「マセマティック放浪記」 2003年11月19日
Mathematics Odyssey November 19, 2003
ある奇人の生涯 (38)
上海幻夢

 その夜の二人だけのデートを契機に、石田とミサの関係は急速に深まっていった。以心伝心というか、一をもって十を知るというか、生来おなじ波長をもちそなえた二人が親密の度を増していくのに余分な言葉や余計な舞台装置など不必要だった。出逢った瞬間から、いや出逢うまえからそうなるように運命づけられていたことを物語るかのように、二度目のデートのときからは軽口をまじえた敬語抜きの自然な会話を交わすようになり、ともに戸外を散策するときなども、どちからともなくぴったりと身を寄せ合いながら歩くようになっていった。そして、お互いのことをミサ、タッツァンとも呼び合うようになった。彼も彼女も生来多趣味ではあったが、文化的なセンスも、音楽や絵画などの好みも、そのほか諸々の興味の対象も不思議なほどに一致していた。
 ハンサムなうえに一七六センチという長身でスマートな体型の石田と、ハッとするような美人で身長一六八センチほどのスラリとした体躯のミサが二人並んで街なかを歩く姿は当然のように人目を惹いた。当時の平均的な日本人の体つきからすればともに群を抜いた長身であるうえに、身につけていた衣服もセンスのよいものだったから、まるで男女二人の映画スターかなにかが上海の街並みをめぐりつつ、詩情豊かなその風情を楽しんでいるかのような印象を与えさえもした。もちろん、石田がいまや日本語学校を大々的に経営する上海きっての名士であり、ミサが上海一流ホテルの知的で有能な美人スタッフであることを知る人もすくなくはなかった。
 ただ、そこに至るまでに様々な修羅場をくぐり抜け、すでに二十六歳と二十七歳の自立した大人になりきっていた石田とミサとの間柄は、よくある恋人同士のそれとはまるで異なるものであった。ある意味で、二人の交際ぶりは初めから通常の男女の関係を超越していたと言ってよかっただろう。
 二人はなによりもまずお互いの精神の自由と自立した生活スタイルを十分に尊重し合った。上海そのものはなお平穏そのものであったが、戦時下のこととあって将来の展望などまったく立たない状況にあったし、もともと今日のことは今日、明日のことは明日にという信念で生きてきた二人だったから、深い関係をもつようになってからも同棲したり結婚したりするなどということはまったく考えもしなかった。
 そもそもミサにはたくさんのボーイフレンドがあった。晩年、石田は当時のことを振り返りながら、「なにしろミサには外国人男性をはじめとし、星の数ほどボーイフレンドがいましたからねえ。とにかく綺麗でしたから、男どもが次ぎから次ぎにまとわりついてきましてねえ……」と笑いながら話してくれたことがあったが、実際その通りだったのだろう。星の数ほどだったかどうかはともかくとしても、異性との交際という点では石田のほうもけっして彼女にひけをとらなかったようである。とくに上海の名士となってからというものは、ホテルやクラブでのパーティー、各種コンサートや観劇会などの機会を通じて彼に近づいてくる女性たちは跡を絶たなかった。そして、上海社交界のマドンナとうたわれるロシア人女性や中国人女性らをはじめとする数々の美女たち相手に浮名を流したりもしたのだった。
 だが、出逢ってほどなく石田とミサの間に築かれた特別な信頼関係は、精神的な意味でも肉体的な意味でも互いを取り巻くそういった華やかな異性の存在を超越したものになっていった。その関係は、愛しい恋人同士のようでもあり、気のおけない友人同士のようでもあり、血を分けた姉弟のようでもあり、さらには生死の境をともにさまよった戦友のようでもあった。実際そうであったからこそ、そんな二人の不可思議な関係は、その後六十年にもわたる波瀾に満ちた歳月を越え、八十五歳で石田が他界するまで続いたのだった。「ミサとの関係は、かつての恋人同士だったなんて言うよりは、腐れ縁もいいところだったと言ったほうがよいのかもしれませんね」と苦笑しながら語ってくれた石田だが、裏を返せば「腐らせようにも腐れようのなかった縁」だったというふうにも考えられないこともなかったろう。

 時々互いの温もりが恋しくなると、二人は上海のとあるホテルの一室にこもりきりになり、いつはてるともない激しい抱擁に身を委ねた。それぞれを取り巻く数々のボーイフレンドやガールフレンドの影を互いの背後に見ながらの抱擁は、そのぶんだけいっそう二人の体内の情欲の炎を大きく燃え立たせ、せめてその刹那だけも相手の心身をおのれの鎖のもとに繋ぎとめ意のままにとことん蹂躙しようとするサディスティックな思いを掻き立てた。恋多き身の男女にしてなお、そのような灼熱の愛欲をもたらすエネルギーが残されていることそのものが不思議といえば不思議であったが、ともかくもそれはまぎれもない事実ではあった。
 数々の恋を重ねた一人の女としてこのうえなく磨きあげられ成熟しきったミサの身体は、弾力に富む石田の肉体をやさしく柔らかく包み込んだかと思うと、まるで真綿でジワジワと締めつけでもするかのようにいたぶり弄んだ。いまにも気が遠のきそうな感覚に酔い痴れながらも、石田のほうも必死にそれに堪え、一瞬の緩みを突いて逆に攻勢に転じると、相手の身体の波打つような動きを両腕で押さえ封じ込めるようにして、自らの全身を前後に激しく揺すり立てた。するとミサもついには体内に滾(たぎ)り昂ぶる命の鳴動を抑えきれず、歓喜の声を漏らしては悶え狂った。
 昂揚の高みをすぎ、やがて満ち足りた虚脱と空白の時が訪れると、二人はお互いの体温を確かめ交換し合うかのように無言のままじっと静かな抱擁を続けた。そして心身の奥までを新たな生気で洗い清め終えると、この二人ならではの軽妙なジョークを交えながら、それぞれのこれからの生き方や時代の展望、様々な文化的問題などについていつ果てるともなく語り合った。
 パレスホテルでの仕事がオフの時など、ミサは石田の経営する日本語学校に見学を兼ねて顔を出し、たまには臨時の講師を務めたりすることもあった。外国人への対応に慣れており、しかも日本できちんとした教育を受けて育った彼女は、そんな時などなかなか見事な講義ぶりをみせもした。ただ、私的な関係を必要以上に学校の中に持ち込むと他の講師たちへ好ましからぬ影響や印象を与えることが懸念されもしたため、よほどの緊急時をのぞいてはミサが講師の役を引き受けることはなかった。

 この一九四二年の六月、山本五十六連合艦隊司令長官率いる日本海軍は、大小三百五十隻の艦船、航空機一千機、将兵十万をもってミッドウエイ海域での戦闘に臨んだが、事前の情報戦での敗北や戦略的な失敗が原因で米国機動部隊に大敗し、大型空母四隻、重巡洋艦一隻、主力航空機三百余機、将兵三千五百名を失った。そしてそれを境に太平洋全域での制空・制海権を急速に奪われていくことになった。
 対米戦開戦当初は破竹の勢いを誇った南太平洋方面での日本軍の進攻も、ガダルカナル島の攻防戦で圧倒的な兵力を誇る米軍に大敗したのを契機として、次第に敗勢へと転じることになった。ソロモン海域で日本陸海軍は米軍となおも死闘を繰り広げたが、十一月頃までには一帯の制空・制海権を完全に喪失し、補給を断たれたガダルカナル島の日本兵はジャングルの中で飢えとマラリアに苦しみながら次々と死んでいった。同島をめぐる攻防戦での日本軍戦死者二万四千名のうち、餓死者・病死者は一万五千名以上を占めていたといわれている。
 十二月も終わりに近づく頃、大本営はガダルカナル島放棄を決定、翌年の二月までに残存兵をブーゲンビル島に撤退させるが、以後、日本軍は南方戦線で敗退と孤立の一途をたどることになった。大本営はこのガダルカナル島撤退を「転進」と発表し、ミッドウエイ海戦大敗のときもそうであったように厳しい報道管制を敷いて国民の目から敗戦の事実を隠そうと画策し続けた。
 対米戦争の最前線においては、このときすでに決定的な敗北とそれにともなう悲惨な事態が日本軍将兵の身に次々と生じていたにもかかわらず、上海にはまだその切迫した情況はまったく伝わってきていなかった。だから、旧来の欧米租界地域が事実上日本軍の支配統制下に入ったとはいえ、上海の経済的あるいは文化的な繁栄ぶりにはなお大きな変化は生じていなかった。一部の欧米人たちが間接的情報として日本軍敗退の事実を知っていた可能性はあるが、たとえそうであったとしても華やかな上海社交界にそのことが及ぼす影響はまだ皆無に近かった。
 上海で一、二を争そうクラブなどで大々的な欧米風のパーティなどが開かれる時などには、石田は必ず主催者から招待を受け、列席を求められるようになった。一定以上の格式ある欧米風パーティには夫妻揃って臨席するか、そうでなくても男女ペアをなして参席するのが暗黙の儀礼になってもいたから、石田は綺麗なことこのうえなくしかも洗練された感性をそなえもつミサを同伴するのが常とはなった。
 フォーマルスーツと洒落た社交ドレスをそれぞれ見事に着こなした二人が腕を組んで会場入りしようとすると、「Mr. and Mrs. Ishida……」と石田夫妻の来場を告げるアナウンスが高らかに流された。もちろん二人は実際には夫婦ではなかったのだが、そのような公式の場においては堂々と「石田夫妻」として振る舞い通した。二人の来場アナウンスが会場いっぱいに響き渡ると、ステージの一角に陣取る楽団員たちは石田夫妻専用のテーマ曲を演奏しながらその栄誉を称え、先客たちは皆盛大な拍手をもって彼らを迎え入れた。いまや二人は押しも押されもせぬ上海社交界の名士となっていた。
 盛大なパーティの場で石田らは当時の上海社交界の大物たちとの出逢いとそれにともなう様々な交流を楽しみ、それが一時の仇花にすぎないとは知りつつも、人間という奇妙な生き物の夢と欲望と虚栄とが織りなす華やかな世界に酔い痴れた。石田はその時代に上海の名花として名の知れ渡っていた美女や賢婦たちと対等の立場で親しく接する機会を得たし、ミサはミサで一流の社交センスをもつ美男や知性溢れる紳士たちと忌憚ない会話を交わし、親交を結ぶことができるようになった。
 石田が上海にやってきた当時は、一世を風靡した名女優の李香蘭などは雲上の存在以外のなにものでもなかったのだが、そんな彼女とも席を接して酒杯を交わしたり、ジョークを飛ばしながら親しく話をすることができるようになった。実際、李香蘭とは様々なパーティの場で一緒になることがすくなくなかったし、たまにはどちらからともなく誘い合い、二人だけで静かな歓談の時をもつこともあったのだった。                                  (つづく)



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