「マセマティック放浪記」 2003年8月6日
Mathematics Odyssey August 6, 2003
ある奇人の生涯 (27)
決断の時来たる

 石田翁はその遠い日の出来事のことを「岩のような恋」という独特の表現を用いて懐かしそうに回想した。いまでこそ老虎灘での一連の事態の顛末を青春を彩る掛け替えのない想い出として振り返えり、冷静に述べ語ることもできるのだろうが、当時の石田翁の傷心の深さには計り知れないものがあったに違いない。いつもの人を喰ったような口調がすっかり影を潜め、しんみりとした語り口に変ったことからしても、その頃の苦悩の大きさが偲ばれようというものだった。

「まさに『岩のような恋』という表現がぴったりな話だったんですね」
 とくに他意もなくそう問いかけると、老翁はちょっとはにかみ気味な笑みを浮かべておもむろに答えた。穂高のドラキュラ翁を自称する昨今のこの人物にしてはなんとも珍しいことであった。
「岩だらけのところで岩のように固く結ばれたところまではその通りだったんですが、そのあとがねえ……」
「そうですよね、それからほどなく、その岩が思いもかけず砕け散ってしまったっていうわけですからなんともはや……」
「そうですねえ……、砕け散ったというか海中深く沈んじゃったっていうか……」
「なるほど、海中深く沈んじゃった……、二人で抱き合って断崖の上から海中に飛び込んだままになっちゃたっていうわけですね」
「そうそう、岩のような恋がその重さに堪えかねて海底深くへブクブクと……」
「それで石田さん、結局、そのあとどうなさったんですか?」
「どうもこうもないんですね。なにしろ、一家の移住先が上海とわかっているだけで、あとは何の情報もないわけでなんですから」
「それじゃ、肝心の仕事だって手につかなかったでしょう?」
「ええ、まったく手につかなくなってしまいましたね。とてもよくしてくれた支店長には申し訳なかったんですけれど、もう銀行の仕事なんかどうでもよくなっちゃったんですよ」
「石田さんがそこまでショックを受け、思い詰めるとは……。何事にも超越的な現在の石田さんの姿からすれば、とても想像がつきませんけれどね」
「そりゃ私もまだ若かったですから、そのぶん純粋なところもありましたしね」
「いまでもある意味で石田さんは純粋ですよ」
「そんなことを言ってくれるのはあなたくらいのものですよ」
「ははははは……、べつに青春の秘話を聞き出そうとしておだててるわけじゃありませんからね。それで、その失恋の痛手は想像以上に大変なものだったんでしょうけれど、お蔭でしばらく回転が滞り気味だった石田さんの運命の歯車がまたまた大きく回り始めたとかいうことに?」
「ええ、実際そうなんですよ。人生なにが幸いするかわらないものですね。それからほどなく私も一大決心をすることになったんですが、それはナーシャという存在があったからこそだったのかもしれませんね」
「そうでなければまるで違った人生になっていたとでも?」
「たぶん……、ただねえ……」
「ただ……どうしたんですか?」
「結局のところ、ナーシャには二度と逢うことはできませんでしたけれどね……」
「じゃ、老虎灘のあの日が文字通り最後の一日となってしまったわけですか?」
「ええ、そうなんですね……」 
 こちらの問いかけに石田翁は短く呟くようにそう答えると、謎のような微笑みを浮かべながら、まるで自らに何事かを言い聞かせでもするかのように軽く頷いた。それからしばらく老翁は両手を軽く組んで額に当てながらなにやら思いに沈んでいたが、やがて再び口を開くとその後の経緯を語り始めた。

 イワノフの突然の辞職と一家の大連離脱を知った石田の驚きと悲しみは大変なものだったが、いまひとつ彼にはなんとも複雑な思いがあった。ナーシャらが移住した先がほかならぬ上海だったからである。日本にいる時分から憧れてやまなかった国際都市上海へと渡るという夢を彼はまだ捨ててしまったわけではなかった。塘沽から天津へと出たときも、天津から斎南経由で青島に向かったときも、ベティとの再会がきっかけで青島に住み着いたときも、そして日中戦争激化の影響でやむなく大連へと移住したときも、けっして彼の脳裏から上海への憧れが消えることはなかった。要するに天運が彼に味方してくれないだけのことだった。
 ただ、大連のナショナル・シティ・バンクに勤めるようになってからの生活は、人間的にも経済的にもそして環境的にもそれまでになく恵まれたものだったから、いつしか不満らしい不満もなくなり、あれほどに強かった上海への思い入れも表面的には影を潜めていたのだった。しかしながら、実際にはその思いはなお彼の心中深くにおいて絶えることなく燻り続けていたのである。
 イワノフ一家が突如大連から姿を消してからというもの、まるで仕事が手につかなくなった石田の胸中で、それまで燻っていた思いが再び激しい焔となって燃え上がったのは当然のことであった。上海に行きたい……いや、なんとしても上海に行かなければならない!――老虎灘の小島の一件があってから半月と経たないうちに石田はそう決意を固めるよ
うになっていた。イワノフ一家の転居先も皆目わからぬ有様とあっては、上海に向かったからといってナーシャに再会できる保証などまるでなかった。だが、たとえ千分の一、万分の一の確率であったとしても、その僅かな確率に賭けてみるほうが何もしないでこのまま大連にいるよりはましであるようにも思われた。また、もしもナーシャとの再会が叶わなかったとしても、上海という国際都市のもつ独特の雰囲気に触れ、その文化の香りを吸収することがきればそれだけでも十分に心が満たされるのではないかという気さえした。
 自分の能力を高く評価しこれほどにまでに優遇してくれた支店長に辞職を申し出るのは、石田にとってさすがに辛いことではあったけれども、そのことを別にすれば他に障害になるようなことはなかったから、長年の夢だった上海行きを決行するにはまたとないチャンスだった。高級で優遇されていたため、既に彼には経済的にも十分な貯えができていたから、上海への渡航費に事欠くようなことはなかった。それどころか、上海に渡ってもしばらくは何もしなくても生活していけそうだったし、ことによったら、ちょっとした事業を起こすことだってけっしてできない相談ではなかった。
 秋風の吹き始めた九月半ばのある日、遂に意を決した石田は支店長に突然の辞意を申し出た。支店長はちょっと困惑し淋しそうな表情を見せはしたものの、そうなることをいくらかは予想していた感じだった。イワノフ一家がいなくなったあとの気の抜けたような石田の仕事振りを見ていて、支店長は彼の胸中にある程度察しがついていたらしかった。上海へ行くつもりなのかと支店長に問われた彼は、正直にそのつもりだと答えた。どんなに慰留されたとしても最早石田にはそれに応じるつもりはなかった。その断固たる決意のほどを察知した支店長は、しばしの沈黙のあと、永遠の弥勒の微笑みにも似た静かな笑みを浮かべながら「OK, Mr.Ishida……Good luck in your future!」とだけ短く言って石田の辞意を諒承した。
 まだ日米開戦までには一年ほどある時期のことではあったが、両国間の緊迫した政治情勢から推してその先どういう事態が起こるのかもう誰にも予想がつかなくなっていた。だから、ナショナル・シティ・バンクの支店長にしても、たとえ石田を引き留めたとしてもその将来を責任をもって保証することは難しいと考えざるをえなかったのだろう。ともかくも、こうして石田の上海行きは現実のものとなったのだった。旧制福岡高校在学中からこのかた上海へと渡ることを夢見ながら何度も挫折してやまなかった彼に、思わぬかたちで遂にそのチャンスが到来したわけだった。それはまさに運命の皮肉としか言いようのない成り行きであった。
 九月いっぱいで銀行を辞め直ちに上海へと向かうことにした石田は、大急ぎで身辺の整理にとりかかった。老虎灘で親交を深めた多くの友人や知人たちに上海へと移住することになった経緯を告げ、お別れのパーティを開いてお互いの将来の無事と繁栄を心から祈りあった。集まってきた友人や知人たちは、誰もが石田との別れを惜しんで心のこもった言葉をかけ、仲間の一人であるロシア人の奏でるバラライカの響きに合わせて別離の歌を唄ってくれた。
 香具師の男と一緒に青島から大連に渡り不慣れな仕事に手を染めた頃からすると信じられないほどの生活の変容振りだったが、その恵まれた生活を敢えて捨て、魔都とも呼ばれる上海にこれから彼は向かおうというわけだった。上海に知人など皆無だったし、それなりの貯えはあったにしてもその後の生計を立てる確実な当てが何かあるわけでもなかったから、全く不安がないと言えば嘘になった。冷静になって考えてみると、上海に行ったからといってナーシャと奇跡的に再会がなる可能性は万分の一どころか億分の一すらなさそうであった。
 だが、上海へのこの旅立ちを横浜の山下公園で行き倒れになった当時の有様や、天津で所持金を盗まれて途方に暮れ辛うじて青島に辿り着いた時の状況などに比べれば、両者の間に天国と地獄ほどの差があることだけは確かだった。石田は憧れの上海の様子にあれこれと想いめぐらせながら己の心を奮い立たせた。                            (つづく)



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