである。
  乱獲も漁獲量が激減した理由の一つなのだろうが、甑島周辺にあるキビナゴ産卵場の環境悪化もいま一つの原因だろう。キビナゴはホンダワラなどを主とした海藻に卵を産みつけるが、既に述べたように、ほどよい量の良質な植物性プランクトンが常時陸から海へと流入する状況でないと、魚の揺り籠である海藻類は育ちにくい。海岸線や河川ががコンクリートで覆いつくされたり、腐敗した汚水が大量に海中に流入したりすると、その条件が決定的に失われる。以前はどこにでも大量に見られたホンダワラのような海藻が激減すれば、キビナゴをはじめとする魚たちは産卵場を失うばかりか、卵から孵化した稚魚たちも海藻類の生み出す二次的なプランクトン類を餌にすることができなくなる。その後の展開がどのようなことになるかは、もはや述べるまでもない。
  現在もなんとか続いているキビナゴ漁だけは、資源の絶滅などという悲惨な事態に陥ることのないように、くれぐれも気をつけてほしいものだ。刺し網によるキビナゴ漁などは観光資源にもなるはずだ。都会から島を訪ねる人々を船に乗せ、キビナゴ漁の様子などを見学させれば喜ぶことは間違いない。もちろん、乗船料は村の人々の収入になるし、甑島の宣伝にもなる。
  朝早い時間に寒い思いをしながらそんなものを見物する人があるかと島の人々は考えるかもしれないが、都会からの旅人が心から感動するのは実はそんな光景なのだ。富山のホタルイカ漁でも、北海道の流氷見学でもそうだが、現代において都会から田舎へ向かう旅人たちは良い意味での野次馬精神が旺盛で、驚くほどにタフなのだ。その物見高さは田舎の人々の想像をはるかに超えている。彼らの多くが関心を示すのは、ちょっとした観光地ならどこにでもあるような近代風の宿泊施設でも、立派に整備された道路や港などでもない。もちろん、そういった設備は観光客を受け入れる基盤としてある程度必要ではあるが、それらの設備を拡充強化するために本来の観光資源が失われてしまってはなんにもならない。

  翌朝はさわやかな快晴だった。朝食後、丁重にお礼を述べ塩田さん宅を辞した私たちは、その足で観農という場所にある先祖の墓所にお参りし、線香を供えて手を合わせた。慶長年間にこの島に配流されその生涯を終えた大炊御門中将藤原頼国の墓と伝えられる自然石の墓も、なにやら先祖の縁があって私の墓地内の一角を占めている。とりあえず、そのほうにも線香をお供えした。また、我が家の墓地の隣には昨夜お世話になった塩田局長の父君と兄君の眠る塩田家の墓所があるので、そちらにもお参りした。いまは亡きこのお二人には私が物心両面でもっとも大変だった時代にひとからならぬお世話になった。「我直ければ、百万人といえども行かん」という言葉を天涯孤独の身になった高校生の私に書き送り、なにかと励ましてくださった先々代の郵便局長、塩田邦人氏のことは忘れられない。
  墓参をすませ何軒かのお宅への挨拶回りを終えてからフェリー乗り場に行くと、ずいぶん多くの人々が埠頭まで見送りに来てくれていた。里村教育委員会の早瀬清さん、北薗龍三さん、祇園下隆さん、昨日お世話になった小川三郎さんに塩田忠人さん、中村順一教育長の奥様、村の神社の祭事を預かる原田豊さん、昔お付き合いのあった近所の多くの方々、そして中学の同期生や同窓生たち……あまりの数のお見送りに、正直なところ私はどうしたらいいかわからなくなって、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながらオロオロする有り様だった。これで万歳三唱なんかが沸き起こったら、隠れる穴は付近にないから海に飛び込むしか手はないと思ったりしたが、幸いなことにそれだけは免れた。
  ライトエースの後部シートは頂戴したお土産の山でいっぱいになった。冷凍鮮魚類を入れたポリウレタンの大きな箱などもたくさんあって、東京に戻ったあと一日か二日くらいなら魚屋が開けるほどだった。いや、それ以前に、冷凍が十分効いているうちにどうやって東京に着くかが問題だった。私の車に保冷装置などついているわけがないから、クロネコヤマトの宅急便よりもずっと速いスピードで帰りを急がねばならないことだけは確かだった。
  甑島に帰省した当日、私のために歓迎会兼同期会を開いてくれた中学時代の仲間で、現在里村の助役を務める梶原勝英君が、たまたま同じフェリー便で串木野に渡るところだった。出張で鹿児島市まで行くのだという。梶原君は中学生の頃からものおじしない堂々たる風格の持ち主で、野球などをやらせると剛速球を投げることで知られたが、助役という要職に就いたいま、その存在感には一段と磨きがかかった感じだった。甑島の将来の展望などについて二、三訊ねてみたりもしたが、口を突く一語一語の言葉にも自信に裏づけられたユーモアのセンスがほどよく滲み出ていて、私にはとても好感がもてた。
  フェリーの到着を待つ時間がずいぶん長く感じられたが、到着した途端に埠頭周辺の動きは慌ただしくなった。急いで運転席に着いた私たちは、見送りの人々への最後の挨拶もそこそこにフェリー船倉へと車を乗り入れ、指定された位置に車を駐めると、慌ててデッキに駆けのぼった。眼下の埠頭に手を振る見送りの人々の姿が見える。私と息子もそれに応えて手を振った。出航を告げる汽笛が鳴りおもむろにフェリーが動き出すと、人々の手の動きが一段と激しくなった。それにつられるようにして、こちらの手の振りも大きくそして速くなった。
  私たちは見送りにきてくださった人々の姿が豆粒のように小さくなり、トンボロ地形上の集落の影が水平線と同じ高さに沈んでゆくまで後部デッキに立ち尽くしたままだった。時間という名の希代の魔術師の手によって、人間という小さく愚かな存在の抱く恩讐の数々が、南海の潮の悠久のうねりの中へと洗い流されていく感じだった。
  さらば甑島、また逢う日まで……再びその日が来るならば……私は胸の奥でそんな言葉を呟きながら一条の白い航跡をいつまでもいつまでも眺めやっていた。



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