「マセマティック放浪記」 2002年11月13日
Mathematics Odyssey November 13, 2002
伊藤廣利先生の想い出

  十数年前のある晩秋の日のことだったようにおもう。新宿紀伊国屋四階の画廊にふらっと立寄った私は、このうえなく温もりのある、それでいてしかも内に底知れぬ存在感を秘めた不思議な鍛金作品群に遭遇した。古代の倉か宝蔵を偲ばせる大作などは、それが鉄で造られたものだとは信じられないほどにやわらかく穏やかな輝きを放っていた。会場の一隅にはそれらの作品の制作者とおぼしきがっしりとした体躯の中年男性がすわっていて、一瞬視線が合うと、眼鏡の奥の双瞳が何かを語りかけでもするかのようにきらりと光った。鋭いけれども人の心を優しく温かく包みこむ、なんとも不思議な輝きに満ちた瞳だった。
  その日はなぜか客足が少なく、そのとき個展会場にいたのはたまたま我々二人だけだっだ。鉄や銅といった金属を素材にした場合でも、これほどに美しくやわらかな色調やラインをもつ作品を生み出せるものなのかと感嘆しながら、私は会場に並ぶ大小様々なオブジェを一つひとつ丁寧に見てまわった。私のような行きずりの、しかもその世界にはまるで無縁な人間の目と心をそれほどまでに惹きつけて離さないということは、裏を返せばそれらの作品がいかに素晴らしいものであったかということの証でもあった。
  私が作品を一通り鑑賞し終えるのをみはからって、その制作者とおぼしき人物は、「よかったらどうぞ……」と言いながら一杯のお茶をすすめてくれた。こちらもその人物の心からのすすめを遠慮なく受け入れることにした。「鍛金」という言葉そのものからして初耳に等しかった私は、無知ならではの厚かましさをいいことに、実はたいへんな方でもあったこの人物にあれこれと初歩的な質問を浴びせかけた。
  すると相手は、こちらの愚問にも嫌な顔ひとつせず丁寧に答えてくれたのである。アールと呼ばれる特殊な鉄製工具などを用いて美しく滑らかな曲面を打ち出す工程などについても、あれこれと詳しい説明をしてもらうことができた。その独特の言葉の響きには、一芸に通じた人ならではの力強さと確信の深さが窺われた。それもそのはず、その人物とは、我が国屈指の鍛金作家として高名な伊藤廣利東京芸術大学教授(当時助教授)だったのだ。それは、までまるで異なる世界を生きてきたわたしたち二人のなんとも奇妙な、しかしどこかしら運命の糸の存在の感じられなくもない出逢いではあった。

  ほどなく私は先生からお手製の桐箱入り銀のぐい呑みを頂戴し、そのお礼にとこちらも自著を二、三冊進呈した。もともと下戸の身であったうえに、そうでなくても普段に使うには畏れ多い貴重な作品だと思った私は、その銀のぐい呑みを大切に仕舞い込んだが、伊藤先生のほうは拙著にじっくりと目を通してくださったようである。それが契機となって、時々私は客員講師として芸大大学院の美術教育研究科に出向き、認知科学や科学哲学、コンピュータサイエンス関係の諸問題をテーマにささやかな講義などをするようになった。ただ、当初から同じ内容の講義はしないという私なりの方針を貫き通したこともあって、のちには講義内容が表現論や教育論、さらには文学論にまで広がっていく有様となった。
  美術の世界にはまったく無縁であった私が、芸大という日本の芸術教育の中核に位置する大学に関わりをもつことができたのは、ひとえに伊藤先生のおかげである。傑出した鍛金作家であったばかりでなく、たいへん優れた教育者でもあられた先生の真摯な教育理念に共感し、微力な身ながらもできるかぎりの協力はさせていただこうと決意した私は、集中講義という特殊な条件下ではあったけれども、おのれの能力のかぎりを尽して誠心誠意講義をおこなおうと考えた。美術教育研究科の主任教授でもあった伊藤先生はそんな拙い私の講義を院生たちと一緒に毎回聴講してくださったものである。本来の専門分野の講義を通じて関わっていたそれまでの大学とはあらゆる点で異なる芸大での講義経験は、私にとってもたいへん貴重なものとなった。
  紀伊国屋での出逢いから二年ほど経ってからのことだったとおもうが、私は折々埼玉県狭山市にある工房にお邪魔し、伊藤先生の独創的なお仕事のひとつであった木目金(もくめがね)の作品制作工程などをつぶさに拝見したりするようになった。また先生直々のお勧めなどもあって、ある時からは初歩的な鍛金作品造りに挑戦するようにもなった。まったくの素人の身がその道の大先生の工房の真中を占領し、手取り足取りの指導のもとで銀杯造りをしたわけだから、なんとも呆れ果てた話ではある。
  きわめつけは、半ば戯れで私が朝日新聞社から依頼された社内テニス大会用の大銀杯造りであった。私はひと夏狭山の工房に通い詰めて先生の懇切なご指導を賜わりながら立派な大銀杯を完成させた。その舞台裏の事情を告白しておくと、表向きは私の作でも半分くらいは伊藤先生の手になるものだったから、完成した大銀杯が見事な出来栄えであることは当然のことだった。この大銀杯騒動に関してはAICの穴吹史士キャスターが一枚かんでもいたことなので、時間のある方は私のバックナンバー<純銀大杯版「藪の中」1999年8月4日付け>を参照していただきたい。
  なんとも残念なことに、伊藤廣利芸大教授はいまから四年前の平成十年十二月、通勤途中の電車においてクモ膜下出血で倒れ、そのまま意識を回復することもなく他界された。当時先生は文部省の教育カリキュラム改変等にともなう美術工芸教科関係の代表委員を務めておられたが、一部には美術工芸教科不要論のような極論さえもあるなかで、文部省の役人や他教科の関係委員たち相手の不慣れな折衝や対応にずいぶんとご苦労なさっている様子だった。学内外にわたる過度な公務に端を発する極度のストレスや過労も急逝の原因のひとつかと推察されるだけに、いまもなお甚だ心残りでならない。
  他界なさる一ヶ月ほど前に工房にお伺いしたときのこと、先生は、「大学を退官し、いまのこの忙しさから解放されたら故郷の今治に戻ってアトリエを構え、心底楽しみながら自然体で素材と向き合い、よい作品を造りたいんですよ。いまはその日が一日も早く到来してくれることを心待ちにしているんです。その時は四国に来て、先生も作品造りに興じてください」という言葉をさりげなく漏らされもした。たぶんそれは先生の偽らぬ心境であったに違いない。だから、あまりにも突然の伊藤先生のご逝去は、私にとって唯々衝撃の一語に尽きた。
  現在、その伊藤先生の遺作展「鍛金・伊藤廣利の世界」が上野の東京芸術大学美術館陳列館で開催されている。同展は今月二十四日までの予定で、入場料は無料となっている。先生は平成天皇即位の儀式に必要な金銀製用具の制作にも携わられた。また木目金(もくめがね)の作品制作技術をはじめとするその独創的な金工技術は海外においても高く評価されていた。会場には先生の生涯にわたる代表作八十点ほどが展示されているので、この機会に一人でも多くの方々にその見事な作品群を御覧いただきたいものだとおもう。やわらかなラインや曲面を主体とした晩年の作品も素晴らしいが、古代神話をテーマにした若い時代の鬼気迫る作品なども実に感動的である。いまは亡き伊藤先生の功績を称え、そのご遺志を後世に承け継ぐ意味でも、この遺作展が盛況をきわめることを心から願ってやまない次第である。
                平成十四年十一月十三日



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