「マセマティック放浪記」 2003年10月1日
Mathematics Odyssey October 1, 2003
ある奇人の生涯 (33)
ケーキと札束の関係は?

 海軍武官府で働いていた頃の石田に対する待遇や報酬は、当時上海に住む一般民間人のものからすると相当に恵まれたものだった。あるとき老翁は、こちらの問いかけに応じ、ちょっとしたエピソードを交えながらそのあたりのことを面白可笑しく語ってくれたことがある。

「海軍武官府で働いていたときの給料はよかったんですか?」
「ええ、仕事のほうは頭脳労働で労働環境にも恵まれていましたし、報酬もけっして悪くはなかったですよ。そのときの給金を現在の貨幣価値に換算するのはちょっと難しいんですけどね」
「当時のお金でどのくらいの額だったんでしょう?」
「それがですねえ、なにしろ給料は軍票で支給されていましたからねえ……。その頃はすでに上海においては日本軍部の支配力がずいぶんと強くなっていましてね、日本軍が発行する軍票が一種の通貨として通用するようになっていたんです」
「軍票ですか……、なんだかピンときませんが……」
「軍票は当時の日本紙幣に似せたデザインでしたが、表面に赤字で軍用手票という文字が印刷されていました。確か百円、五拾円、拾円と、いろいろな額面の軍票がありましたね。もっと小額の軍票もあったかもしれません」
「そうだったんですか……、いまの時代では考えられない話ですね」
「支給された軍票は現地通貨に換えることもできたんですが、中国の通貨に換金するとびっくりするほどに分厚い札束になったりてしまいましてね……、そう、七・八センチほどの厚さのずっしりした札束なんかにもね。お蔭でずいぶんと贅沢な生活ができるようになりましたよ」
「そうですか、でもあんまり分厚い札束になってしまうのも困りますよね。持って歩くのも容易じゃないでしょうから」
「そうそう、それでまた想い出しましたよ。ちょっとした失敗談をね」
 石田翁は意味ありげな苦笑を浮かべながらいったん言葉を切ると、テーブルの紅茶を一口すすり、そのあと私がお土産に持参したケーキにフォークを入れながら呟いた。
「そうなんですよ、ケーキ、あのケーキのことを時々想い出すんですよ……」
「はあ?……軍票の話からいきなりケーキの話になっちゃったんですけど、なにかそれら二つに関係でもあったんですか」
 さっぱり事情を呑み込めずに困惑顔でそう問い返すと、老翁はケーキを頬張りながら悪戯っぽく笑って言った。
「札束とケーキとは直接関係有るような無いような話なんですがね。海軍武官府で働くようになってしばらくしてからのことですが、仕事の帰りに知人からケーキを五・六個貰いましてね。当時はなかなか手にはいらない上等のケーキで、それを箱ごと風呂敷に包んで帰途についたんですが、その途中で軍票を地元通貨に換金しました。さっき話したように、ずっしりした分厚い札束になっちゃうんですから、とても財布には収まりきれません。たまたま鞄はもってませんでしたから、紙袋に入った札束をケーキの箱と一緒に風呂敷に包んだんです」
「ははははは……、それでようやくケーキと札束の関係が納得できましたよ。確かに関係が有るあるような無いような話ですね。まあ、ケーキのいい話と言いますか……」
 こちらがそう茶々を入れると、老翁は景気のよい話はそこまでだとでも暗示するような表情を見せ、それからまた口を開いた。
「夕刻ちかくのことだったんですがね、南京東路にさしかかった時、突然、『ドロボーッ!、ドロボーッ!』って叫ぶ女の声がしたんですよ。振り返って見ると、必死の形相で抵抗する中国人老婆の手から若い男が包みのようなものひったくろうとしているところでした。すぐに私はそのほうに駆け寄よったのですが、もう一息というところで男はその老婆から包みを奪い取ると勢いよく走り出しました。老婆はまた『ドロボーッ!』と一声叫び必死に男を追いかけようとしました。でも、足が思うように動かないみたいなんです。履いている靴の形やその足の形からして彼女が纏足であることは明らかでした」
「それで、石田さんが代わりに?」
「そうなんです。咄嗟の判断で老婆に自分の風呂敷包みを預けると、私は男のあとを追って駆け出しました。『まてーっ!、こらまてーっ!』って叫びながらね。でもねえ、『まてーっ!』って言われて、はいそうですかって待つ泥棒なんかいるわけがありませんよね。なんであんな時に『まてーっ!』なんて叫ぶんですかねえ」
「ははははは……、でも、『はーい、なんでしょうか?』なんて返事が戻ってきたりしても逆に困ってしまいますものね」
「相手が曲がり角などで逃げ場を探してキョロキョロしたりし、そのぶん逃げ足が遅くなったこともありましてね、ひったくり現場から四・五百メートルほど走ったところでなんとか追いつきかけたんですよ」
「首尾よく男を御用にして一件落着ってわけにはいかなかったんですか」
「落着するにはしたんですけど、旅客機が海中か山中に不時着したような落着の仕方でしたよ」
「はあ?……いったいそれでどんな落着の仕方を?」
「なんとか私が追いつきそうになると、男は老婆から奪った包みをいきなり路上に放り投げ、また一目散に逃げはじめました。私がその包みを拾っている間に男のほうは角を曲がりとうとう姿が見えなくなってしまったんです。ただ、ともかくも包みを取り返すことができたので、まずはよかったと思いながら老婆の待つところに戻ったんです」
 そこまで話が進んでくると、さすがにその結末は私にも読めてきた。
「するともう老婆はそこにいなかったってわけですね!」
「そうなんです。どこを探しても彼女の姿が見えないんですね。しばらくは変だなあと思いながらあたりを見回していたのですが、そのあとようやく、あっ、やられた!……と思ったんです。慌てて手元に残った包みを開けてみると、なんと中身はボロキレと紙屑と小石だけだったんですね」
「グルだったわけですね。でもなかなかの策略と演技力ですね!……なにからなにまで計算づくというわけで」
 巧妙な手口にいささか感心もしながら話の先を促すと、石田翁は自嘲するかのようにさらに話し続けた。
「あとでよくよく考えてみますとね、そもそも老婆が『ドロボーッ!』って日本語で叫んだところからして変なんですよ。あの老婆は中国人だったから、反射的に出た言葉なら中国語になるはずなんです。あれは、あらかじめ私が日本人だってわかっていてやったことですね。それに、逃げたほうの男だって、ほどよく私を引きつけることのできる速さで逃げておいて、そこで包みを投げ出したんです。相棒の老婆が姿を隠すことができるだけの時間稼ぎをしてね」
「なるほど、それはしたたかですねえ。咄嗟のことだから、そこまで考えている余裕なんかありませんものね。ただ、そうだとすると、相手は石田さんが軍票を現地通貨に換金しているあたりから目星をつけていたんでしょうか?」
「そうだったのかもしてません。換金したのは南京東路のその現場からそう離れていないところでしたから……。もしかしたら、かなり以前からマークされていたのかもしれません。海軍武官府から住まいまでの帰りには毎日ほぼ同じルートをとっていましたからね」
「それじゃ石田さんも相当に頭にきたんでしょうね!」
「なんとしもその老婆を助けてあげなきゃっていう義侠心をおこして必死に男を追いかけたわけですから、そりゃ腹も立ちましたよ。怒りがおさまったあとも、悲しくなったり淋しくなったりしましてね。まあ、騙されてお金を盗られたのは初めてじゃなかったわけですけれども、上海に行ってから個人的に親しくなった中国人たちは皆信頼できる人たちだっただけにとても残念で……」
「一口に中国人といっていも、当然、いろいろな人がいたんでしょうからね」
「まあ、いぽうでは日本人が中国を侵略し、いたるところで好き勝手に振舞い中国人を弾圧していたわけです。海軍武官府で英字新聞などをモニターさせられていたわけですから、上海の日本人居留民たちとは違って、海外には日本の中国侵略を批判する厳しい世論があることも知ってました。ですから、あとになって考えてみると、仕返しに何をやられても文句は言えないという一面もあったんですね。ただ、そうは言っても生身の人間ですから、騙されたことはやっぱり悔しかったですね」
 石田翁はそう言って苦笑した。いまでは海千山千の風貌をそなえたその口からそんな昔の失敗談を聞くのは、また一味も二味もあることだった。
「まんまと大金をせしめたその一味はさぞかし大喜びしたことでしょうねえ」
「そうかもしれませんがね、実を言うと、こちらにすればお金よりもケーキを盗られたことのほうが残念でねえ……」
「はあ?……ケーキを盗られたことのほうがショックだったですって?」
「ははははは……、そうだったんですよ。お金のほうはね、結構余裕がありましたし、海軍武官府で軍票支給してもらえばまたいくらでも手にすることができたんですが、当時の上海ではあの特製ケーキはたとえお金があってもなかなか購入できないものでしたから、そりゃ悔しかったですよ」
「なんとまたそれは意外な!」
「その晩は家に帰ってからもケーキのことばかりが頭にこびりついて、床に就いてからもなかなか眠れませんでしたね」
「その頃、二人の盗人どもはケーキでも食べながら、嬉々としてお金の勘定でもしてたんでしょうね」
「あれからも何度となくそのケーキの夢を見たりしましたよ。そうでなくても、ケーキを食べる機会があるごとにあの日のことを想い出しましてね。どんな美味しいケーキを食べても、あの時のケーキの味には及ばないような気がしましてね」
「だって石田さん、そのケーキを実際には食べてないんですから、味なんかわかるはずないでしょう?」
「理屈上はそうなんですがね、妙なものでなぜかそんな思いがしてならないんですよ。食い物の恨みは恐ろしいって言いますけど、本当ですね、ははははは……」
 石田翁はそう言って笑いながら、その苦い想い出話に区切りをつけた。         (つづく)



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