「マセマティック放浪記」 2003年6月18日
Mathematics Odyssey June 18, 2003
ある奇人の生涯 (21)
晴れて外国銀行員に!

 求人広告には「英語が堪能な日本人青年」とあったので、直接に英語による面接がおこなわれるのだろうとあらかじめ覚悟だけはしてきていた。だが、前日の電話で予防線を張っておいたのが効を奏し、相手側が一定の配慮をしてくれたものなのか、通訳つきの面接になったのは石田にとって幸いだった。それでも面接が始まるとすぐにあれこれと英語の知識や業務経験などを問われたりしたので、このぶんでは採用してもらうのはまず無理だろうなという悲観的な思いが胸中をよぎった。前日来のひとかたならぬ身心の緊張もそんな思いに拍車をかけた。
 いつもの姿からは想像もできないほどにがちがちになっていたそんな石田の心がほぐれたのは、ちょっとしたことがきっかけだった。面接してくれたアメリカ人の支店長が、話の中で突然「draft」という英語の意味がわかるかと尋ねてきたのである。その英語に心当たりのあった石田は、一瞬の間をおいたあとで、「それは船の喫水線を意味する言葉だと思います」という答を返した。しばらく貨物船に乗っていた関係で「draft」という言葉に「喫水線」という意味のあることを知っていたので、真っ先にそのことが閃いたのだった。
 通訳を介して彼の答えを聞いた支店長は、突然大きな笑い声をあげながら、「Why do you know such an odd thing ?」と問い返してきた。次の瞬間には、通訳の男もそばの行員たちも大爆笑におちいった。米国人にもあまり馴染みのないそんな特殊な事柄をなんで日本人の青年が知っているのかと、相手は不思議にも感じおかしくも思ったらしかった。支店長が尋ねたのは、おなじ「draft」でも、銀行取引で用いられる「為替手形」あるいは「小切手」という意味のほうだったのだ。
 石田の答えはピントはずれではあったけれども、結果的にはそのおかしなやりとりによって彼の気分はすっかり楽になった。そんな彼が次に尋ねられたのは「a bill of lading」という言葉の意味だったが、今度はすぐに、その英語は「船荷証券」のことを意味しているのだとわかった。いや、わかったもなにもない、貨物船で船荷証券を扱うタリーマンの仕事をやっていたのだから当然すぎる話ではあった。
 いくぶん調子づいた彼は、貨物船氷川丸に乗ってタリーマンの仕事をしていた経緯を支店長に伝え、「draft」という英語に「喫水線」という意味があることを知っていたのはそんな背景があったからだということも一通り説明した。もっとも、山下公園で行き倒れになったことが契機でタリーマンになったことや、塘沽港で氷川丸から脱走したことなどについてはまったく触れなかった。
 大連に流れてきたあと、大福餅や中華饅頭の製造販売に手を染めたり、一日だけチンドン屋をやって首になってしまったりしたことなどについても、むろん黙ったままだった。青島避難民団委員長推薦の「英語に堪能で有能」なはずの日本人青年が、たとえ一時期のことではあってもそんな仕事をやっていたというのも変な話ではあったので、伏せておくにこしたことはないと考えたからだった。調子に乗って下手にそんな話をしたりし、その話の流れなどから、青島避難民団委員長大川なる人物の存在やその人物による前日の推薦電話などの背景に話題が及び、挙げ句の果てにそれらのすべてが石田自身の自作自演であったとバレたりしたら、それこそも元も子もないことではあった。だから、どうあってもそんな最悪の展開だけは避けなければならなかった。
 幸い、アメリカ人の支店長は好男子の石田のことがすっかり気に入った様子だった。どうしてもこの銀行に採用してもらいたくて一芝居打ったことはともかく、彼のほうも、もしも運良く採用されたなら心底与えられた業務に勤しもうと決意を固めていたので、その熱意がそれなりに相手に伝わりもしたのだろう。また、瀋陽郊外の広大なコーリャン畑での一件以来、いくら強がってみても自分ひとりの力だけではこの世を生き抜いていくことなどできないと悟らされ、それまでになく謙虚な気持ちにもなっていたから、そのぶんよけいに好感をもたれたのかも知れなかった。

 幸運の女神はそんな石田を見捨てなかった。彼は無事その日の面接試験に合格し、支店長直々にさっそく翌日から出勤するようにと要請された。かくして彼は、大連の中心街、中央広場近くに位置する一流外国銀行 National City Bank of New York、別称、花旗銀行に晴れて勤務することになったのだった。行員のほとんどは外国人で、日本人の行員は石田のほかには数人しかいなかった。だから、彼が大芝居を演じたときにそれとは知らず電話の相手をしてくれた女性が誰であったかもすぐにわかったが、彼女のほうはまったくそのことに気がついていない様子だった。しばらくは聞き覚えのあるその声を耳にするたび内心ぎくりとさせられはしたが、やがて新たな職場の雰囲気にも馴染み、そんなことなどまったく気にする必要もなくなった。
 初任給は当時のお金で二十円ほどだった。彼は勤務しはじめるとすぐに、まずタイプライターの猛練習を始めた。その有様は、支店長以下の行員たちが驚き呆れるほどに凄まじいものであったらしい。タイプライターをごく短期間でマスターすると、彼は信用状の処理をはじめとする各種銀行業務の猛勉強にとりかかり、それらのイロハを驚くべきはやさで修得した。もちろん、英会話の修得や英語の書類を的確に捌くための訓練と学習も卒なくこなした。「自分の人生を振り返ってみても、あの銀行に勤めていた時ほど死に物狂いで勉強したことはありませんでした。とくに語学には能力のすべてを尽して取り組みましたねえ。英語だけでなく、フランス語やドイツ語、ロシア語などにも……」と晩年石田は回顧しているが、実際その通りであったのだろう。
 仕事に賭けるその熱意や実務能力の高さはすぐに支店長以下の上司の認めるところとなり、一ヶ月後には彼の給料は二倍の四十円になったというが、そのへんの対応はいかにも能力主義の外資系銀行らしいところだった。
 先任の日本人行員らは多少英語はできたものの、全般的な基礎学力のほか、日本語による文章表現能力や、高度な英文書類の事務処理能力ということになると、新人とはいえ、しっかりした高等教育を受けている彼のほうがずっと上であった。「英語に堪能で有能な日本人青年」を自ら演じてこの銀行に採用された石田ではあったが、もはやその看板に偽りはないと断言してよいほどにその能力は磨き高められていった。それはまさに「水を得た魚」という表現そのままの状況でもあった。
 さらにまた、日本軍部による中国北部地域の実質的な支配が強まる社会情勢のもとでは、欧米系の諸銀行といえども各種書類の多くを日本語によって処理しなければならない事態に迫られていた。必然の結果として、その業務を的確にこなせるのは行員のなかでも石田だけだということになり、彼の能力に対する評価は日毎にどんどんと高まっていった。そして、驚くべきことに、石田の給料は二年後の一九四〇年までに初任給の十倍にも及ぶ二百円という高額にまで達していた。
 当時の日本人としては大変な高給で、社会の要職にある五十代、六十代の人々でもよほど特別な地位にでもないかぎりそうそうは手にすることのできない高額給与だったのだが、若干二十二歳の青年が、思わぬことからそんな特別待遇を受けることになったのだった。すでに国家総動員令の公布されていた日本国内では、一九三九年に物価統制令が敷かれれ、労働者の賃金も現状維持のまま強制凍結されることになったから、能力のある人間がどんなに仕事に貢献しても給与が増えるなどということは考えられなかった。その点からしても石田の昇給ペースは異例をきわめるものであった。
 国家総動員令公布下における日本国民の厳しい生活状況がまるでよそごとのように、大連でナショナル・シティ・バンク勤めをはじめてからの石田の生活はそれまでになく充実し、まさに幸せそのものであった。あえて不満を探すとすれば、それ以前の仕事の場合とは違って、毎日きちんと背広を着用しネクタイをしめて出勤しなければならなかったため、少々窮屈に感じられることくらいであった。しかも、石田は、その一件に関してもいかにも彼らしい発想のもとに、うまく立ち回ることを企てたのだった。
「贅沢は敵」という政府主導のスローガンがすでに国民の間に浸透し、質素と倹約をモットーとする風潮が支配的になっていた日本社会では、カーキ色をしたシンプルなつくりの国民服が奨励されるようになっていた。国民に単一の行動を強いる軍国色が大嫌いなはずの石田が、なんとその国民服を着て出勤しはじめたのだった。日本国民はなるべく国民服を着用するようにという指示が日本政府から出されているから、自分もそれに従ったまでだという表向きの理由を、銀行の上司たちも認めざるをえなかった。だが、石田の本音は、手間のかかるうえに窮屈なスーツ姿で通すよりは身体の動きが自由で着るのも容易な国民服姿のほうが楽だというだけのことであった。まさに「逆転の発想」という言葉がぴったりの石田流戦略の勝利であった。
 彼が国民服姿で出勤しはじめると、他の先輩日本人行員らは、「なんともいい心がけだよね、石田さん。我々も見習わなきゃいけないよね」と口々にその行為を称えた。それに対して、アメリカ人やロシア人の行員らは、「石田さん、その服なかなか似合っているよねえ」と外見的な面からの評価下し、また、中国人行員らは、「石田さん、それいくらだったの?」と値段を尋ねてきたのだった。ただそれだけのことではあったけれども、日本人は精神面のことを重視し、アメリカ人やロシア人はルックスのことを中心に考え、中国人は経済的な側面から評価を試みようとするのが、彼にはなんとも面白く感じられてならなかった。                  (つづく)



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