「マセマティック放浪記」 2002年12月4日
Mathematics Odyssey December 4, 2002
好事魔多し、
されど悪運もまた強し!

澄みきった晩秋の青空の下、中央高速道をひたすら西へと疾走する私の気分は晴れやかだった。府中から八王子、相模湖、大月と経て甲府盆地へと向かう間、ときおり車窓左手に姿を見せる富士は新雪を戴いて純白に輝き、なんとも神々しいばかりではあった。勝沼を過ぎ甲府盆地に入ると、前方に南アルプス連峰の白く鋭い稜線がくっきりと浮かび上がり、右手には連綿とつらなる秩父連峰の山並みが誇らかにその偉容をあらわしはじめた。

大気の澄んだ晩秋といえども、これほどにはっきりと遠くの山々を眺めることができるのはめずらしい。左手に白鳳三山や甲斐駒ケ岳の切り立つ峰々を、右手にはどこかしら女性的な感じのする八ヶ岳を仰ぎ見ながら小淵沢を通過すると、諏訪湖方面にむかっていちだんとアクセルを踏み込んだ。茅野市付近までくだると、さきほどとは違い八ヶ岳連峰を西側から望むことができるようになったが、こちらから目にする峰々はすでに眩いばかりの白一色の姿に変貌を遂げていた。うっすらと雪化粧をした霧ヶ峰高原一帯のゆるやかな稜線も実にのびやかで、この日ばかりはその名と違って霧にも無縁のようであった。諏訪盆地をはさんで聳える高ボッチ山の向こうでは、乗鞍、穂高、槍と続く北アルプス連峰の山々が、俺たちこそが山岳風景の真打だと言わんばかりに峻険なその山容を誇示していた。

諏訪か岡谷のインターチェンジで高速道をおり、そのまますぐに高ボッチ山に上がれば三百六十度の山岳パノラマを楽しむことができるのはわかっていたが、この日ばかりはそうするわけにもいかなかった。我が愛車の後部には過日東京で催された渡辺淳画伯の個展出展作品二十数点が積まれていたからである。それら大切な絵画を若狭まで運び、無事に返却するのがこの日の私の責務であった。長年にわたる付き合いのよしみもあって、あまり大掛かりな搬送作業を必要としない場合などには、渡辺さんの絵画を直接に預かって遠くまで運んだりすることがある。この日もたまたまこそんな役目を引き受けて車を走らせているところだった。

ノンストップで諏訪を通過し伊那谷に入ると、再び左手に白く連なる南アルプス連峰が姿を見せた。仙丈ケ岳、北岳、間の岳、農鳥岳、赤石岳、荒沢岳など標高三千メートルを超す高峰が連なり並んで聳え立ち、覇を競い合う有様はいつ見ても壮観の一語に尽きる。駒ヶ根周辺に差しかかると、今度はすぐ左手に中央アルプスの盟主木曽駒ケ岳の大きな山影が迫ってきた。鋭く天を指す宝剣の頭や、夏場には高山植物の咲き匂うその直下の千畳敷カール一帯は雪に覆われて白銀に輝き、はや真冬の厳しいたたずまいへと変貌を遂げていた。

次々と車窓を流れゆく美しい山岳風景にみとれながら私は快調にハンドルをさばき、気持ちよくアクセルを踏み続けた。「好事魔多し」とはいうものの、その時まで何もかもが順調そのものだったのだから、何事かが起こりかけているなど神ならぬ身に知りようのあろうはずもなかった。

阿智パーキングエリアを過ぎ次第に恵那トンネルが近づきはじめた頃だったと思う、突然、パシンと何かが弾け飛ぶような音がした。一瞬あれっとは思ったが、路面上の小さな異物か何かが跳ね飛んでボディにぶつかった感じだったので、さして気にもせずそのまま速度を落とすことなく走行し続けた。それからほどなく車は全長八・六キロメートルの恵那トンネルへと突入した。ウイークデイということもあってか走行車はすくなく、トンネル内の車の流れもスムーズだったので、前方をゆく車の尾灯を追いかけながら私は気持ちよくアクセルを踏み込んだ。

このときにすでに異常を知らせる警告灯が点っていたのかもしれないが、長いトンネルの中にあって前方を注意深く睨み、百メートルほど先を走るワゴンの赤いテールランプに視線を集中していたこともあって、不覚にもそのことにはまるで気がつかなかった。たとえ警告灯の点灯に気づいたとしても、とりあえず車は百キロを超える速度で快調に走っていたので、即座には何が起こったのか判断がつかなかったに違いない。また、急遽車を止めたとしても、場所が場所だっただけに追突される危険性もあり、事後処理をふくめて事態は深刻かつ面倒このうえない展開になっていたことだろう。それに、その時点ではまだ知らずにいたが、止めようにも車のほうががすぐには止まってくれなかったろうから、前方の車が渋滞か何かで急に速度を落としていたら追突は避けられなかったに違いない。

何の異変にも気づかぬままに恵那トンネルを走り抜けた私は、その直後に、左右に大きくカーブしながら中津川方面へと下る急坂に差しかかった。下り坂ということもあって、時速百二十キロほどのスピードだ出ていたのではないかと思う。大きなカーブの手前で前方を行く車が速度を落としたので、それに合わせてこちらもブレーキを踏んだ。ところがなんと、ブレーキがまるで作動しないのだ!――いくら強く踏んでみてもブレーキペダルはピクリともしないのだった。あっというまに迫ってきた分離帯のガードレールを眼前にして、私の身体は硬直し、瞬時に背筋が凍りついた。

しかし、この人生、何が幸いするかわからない。昔、知人にプロのカーレーサーがいて、私は彼から遊び半分で走行速度を落とさずにカーブを曲がるテクニックを教わったことがあった。ハンドルを左右に小刻みに振りながら、ブレーキを踏むかわりにアクセルをほどよく踏み込んで、遠心力と求心力のバランスを利用しながらカーブを曲がりきるのである。F1のレーサーたちがやっているあのハンドルさばきを思い浮かべてもらえばよいだろう。意外に思われるかもしれないが、ハンドルを左右に小刻みに振りながらアクセルを踏んで加速すると車が安定しうまくカーブを曲がることができるのだ。

知人にそのテクニックを教わったあと実際に何度も体験し、そのコツだけは呑み込んでいたおかげで、運よくも咄嗟に身体が反応した。激しく小刻みにハンドルを振りながら思い切ってアクセルを踏み込むと、ガードレールに激突する寸前でなんとかそのカーブを曲がりきることができたのだった。カーブを曲がり終えた直後に四、五メートルの距離まで前方の車に接近したが、そこですぐさまギヤを落としエンジンブレーキをきかせたので追突のほうもぜずにすんだ。高速でのカーブ走行のテクニックを教わっていなかったら、いまごろ渡辺画伯の絵画ともどもグシャグシャになっていたかもしれない。

すぐさまハザードランプを点滅させ、エンジンブレーキとサイドブレーキを併用しながら路肩よりのところを時速五十キロほどで走行した。警告灯が全部点灯した状態になっているに気がついたのはそのときだった。ブレーキオイル系統のパイプか何かが破裂したのかもしれないと思ったが、とりあえず車は動くので、最寄の恵那サービスエリアまでそのままなんとか走行してみることにした。あとで判明した状況からすると、途中でエンジンがオーバーヒートしてもおかしくない状態だったのだが、たまたま大気温が低かったことなども幸いしたようだ。途中の中津川のインターチェンジでおりようかとも考えたのだが、ブレーキのきかない状態で料金徴収ゲートまでくだり、一般道に出てから対応処置をとろうとするとかえって面倒なことになりそうだったので、そのまま二十キロほどを慎重に走りなんとか恵那谷サービスエリアへとたどりついた。

早速にエンジンルームを開けてみると、なんとVベルトの一本がバラバラになってしまっていた。定期点検はしっかりやっているのだが、何かの原因でVベルトが突然切断されてしまったものらしい。恵那トンネルに入る手前でパシンという音がしたのは、そのベルトが切断したからだったのだ。Vベルトが切れると冷却ファンが止まってエンジンが過熱するばかりでなく、フットブレーキを作動させる油圧ポンプも動かなってしまうから、突然にブレーキがきかなくなったのも当然のことではあった。それにしても、Vベルトが切れてから高速走行で恵那トンネルに入り、トンネル内を高速で通過し、ブレーキの異常に気づいてからも時速六十キロほどで二十キロ近く離れた恵那谷サービスエリアまで走ったというのに、エンジンがオーバーヒートしなかったこの悪運の強さには我ながら驚いた次第だった。

恵那サービスエリアのガソリンスタンドでは修理不可能だというので、JAFに連絡をとり、車輛ごと台車に載せて恵那市内の岐阜トヨタのサービス工場まで運搬してもらい、そこで修理をしてもらうことになった。ことによったら恵那市で一泊しなければならないかと覚悟もしたのだが、幸い三時間ほどあれば交換用ファンベルトを取り寄せることができるということだったので、サービスルームで本を読んだり付近をうろついたりして四時間ほどを過ごし、無事に修理が終わるのを待った。

すでに十七万キロを走破した我が愛車は、かくしてまた故障から四時間後に奇跡の復活を遂げたのだった。若狭大飯町の渡辺画伯のアトリエ山椒庵に到着したのは午後九時頃になってしまったが、ともかくも貴重な作品を返却するという大任を果たすこともできたし、私自身もなんとか無事ですんだ。車で全国を走り回っていることもあって、正直なところ、あわやという目に遭ったのはこれが一度や二度ではない。ほかにも過去何度か信じられないような体験をしているが、これまでのところなんとか無事に生き延びてきてはいる。

いまはすっかりリラックスした気分になり、山椒庵の暖かいコタツのなかでこの原稿を書いている。私の背後には完成間近な二百四十号の大作「谷の村」の大キャンバスが据えられていて、画面いっぱいに描かれた画伯ゆかりの青く深い山々が、キーボードを叩く私の姿を無言のまま見下ろしている。この日東京府中の自宅を出て若狭のこのアトリエに至るまでの状況にちょっとでも狂いが生じていたら、私はこの画伯の大作と対面することはなかったかもしれない。つくづく人間の運命というものは不可思議なものであると思う。運が良いのか悪いのかはよくわからないが、かくしてまた私は性懲りもなく気まぐれな旅路に身を委ね、周囲の迷惑もかえりみずにこの放浪記をなお綴り続けることになったのだった。



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