「マセマティック放浪記」 2003年3月12日
Mathematics Odyssey March 12, 2003
ある奇人の生涯 (10)
荘厳なる海上のドラマ

 北海道と台湾の間を何度となく貨物船に乗って往復するうちに、いつしか季節も冬から春、そして春から夏へとうつりかわっていった。当初はずいぶんと船酔いに苦しめられていた石田もいまではすっかり船上での生活に慣れ、タリーマンの仕事をそつなくこなせるようになっていた。持ち前の能力を発揮しはじめた彼は船員仲間からも信頼されるようになり、なかでも中年のボースン(甲板長)などには、石田、石田となにかにつけて我が子のように可愛がられるようにもなった。航行中、かぎられた船内の空間しか動きまわれないことをべつにすれば、衣食住も保証されており、余計な出費もかからないとあって、それなりにお金の貯えもできたから、とくにこれという不満もおこらなかった。
 この年の七月に北京郊外で発生した盧溝橋事件をきっかけに、事実上の日中戦争、「日華事変」が勃発したのだが、氷川丸の船員たちにまではまだその余波は及んでいなかった。軍部が主導する政府の方針に煽動され、国内では中国への侵攻を支持する世論が高まりはじめていたが、すくなくとも小樽と台湾間の貨物輸送にあたる氷川丸の運行にはなお直接的な影響はあらわれていなかった。
 ラジオのニュースや入港時に見る新聞の報道などで事変の急速な進展をある程度把握はしていたものの、船上での新たな生活にいそしむ石田には、その非常事態もどこか遠い世界の出来事であるかのように感じられてならなかった。もともと軍部というものの体質が大嫌いだった彼は、中国侵攻を支持する新聞やラジオの論調や、それを後押しするかのような世論の沸騰を苦々しくも思っていたから、意識的に無関心を装おうようにしてもいた。
 現在では台湾随一の工業都市になっている高雄(カオシュン)にも時々氷川丸は入港した。高雄は昔から知られた台湾南西部の港湾都市で、幅一キロ、長さ九キロほどにわたって発達した砂洲からなる旗津半島が天然の防波堤となって、基隆と並ぶ一大良港が形成されていた。市街の中心を情緒豊かな仁愛河などが流れ、市内から十数キロ離れたところに蓮花潭(リエンホワタン)という美しい淡水湖などもあるこの高雄が石田はとても気に入った。伝統ある道教寺院の三鳳宮(サンファンゴン)なども、はじめてその地を踏む者の目にはずいぶんと珍しく興味深いものに思われた。
 日本にくらべ気温はずっと高かったけれども、雨模様の日がほとんどの基隆と違って天候に恵まれることもすくなくなかったので、寄港時の仕事の合間などには、運動不足の解消をかねて極力散歩に出かけたりもした。歴史的な意味でのその正当性はともかく、当時は日本による徹底した統治がなされており、また日中戦争の勃発している中国本土からは遠く離れていたこともあって、高雄一帯はなおどこかのどかな雰囲気に包まれていた。太平洋戦争に突入すると、平和に見えたこの高雄も南方戦線の中継基地として戦乱の大渦に巻き込まれていくことになったのだが、のちのち起こるそんな世界の大激動などまだ誰も予想することなどできなかった。
 小樽と基隆、あるいは小樽と高雄間を往復する船上から目にする折々の風景も、タリーマンに転身した石田の心を十分に慰めてくれた。氷川丸に初乗船したのは真冬のことで荒れ模様の日もすくなくなかったが、季節がうつるにつれて快適な航海に恵まれるようにもなった。横浜港から小樽港まで時化(しけ)のなかを初航海したとき、その船の船長から、「海が凪いでいて、すばらしい朝日や夕陽、素敵な星空などが見られることだってありますよ」と言われたが、その言葉に偽りはなかった。広大な海は息をのむような自然のドラマに満ちみちており、実際その有様は石田の想像をはるかに超えるものであった。
 石田がまず驚いたのは、海洋にみる生命の豊かさだった。海がひどく荒れているときでさえも、陸地から遠く離れた海の上では大小の海鳥たちが頻繁に活動を繰り広げていた。それらの海鳥たちのけなげな姿を眺めているうちに、それぞれの厳しい環境に適応して生きるこの地球上の命というものいとおしさにあらためて想いが及んだ。
 ――荒海をものともしないそれらの海鳥たちだって、あの小ぶりな体で大嵐や厳寒に耐えながら生き抜くのは、けっして容易なことではないだろう。人間をはじめとする陸上の生き物たちがやがては土へと還っていくように、一生を終えた海鳥たちのほとんどは海へと還っていくに違いない。地上で息絶えるものもあるのだろうが、たぶん大多数の海鳥たちは海上に屍(かばね)を浮かべ、やがて磯辺に打ち寄せられて朽ち果てたり海中に没したりしていくのだろう――それまで海鳥の末期など考えたこともなかった彼の脳裏をそんな想いがよぎったりするのも、船上生活という特殊な環境に身をおくようになったからこそであった。ある日ついに海上で力尽き、だた一羽息絶えた姿をさびしく波間にゆだねるであろう海鳥の運命を想うとき、懸命にいまを生き抜くその有様がいっそうけなげに、しかしまたこのうえなく切なく感じられもするのであった。
 鯨やイルカの群にも航海中に何度となく遭遇した。あるときは悠然と、またあるときは驚くほど敏捷(びんしょう)にと、状況に応じて自由自在に水中を泳ぎまわるそれら海の哺乳類たちの姿にみとれることもすくなくなかった。飛魚の大群のただなかを航行することもあったが、そんなときには、誤ってデッキの上に墜落した獲物が食卓にのるという望外の僥倖(ぎょうこう)に恵まれたりもした。基隆港や高雄港で碇泊中の氷川丸の船側に寄って来る熱帯系のカラフルな魚たちの姿も石田の目を楽しませてくれた。彼はそれまで釣りというものをまったくやったことがなかったが、船員仲間に教わって舷側から釣り糸を垂れると、海神様の特別サービスででもあったのか、次々に魚のほうから勝手に釣り針に掛かってくれもした。ただ、ビギナーズ・ラックも度を超えると有難迷惑なもので、たまには正体不明のグロテスクな生き物が掛かったりして腰を抜かしそうになり、その事後処置に窮するようなこともあった。
 海の生き物たちの演じる命のドラマも素晴らしいものであったが、船上で眺める大空の景観もまた感動的なものであった。好天の日に海上から眺める朝日や夕日の幻想的な美しさにに石田は何度も息を呑んだものだった。水平線から昇り水平線へ沈んでいく太陽というものを、彼は船に乗るようになってはじめて目にすることができた。なかでも、西空や西の海面全体を真っ赤に染めながら東シナ海の水平線の向こうに沈んでいく夕日を目にすると、胸の奥が知らずしらずのうちに熱くなりもした。かなしいまでに美しく荘厳なその輝きは、壮大なロマンをその胸中に深々と刻み込んでいった。赤々と燃えさかる西方の水平線のはるか彼方で、何ものかが自分の魂を呼び誘っているような気がしてならなかったけれども、いったいそれがなんであるのか彼にはまだはっきりとわかってはいなかった。
 日没後しばらくして西の空を彩る黄緑色の黄道光の輝きも神秘的だった。満月のときなどはそれに合わせるようにして東の水平線から大きな月が昇ってきた。低い角度で射し込む月光を浴びて海面には黄色い帯状の輝きが走り、無数の波頭がきらきらと揺れ躍った。そして月が高く昇ると、こんどはゆるやかにうねる海面全体が見る者の魂を吸い込むような青白い光を放ちはじめるのだった。
 また、月の出ない夜は夜で、一つひとつ丁寧に磨き上げたよいうな星々が天空いっぱいに満ち渡り、無数の蛍を想わせるような明滅を見上げる空のいたるところで繰り広げた。
そして時々、明るい流れ星が長い尾を曳いて遮るもののない大空を我がもの顔に横切った。舷側に目を転じると、まるで夜空の星々の瞬きに呼応でもするかのように、舳先で切り分けられた海水のあちこちが青緑色の光を放って煌き揺れてもいた。海の蛍、夜光虫の見せる神秘的な輝きだった。
 晴天の下での航海が何日もつづくときなどは、北海道から台湾へと南下するにつれて北斗七星の高度がだんだんと低くなり、逆に北上するにつれその高度がしだいに増していくのが印象的だった。星の知識などほとんど持ち合わせてはいない石田だったが、北の空に舞う北斗七星や夏季南天高くにかかる蠍座くらいは、見分けがついた。

 石田が氷川丸に乗るようになってから一年が過ぎた。初乗船の頃に船酔いで苦しんだことなどとても信じられないほどに彼はすっかり海上での生活に順応していた。タリーマンの仕事も十分に板につき、すこしばかりは給料も上がって、母親や妹たちのために定期的に仕送りをすることができるようにもなった。そんなわけだから、表向きはすべてが順調に進んでいるように思われた。いや、順調というよりはむしろ単調という表現を使ったほうがよいくらいに、たんたんと時間は流れていった。
 だが、このときすでに見えないところでは確実に変化が生じはじめていたのである。軍部による徹底した情報管理のために、一般国民はまだ中国本土で拡大しつつある戦乱について詳しいことを知らされてはいなかった。ドイツのトラウトマン駐華大使の懸命な仲介に蒋介石以下の国民政府府首脳も和平交渉再開に応じる気配を見せはしたが、日本軍による南京攻略を境にして、近衛首相の率いる日本政府内強硬派の戦線拡大方針にはもはや歯止めが掛からなくなっていた。
 国民政府など無視して中国侵攻を進めるべきだとする近衛首相ら強硬派と、対ソ戦に備えて国民政府と早期に和解しておくべきだとする陸軍参謀本部との対立は、結局、政府強硬派の押し切るところとなってしまった。そして、昭和十三年(一九三八年)一月におこなわれた「爾後国民政府を相手にせず」という近衛首相の宣言によって、両国間の和平交渉は打ち切られるに至ってしまった。全面降伏をしないかぎり蒋介石政府とはいっさい交渉はしないという日本政府のこの強硬姿勢によって、日中戦争は長期戦に入り泥沼化していくことになったのだった。
 当然その戦乱の余波は中国本土のみにとどまらず、日本国内やその関係地域すべてにまで及ぶところとなっていった。そして、北海道と台湾とを結ぶ貨物船氷川丸にも思わぬかたちでその影響があらわれることになった。波瀾多き星のもとに生まれついた石田達夫という当時二十二歳の青年の運命にとってそれがどのような意味をもつことになるのかは、むろんわかろうはずもないことだった。


                                          絵・渡辺 淳

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