「マセマティック放浪記」 1999年4月14日
Mathematics Odyssey April 14, 1999
カズラ立てと磯餅焼き  

  朝七時頃に目覚めた私たちは、買い込んでおいたパンと牛乳で簡単に朝食を済ませると、すぐに鹿島港のある藺牟田目指して走り出した。たまたま通りかかった瀬尾集落の小川の橋の周辺にたくさんのカラスが集まっている。なんだろうと思って目を凝らすと、一人の老婆がカラスに餌を与えているところだった。カラスどもはその老婆にずいぶんとなついていて、腕や肩にとまったり、手のひらの餌を直接についばんだりしてもいる。カラスとは思われないような、何やら甘えた鳴き声をだしている奴もいた。瀬尾と芦浜とは相当に離れているので確かなことは言えないが、一昨日芦浜で出逢った「オハヨウ」と鳴くあの変なカラスは、もしかしたらこの老婆からその言葉を教わったのかもしれない。
  青瀬から山道を経て長浜に入り、さらに長浜から二日前と同じ道を辿って鹿島村藺牟田の鹿島港に着いたのは午前八時過ぎだった。フェリーの乗船時刻までは少し時間があったので、岸壁周辺の海を覗き込みながら下甑島との別れを惜しんでいると、そこへ見覚えのある人物が車に乗って現れた。下甑島に渡った日の午前中、八尻展望所で出逢った東映ビデオの相原さんだった。私たちと同じフェリーで上甑島に渡るのだという。あれからよい写真が撮れたかどうかを尋ねてみたら、それなりに満足のいく映像を何枚かものにできたという弾んだ返事が戻ってきた。
  朝の上り便フェリーは、甑列島南端の手打港を出航し、長浜、鹿島、平良、中甑、里の各港に寄港したあと本土の串木野港に向かう。鹿島港に入港したフェリーに車を積み込み、すぐに前部甲板に上ってみると、何匹かの大きなカジキマグロのはいったゲージがクレーンで搬入されているところだった。私が子どもの頃は、ブリはずいぶんと獲れていたが、カジキマグロが島に水揚げされることはあまりなかった。甑島近海にカジキマグロが少なかったからではなく、当時の甑島の伝統漁法では、カジキマグロを獲ることが難しかったからなのだろう。船の装備や能力の不足、冷凍保存技術の未発達などといったやむを得ぬ事情があったからである。近年では、手打や鹿島をはじめとする下甑島各地ではカジキマグロをはじめとするマグロ類の水揚げがかなりあるらしい。
  鹿島港を出たフェリーが平良港を経由して上甑島の中甑港に着くまでの五十分ほどの間、私と相原さんは上甑島や中甑島の隠れた推奨ポイントなどについてあれこれと話し込み、さらには日本各地の島々について何かと情報を交換した。フェリーが中甑港に到着すると、私も相原さんもただちに船から車をおろし、お互いの無事を祈り再会を約しながら、それぞれの目指すルートに向かってハンドルを切った。
  そのあと私たちは、中甑集落の知人宅を何軒か訪ねて明日甑島を発つむねを伝え、今後のお互いの健勝を祈り合って別れの挨拶にかえた。中甑から里村の集落に戻ると、村の郵便局で塩田局長を拾い、集落の南側にある標高二百メートルほどの山の鞍部に登ってみた。子どもの緒頃には岩と赤土だらけの細い山道しかなかったが、いまでは立派な舗装道路が通じていて、車で走るとあっというまに着いてしまう。
  昔はこの一帯まで見事な段々畑が続いていて、サツマイモや麦類、柑橘類、野菜類などが栽培されていたものだ。甑島というと集落を囲む山の斜面一帯に広がる段々畑が連想されるほどで、「段々畑、段畑、良い子が種をまきました。良い子の種まき何まいた……」などという歌を学校の学芸会や各種式典のときなどに合唱させられたものである。その段々畑も、過疎化と住民の高齢化の進んだ今では耕作する人も少なくなって、集落近くのものをのぞいてはすっかり荒れ果ててしまっている。
  最近の状況はわからないが、「馬込の段」と呼ばれるこの鞍部一帯は、私が中学生だった当時までは「カズラ立て」と呼ばれる里村独特の行事の出発点の一つになっていた。この行事は昔はお盆の頃と秋の十五夜の頃に行うのが通例だったが、島に住む若者が減った近年では、帰省者や観光客の多いお盆の時だけに催されているようである。
  温暖多雨の亜熱帯性気候のため、島内の樹林の中には葛カズラ類がいたるところに繁茂している。甑島で葛の根から葛粉を採取したという話はまったく聞いたことがなかったが、その理由が、単に甑島の人々が葛の根から葛粉を採取する方法を知らなかったからなのか、それとも何らかの理由で甑島の葛が葛粉を採取するのに不向きであったからなのかはわからなかった。そこで、事情通の人に訊ねてみたところ、葛根のデンプンはアクが強く処理に相当な手間がかかるので、サツマイモの産地である甑島ではデンプンをとるにしても葛を用いる必要がなかったからではないかという返事が戻ってきた。なるほどとは思うが、南紀伊や四国地方の山間部などでとれる上質の葛粉は結構な値段がしているだけに、もしも南紀や四国産のものと同質の葛粉が採れるようなら、甑島産葛粉の生産を一考してみるのもそれなりに面白いことかもしれないと感じもした。
  さて、本題の「カズラ立て」の話だが、長さ数メートルから十メートル以上に及ぶ太い葛カズラを山から大量に切り出し、それらを束ねて長さ百〜百五十メートルにも及ぶ大蛇様のカズラ綱をつくる。大蛇の腹にあたる太いところは直径二十〜三十センチ、尻尾に相当するところでも直径十センチくらいはあるだろう。昔は村の各地区の若者や小中学生が総出でこのカズラ綱造りに参加し、その制作技術は代々自然に伝承されていったものだ。その葛カズラ採りやカズラ綱造りをした懐かしい場所がこの馬込の段付近だった。葛カズラを鎌で切り出したとき、その切り口を歯でかじり水分を口で吸うと独特の甘味がしたものだ。
  大蛇様のカズラ綱の先端部にはやはり太い葛カズラの引き綱がつけられていて、カズラ綱が集落に向かってくだるとき先導役の若者がそれを引く。カズラ立ての当日は、様々な色のタスキやボロ布を半裸体の身にまとい、色とりどりの顔料で顔を塗ったり面をかぶったりした派手な出で立ちの若衆が、カズラ綱の前方を踊り狂いながら進む。彼らの一部は法螺貝や笛、大きな空き缶、太鼓、鐘などを手にしていて、それらを吹いたり打ち鳴らしたりしながらリズムをとる。基本になるのは、「プープラプー、ほれガンガラガン」という単調なリズムで、果てしなく繰り返されるそのリズムに乗って一連の行事が進行することになる。
  大蛇様のカズラ綱本体は先行するたくさんの踊り手を追いかけるかたちで進む。獲物の蛙の群を追いかける蛇といった構図を想像してもらえばよい。るカズラ綱の先頭部は屈強な男たちの肩に担がれ、集落に入ると、その先頭部分は彼らの手で左右の路面上に繰返し繰返し激しい勢いで打ちつけられる。かま首を振り激しくのたうつ大蛇をイメージしたもので、中学三年生のとき私自身もこの役柄の一端を受け持ったことがあった。私のところだけが「屈弱?」に見えたかどうかは、いまとなっては知る由もないけれど……。
  大蛇の胴体から尾部にあたる残りの部分は、老若男女を問わず誰でもが担ぐことができる。「ヤーシンヤー」といったどこか優雅な掛け声を発しながらカズラ綱を肩にして村中をくねり歩いていくのだが、その有様はどこかユーモラスで、しかも迫力に満ちている。カズラ綱を担いだ行列のあちこちでは多数の大漁旗が打ち振られ、また、直接行列に参加しない人のほうは、バケツに水を入れて門口で待ち受け、踊り手や先頭部の男たちに柄杓で頭から水を浴びせかけたりもする。
  行列が広場に入ってしばらくすると、急に法螺貝や鐘、太鼓の音が速くなり、それを合図にカズラ綱を担いだ人々が一斉に駆け出し、先端部を中心にして大蛇がトグロを巻いたのと同様の形を作り上げる。トグロの形が完成すると、下から人々に支えられてゆっくりと回転するそのトグロの上に踊り手がよじ登り、再び「プープラプー、ガンガラガン」というゆっくりしたリズムに合わせて踊りはじめる。その状態がしばらく続くと、また法螺貝や鳴り物の音が「プープープープー、ガンガンガンガン」という単調で速いリズムに変わり、先刻とは逆の激しい動きを見せてトグロが解けていく。なんとも勇壮な里村独特の奇祭で、民俗文化の観点からしてももなかなかに興味深い。
  馬込の段に立ち、里村の集落を見下ろしながらカズラ立ての昔の想い出に耽る私のすぐ近くでは、島の近代化の象徴とでもいうべき巨大な風車がブルンブルンと特有の振動音を発しながら回転していた。それは、この馬込の段に近年設けられた風力発電塔の風車だった。左右の山並みがそこだけ鞍状に落ち込んだ馬込の段は、年間を通じて格好の風の通り道になている。したがって風力発電には好適なのだ。
  回転半径十四メートル、三枚羽根の大風車は、最大出力時には民家百二十五戸分に相当する電力を生み出すらしい。風力発電の原理は他の発電システムの場合と同じで、水力や火力ないしは原子力エネルギーで回転させている発電タービンを風力で動かしているだけのことである。ただし、構造上の問題や風力の限界から大容量の発電は期待できない。
  猛烈な風の吹き荒れる台風の時には風車が扇風機のように回り、さぞかし発電量が増えることだろうなと思って、その様子のほどを同行の塩田局長に訊ねてみると、なんとも意外な返事が戻ってきた。台風が接近してきたら電力会社の係員がやってきて風車をはずし、地上に降ろしてしまうのだそうだ。そのままにしておくと、猛烈な風のために風車の羽根や動力伝達システムが破壊され修理に膨大な費用がかかってしまうから、風車をはずさざるを得ないのだという。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という教訓のお手本みたいな話である。
  風力発電塔を見学したあと、私たちは集落とは反対側に向かって鞍部を越え、左右に分岐する林道の左ルートをとって道なりに走り続けた。眼下には海が広がり、南西方向はるかに下甑島方面の島影も見える。この林道を通るのは初めてだったが、想像していた以上に雄大な景観だった。しばらく走ると、前方海上に、近島、野島、犬島、筒島、松島、双子島、沖の島といった小無人島群が姿を現した。子どもの頃から見慣れている里村沖の島々だが、この角度から見下ろすのはむろんこれが最初である。ここからの眺めは最高だという塩田局長の言葉通りに、実に趣のある風景だった。
  明るく開けた展望を楽しみながらさらに進むと、上甑島のほぼ東端にあたる尾川原(おごうらはま)の浜の上に出た。林道から分岐して尾川原浜にくだる道があったので、とりあえず降りてみることにした。現在のような道路が造られる前までは、この浜辺には海上から小舟に乗ってやってきたものだ。この浜は石浜で、様々な形をした大小の石が無数に集まり並んでいる。その石の上を伝い渡って波打ち際に行くと、懐かしい磯の香りが鼻を突いた。荒磯に生える藻類に特有のこの匂いがするということは、尾川原浜周辺の海がまだ生きているなによりの証拠である。潮のきらめきも美しく、水中をうごめく黒蜷(クロニナ)の姿もあちこちに見てとれた。
  磯辺に立って沖の小島を眺めたり、石の下の小蟹と戯れたりするうちに、私は、突然、磯餅焼きの情景を想い起こした。足元一帯を埋め尽くす大きな石が、たまたま磯餅焼きの竈を造るのにほどよい大きさだったからかもしれない。
  すっかり近代化が進み、石の浜辺や磯場の消えてしまった里村集落の海岸でそんな行事を催すのは不可能になってしまったが、昔は旧暦の一月十六日の大潮の日に、村の子どもたちが中心となって磯餅焼きが行われた。磯辺のあちこちに大きな石を組み合わせて竈(地元の言葉でジロという)を造り、海岸に打ち寄せられている流木類を拾い集めて火を起こす。そして、竈の上に持参した屋根瓦をかけ、その瓦の上で餅のほか付近の磯で採った魚貝類などを焼いて食べる行事である。
  いつ頃誰が考え出したものなのかはわからないが、瓦を用いるというのがなんとも絶妙で、餅も魚貝類も実にうまく焼けるのだ。上から直接醤油などをかけて味付けする場合も、瓦が高熱になっているうえに水分の吸収力もあるからへんに垂れ落ちたりすることもなく、大変に都合がよかった。また、磯辺という場所のもたらす解放感が、いっそう味覚を鋭く新鮮なものにしてくれたし、成長期の子どもたちの胸の奥に不思議な感動を刻み育んでくれたものだ。
  焼き上がったお餅や魚貝類を食べる前には、海に向かって「オーミン・カミサマ(海の神様)、オーミバ・オヨガッシャイモーセ(海を泳がせてくださいませ)、ミナモ・キャーモ・トラッシャイモーセ(蜷も貝も獲らせてくださいませ)、イオモ・トラッシャイモーセ(魚も獲らせてくださいませ)、オイガ・ダンダーキ(私の首ほどの深さまで)」といったような、お祈りみたいなことをやったものだ。そして、焼けたお餅を一・二個ほど海の中に放り込み、海神様に献げたものである。
  鉄板焼きの鉄板のかわりに瓦を使うというこの発想はなかなかのもで、東京に来てからも車に瓦を積んで旅先にもっていき、それで餅や肉類、魚貝類、野菜類を焼いて食べるということをやっていたが、火の通りもよく、実に便利だった。欠点といえば、多少重いのと、取り扱いに気をつけないと割れてしまうことだろうか。アウトドアが好きな向きにはぜひ一度試してみることをおすすめしたい。
  尾川原の浜から再び林道に戻り殿崎という岬を見下ろす地点をまわると、里村の全景を一望のもとにおさめることのできる場所に出た。ここから見ると、典型的なトンボロ地形、すなわち陸繋砂州上に発達した集落であることがよくわかる。昔の姿からは想像もつかないほどに近代化した村の様子を眺めながら、懐かしい里小学校のあたりに視線を送っていると、どういうわけか、この時の状況とは何の脈絡もないある記憶が甦ってきた。なんと、それは「方言札」というもにまつわる想い出だった。
  私が小学生だった頃、鹿児島県内の各地の小学校では標準語運動が盛んだった。当時の鹿児島県人が大都会に出た時の最大の悩みは、ほかならぬ言葉の問題だった。不慣れな標準語を用いなければならないうえに、標準語を話すときにつきまとう鹿児島弁訛りは、すくなからぬコンプレックスとなって都会に出た鹿児島県人を苦しめた。テレビやラジオが普及し、国中の誰もが自然に標準語を身につけられるようになった現代では考えられない話だが、その頃はそれなりに深刻な問題だった。
  そんな理由から、すこしでも将来に備えることができればということで、校内標準語運動が繰り広げられていたのである。そして、そのための補助的手段として登場したのが、方言札というなんとも奇っ怪な代物だっだ。クラスの中に「方言札」と書かれた札が用意されていて、うっかり誰かが方言を使うと、それに気づいた者が「方言!」と指摘し、その札を強制的に手渡すのである。方言札が何枚か溜ると、放課後その枚数に応じて様々な罰当番をやらされた。
  東京や横浜での生活が長かった祖父や、もともと都会生まれで都会育ちの祖母や母たちは家の中では普通に標準語を使っていたので、私自身は言葉で苦労はしなかったが、だからといって罰当番に無縁だったかというとそうではない。
  当時のクラス仲間が使う標準語なるものは、国語の教科書を棒読みしたような文章体だった。何か変だなあとは思いながらも、私も皆と合わせるように文章体棒読みの話し方をしていたが、ついうっかりして会話体の表現をしてしまうことも少なくなかった。すると、たちまちそれは方言だと指摘され、その結果、私は方言札を何枚も持たされて、放課後に罰当番の雑巾掛けを何度もやらされる羽目になった。
  それにしても、あの標準語運動にはいったいどれほどの意味と効果があったのだろう。いまもって不思議な思いがしてならない。最近では昔ながらの甑島の言葉や純粋の鹿児島弁がしゃべれる人のほうが貴重な存在になっているのだから、時代も変わったものである。
  そんなことをあれこれと考えながら里集落に戻った私は、明日の出立の準備をする合間を縫って、前の里村郵便局長で民俗学の研究者としても知られる小川三郎氏を訪ねることにした。お別れの挨拶に伺ったついでに、甑島の漁労関係の民俗研究について専門的な立場から教えを請うためでもあった。



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