「マセマティック放浪記」 2003年9月10日
Mathematics Odyssey September 10, 2003
ある奇人の生涯 (31)
上海裏社会と大世界

 フランス租界の一角に位置する大世界(ダスカ)は、まさに上海の夜の街に咲く巨大な一輪の妖花という形容がぴったりのところであった。色とりどりの鮮やかなネオンと照明に彩られた、美しくも妖しくもある奇妙な形の建物にまず石田はその目を奪われた。左右に大きくのびる複雑な構造の数階建ての建物があって、その中央には、まるで巨大な仏舎利塔を近代的にデフォルメしそれに螺旋階段や何層もの展望台を付設したような望楼らしきものが立っていた。大世界の建物やその周辺一帯の歓楽街を漂い包む華やいだ雰囲気にはどことなく洗練されたところがあって、東洋的な風土の醸し出す情緒とはまるで異なるものが感じられた。
 その光景を一見した石田は絢爛たる光の渦の煌きの奥に底知れぬ闇の存在を直感した。しかしながら、同時にまた、目の前の光の渦に自ら巻き込まれ、どこまでも溺れ耽ってみたい気分でもあった。遠い東洋の地に移植された西欧の魔木が枝いっぱいに享楽の花を咲かせ、それに群がる者どもを次々に痺れ呆けさせようとしていると知りながら、なおその誘惑に抗しきれない人間の性というものをつくづくと不思議にも思うのだった。かねがね噂に聞いていた魔都上海の魔都たる所以をこの大世界という妖麗な夜の花の放つ甘い香りは何よりもよく物語っていると言えた。
 どこらともなく流れ響いてくるジャズの演奏に思わず石田は足を止め、その哀調を秘めたメロディーとリズムにしばし耳を傾けた。そして心の底まで沁み透るようなその響きにどうにも抗することのできなくなった彼は、まるでそれに誘い導かれるようにして大世界の建物の一角にある階段を上った。ジャズの演奏の漏れ響いてくるお店はすぐに探し当てることができた。しばし躊躇ったあと意を決した彼がそのクラブ風の店の洒落た造りのドアの前に立つと、自ら手をわずらわせるまでもなく中国人ボーイの手でさっとドアが開かれ、彼は店内の一隅にあるテーブルへと案内された。
 十分に計算し尽くされた照明に浮かぶ店内の光景に、石田は少なからず感嘆した。まだ
上海に不案内な身ではあってもこの地にはもっと大きくもっと高級なクラブがいくらでもあることは知っていたし、大世界という歓楽街の一隅に位置する店ということもあったから、店内の雰囲気にはそうそう期待はしていなかった。だが、個々のテーブルや椅子をはじめとする調度品や装飾品のすべてが重厚そのもので、しかも、きらびやかなチャイナドレスに身を包んでテーブルをめぐり、にこやかにお客に語りかける女性たちはみなそれぞれに美しくしかも気品に満ちみちていた。彼はそんな店内の様子をさりげなく窺いながら通されたテーブルに腰を落ち着けると、とりあえずカクテルを注文した。
 店の奥あるステージでは数人の外国人たちによってジャズの生演奏が行なわれているところだった。ヴォーカル、サックス、トランペット、ドラム、ピアノのどの音をとってもゾクゾクするような迫力で、当時の日本などではまず聴くことのできない本格的な演奏だった。それまでにジャズに慣れ親しむ機会がそれほどあったわけではなかったのだが、石田はその音に酔い痴れその響きにひたすら圧倒されるばかりだった。
 ジャズの演奏の合間には、英語、フランス語、ロシア、中国語などで談笑する声が店内に飛び交い、まさにアジアの最先端を行く国際都市上海の面目躍如というところだった。この夜たまたま石田が覗き見たのは、大世界、さらには上海という都市全体に蠢く光と陰の世界からすればごくささやかな部分、しかもごく健全な一面にすぎなかったが、それでもなお彼の心はどこか妖しくときめきたち、不思議なまでの興奮に包まれた。そしてこれが彼の上海歓楽街における遊興体験の第一歩となった。

 英米租界やフランス租界が誕生し商工業が急速な発展を遂げるようになると、上海には福建省や広東省をはじめとする中国各地から船員や港湾労働者、各種商人、難民、さらには暴徒たちまでが大量に流入するようになった。そして、彼ら移民や流民たちは出身の郷土単位の互助組織を構成し、それらがさらに拡大して幇(パン)と呼ばれるより大規模な組織体を形成するようになっていった。上海に七つあったと言われる幇はその後いっそう統合が進み、最終的には紅幇と青幇と呼ばれる二大秘密結社となって上海一帯の裏社会を支配するようになった。第二次世界大戦後になって中国共産党によって上海が解放される以前には、黒社会とも称されていたそれらの幇に属する者の数は当時三百万前後だった上海の人口の四分の一にも及んでいたという。その秘密結社の一つ青幇の本拠地が置かれていたのは、ほかならぬこのフランス租界の大世界一帯なのだった。
 青幇の大亨(大親分)であった黄金栄、杜月笙、張嘯林らは租界時代の上海では知らない者など誰ひとりいない存在だった。そのなかでも一番の頭領である黄金栄は、もともとフランス租界の警察の密偵を務めていたが、その有能な仕事振りをフランス租界行政当局に買われついには警察署長にまでのぼりつめた。そして、フランス租界の実質的な監察者であるその特権を最大限に活用し、幇会三宝(幇の三資金源)とうたわれた烟、賭、娼、すなわちアヘン、賭博、売春の三事業に奔走、驚くほどにほどに巨大な財力と権力とを築き上げた。その黄金栄が一九一七年にフランス租界内のこの地に造り上げたのが一大娯楽施設の大世界にほかならなかった。
 大世界は映画館、劇場、演芸場、賭博場、各種レストランやクラブ、酒場、鍼灸院、さらには売春窟、アヘン窟までと、ありとあらゆる遊楽施設のある一大総合娯楽センターで、近くには競馬場(現人民公園)などの施設もあった。映画、京劇、中国雑技、演奏会、各種イベントにはじまり、諸々の賭博やアヘンなどの麻薬取り引き、秘密のものから公然なものにまでいたるまでの様々な売春と、人間の心身を慰め安らわせてくれたり、その本能的な興味や欲望を満たしてくれたりする催し物や行為の数々が昼夜を問わずに繰り広げられていたのである。
 黄金栄がその財力にまかせて造営したのは大世界歓楽街ばかりではなかった。上海師範大学に隣接している現在の桂林公園は当時は黄家公園と呼ばれていて、黄金栄が自分の両親の墓碑などを築き置いた花園であった。その広さや園内の華麗きわまりない景観は租界時代における幇という組織の表裏両面にわたる絶大な支配力をこのうえなく象徴してもいた。
 上海浦東で生まれたという杜月笙は地元の果物屋などで働いているときに青幇に入会、黄金栄にその能力と手腕を買われて頭角を現わし、黄金栄を継ぐ青幇の大頭目となった。国民党の蒋介石と通じ、フランス租界内の公館や東湖賓館、錦江飯店などが彼の上海での活動拠点になっていた。杜月笙は一九二九年に幇会の頭目が興した近代的な銀行としては初めての中匯銀行を設立、フランス租界内のアヘン業者や賭博売春業者のもつ莫大な資金を一手に吸い上げた。一九三四年に完成をみた中匯銀行ビルはその頃の上海においては有数の眺望を誇る高層建築でもあった。ちなみに述べておくと杜月笙は終戦直後に香港に亡命している。
 浙江省生まれの張嘯林は杭州に出て裏社会に関係をもつようになり、その後上海に出て青幇に入会した。そしてアヘン取り引きなどを通じて黄金栄、杜月笙らに次ぐ青幇の大頭目となった。ただ、張嘯林は、杜が国民党支援のために上海を離れ重慶に滞在している間に日本軍と結んで自らが上海に君臨しようとしたため、国民党政府や杜一派の怒りを買って暗殺された。
 幇会三宝と称されたアヘン、賭博、売春という三つの資金源のなかでもアヘンは幇の最大の資金源であった。金、杜、張の三人の大頭目は一九二五年に力を結集して大公司を設立し、上海のアヘン市場の独占を図りもした。租界各地には「燕子窩」という異名で呼ばれるアヘン窟が存在していたが、なかでも金陵東路や寧海東路一帯はアヘン窟の一大密集地であった。アヘンを取締まろうという動きも皆無だったわけではないが、現実問題としてそれを実践することはほとんど不可能な状況だった。中国人たちの住むいわる華界では軍閥警察がアヘン取り引きをバックアップしていたし、フランス租界内では黄が署長を務めるフランス警察が全面的にアヘン業者を支援して、租界自体が莫大な利益を得るという構図になっていたのだから、アヘン取締りに手をつけるなどできるはずもなかったのだった。
 杜月笙がその理事長に就いていたころの大公司は事実上中国全土のアヘン市場を支配していた。一九三〇年代における大公司の年間アヘン取り引き量は最大で二〇〇〇トンにものぼり、フランス租界行政当局、公司、軍閥の三者のそれぞれに転がり込む収益は当時の中国の貨幣価値で一億元を悠に超えるものであったという。
 
 漏れ響いてくるジャズの演奏に誘われてその夜石田が初めて訪れた大世界のお店は、それなりに風格もあり、そこに集うお客もその応対にあたる従業員も一見したかぎりでは洗練された感じの人々ばかりであった。だが、彼が我を忘れてジャズの演奏に聴き入っている間にも、大世界周辺のどこかでは数々の賭博が開かれ、アヘンの大取り引きの相談が進められ、さらには売春が行なわれているはずだった。しかも、西欧資本主義の洗礼を受け善い意味でも悪い意味でも爛熟しきったそんな上海の租界文化にも、暗い争乱の影が刻々と忍び寄り、その繁栄を次第に脅かすようになってきていた。石田が憧れの上海にわたり、同地においてその後六年にもわたる生活を始めたのはそのような時代のことであった。                (つづく)



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