「マセマティック放浪記」 1999年3月10日
Mathematics Odyssey March 10, 1999
民俗文化の残る手打集落  

  翌朝は快晴だった。朝の明るい光を浴びて、手打の浜全体が眩いばかりに輝いている。南から深く入り込んだ手打湾の奥にあるこの砂浜は、甑島でもっとも広く美しい。珊瑚質と石英質の砂からなるこの浜辺は海水浴には絶好だが、秋の朝とあってさすがに人影は見当たらない。渚に寄せる波は静かで、水は青く澄みわたっている。渚に沿って歩いていると、艶やかな色をした大小の珍しい貝殻が次々に目にとまった。このあたりの人にとっては何でもない風景だが、都会人なら大喜びするに違いない。
  梅雨が明ける頃になると、この砂浜には産卵期を迎えた海亀が卵を生みにやってくる。それから二カ月ほどもすると、卵から孵った小さな海亀の子どもたちが続々と海へ戻っていく。遠浅の渚付近の砂地にはハマグリ、アサリ、マテガイなどが生息しているから、大潮のときなどには潮干狩りを楽しめる。懐かしい昔ながらの地引き網がおこなわれこともある。南西方向の水平線に目をやると、宇治群島のものかと思われる小さな島影がかすかに見えたた。下甑島周辺から宇治群島にかけては、かつて宝飾用赤珊瑚の産地としても知られていたが、全国各地から採取船が押し寄せたこともあって、昭和十年代頃までに資源はすっかり枯渇した。
  もちろん、この一帯は海釣りの好適地で、大物釣りを狙う釣り人たちの間では甑島の地名はそれなりに知られている。かつて西田敏行主演の「釣りバカ日誌」の舞台になったことなどもあって、海岸沿いの道路の一角にその番組の撮影を記念した表示板が設けられていた。主演者の大きな顔入りの記念表示板を立て、ここがテレビにも登場した場所だぞとアピールしたい手打の人々の気持ちはわかるけれど、島外からやってくるほんとうに旅好きな人間には、いささか目障りにもうつるのではないかと心配になった。
  車中で簡単な朝食を済ませてから、手打の集落の西端にある手打港に出向くと、ちょうどフェリー「こしき」が出港していくところだった。私たちが手打港にやってきたのは、観光遊覧船「おとひめ」に試乗したいと思ったからだった。里村の水中展望船「きんしゅう」や上甑村の観光遊覧船「かのこ」に乗って、里集落沖合の無人島群周辺の海中を泳ぐ魚を観察したり、中甑島や下甑島北部の西海岸の美しさを楽しみたいとは思ったが、いろいろな拘束などがあって、結局どちらの船にも乗ることができなかった。そんなわけで、なんとしても手打港から出ている観光遊覧船「おとひめ」にだけは乗船し、豪壮で変化に富んだ下甑島西海岸の断崖美を堪能したいと考えたわけである。
  だが、なんということだろう、乗船案内所を訪ねてみると、「おとひめ」はすでに運行期間終了となっているではないか。天気もよいし海も静かだから、海上を走るのはさぞかし気持ちがいいだろうと期待していただけに、今度ばかりはさすがにがっかりせざるを得なかった。甘いデートを長年夢見た「おとひめ」様に、想いを遂げる寸前であっけなく振られてしまった感じだった。
  おそらくは、「きんしゅう」、「かのこ」、「おとひめ」のどの観光船も、五月頃から九月半ば頃までの夏期をのぞいてはお客が少なく、開店休業状態なのだろう。もったいない話である。甑島の春は早く、秋は遅い。三〜四月の早春期や十一月〜十二月の晩秋から初冬の頃は、島の気候がこのうえなく穏やかで、しかもその自然がもっとものびやかな姿を見せる時節である。初夏の風物である鹿の子百合やウミネコ、海亀などの姿こそ見ることはできないが、この時期にはこの時期なりの味と楽しみ方がある。島の夏場は確かに勇壮ではあるが、南国だけに暑さのほうも相当厳しい。だから、サマー・キャンプやマリン・レジャーが直接の目的ではなく、ほどよい気候のもとで美しい景観をじっくりと楽しもうという中高年の旅人や、都会の喧騒を忘れ大自然の中で深く静かな想いに身を委ねたいという人々には、早春や晩秋がベストシーズンだと言える。
  だが、現実には、初夏から初秋にかけての季節以外に観光目的でこの島を訪れる人はきわめて少ない。昔ながらの釣り客や雉・鴨などの狩猟客はそれなりにあるのだろうが、そういった人々の数は限られている。したがって、夏期以外の季節の風物、なかでも早春や晩秋の自然の恵みを民俗文化と絡めて広くアピールすることこそ島内活性化の鍵なのだが、いまのところそのような動きはほとんどない。そもそも、甑島の人々の多くは、そのような風物やさりげない日常的な民俗文化の秘める価値に、本当の意味では気がついていないような気がしてならない。

  古くからの港である手打港の近くには、島津藩政時代、甑島の三カ所に置かれていたという津口番所の一つがあったが、その番所跡がいまも史跡として残っている。津口番所とは、異国船をはじめとする様々な船の出入りを監視し、取り締まるための役所だった。東支那海の海上交通の要所であった甑島の周辺には、交易その他の目的で海上を航行する異国船の影が絶えなかった。島津藩が甑島を直轄領にし、移地頭を配したのも、それら異国船の不意の来島に備えるとともに、藩自らの密貿易の便宜をはかるためであった。もっとも、番所の対応能力を超えて横行する様々な異国船の取り締まりには、役人たちも想像以上に苦労したようである。承応四年(一六五五年)第五代移地頭比島監物が藩に送った上申書書の内容などは、その意味でもなかなかに興味深い。同書には次のようなことなどが記されている。
一、 異国船着岸の際の番船として六端帆(六枚帆または六反帆のことか?)と四枚帆の船を一艘ずつ置いてあるが、二艘とも古くなり、警護衆を乗せて長崎まで行くことが困難なので、御船手(藩船の管理役人)に命じて船を新造してもらいたい。
二、 唐船来着のとき、出費も多かったが、甑島には御公儀方の米もないので善処してもらいたい。
三、 唐船の曳舟となる小舟が百艘あまりいたが、現在では五・六十艘となり、この冬に唐船三艘が来島したときなどは島中が大変難儀(苦労)をしたので、小舟なりとも早く建造するようにしてもらいたい。
四、 異国船が来たとき、上甑、下甑の両島にはこれに対応できるものがいないので、一・二名ほどその能力をもつものを派遣してほしい。
   (以上、塩田甚志著「甑島・その風貌と歴史」より引用、補足加筆)

  津口番所跡にちょっとだけ立ち寄ってから、私たちは武家屋敷通りを訪ねてみた。甑島の武家屋敷跡はこの下甑村手打と上甑島の里村とに残っているが、過疎化もあって里村のものは現在では石垣の列をとどめる程度で、昔日の面影はほとんどない。その点、手打の武家屋敷跡のほうは、いまもなお往時の雰囲気を留めていて、実によい感じである。なにかしら特別な景観保全の施策でもとられてきているのだろうか。
  甑島の武家屋敷は、薩摩半島の知覧などのものと同様に、屋敷の四方をしっかりした人の背丈ほどの石垣で囲み、その石垣の上に密生度の高い生け垣を配した構造になっていた。そして、石垣のすぐ内側の屋敷内には椿、槙、蘇鉄、栴檀(せんだん)、梅、柿、杏(あんず)、文旦、枇杷、梔子(くちなし)、樟(くす)、白樫、アコウ、タブといった樹木が生い茂り、ちょっとした屋敷林を形成していたものだ。昔の家屋のほとんどは入り母屋造りの木造平屋だった。屋敷を囲む石垣や樹木によって、夏季から秋季にかけて九州西岸一帯を襲う猛烈な台風から家屋本体が守られていたわけである。一対の柘植(つげ)や槙などが門口に植えられている屋敷も多かった。
  静かな通りを左右からはさむようにして続く石垣と生け垣の連なりは、なかなか見事なものだった。石垣を固め覆うように這う蔓草や、個々の屋敷内に茂る樹木も星霜の流れを感じさせるに十分だった。古木の立ち並ぶ有様や石垣の石積みの具合などを眺めながら、ゆっくりとその通りを歩くうちに、私の脳裏には子どもの頃の懐かしい光景が甦ってきた。
  私が育った里村の屋敷もこれと同様の石垣や古い樹木に囲まれていて、メジロやウグイス、ヒヨドリ、モズなどがひっきりなしにやってきた。軒先の屋根瓦の下にはかなりの数のスズメの巣があって、繁殖期にはチュンチュンと賑やかだったものである。いまなら野鳥の会などからすぐにも大目玉を食らいそうだが、自分で竹製の落とし籠(小さな鳥を捕獲する仕掛け)を作り、メジロなどを捕えて飼ったりしていた。落としには、たまにだがウグイスやモズ、ヒヨドリなどがかかることもあった。どういうわけか、スズメだけはめったに落としにはかからなかった。スズメの補食の習性や、落としの中に入れる餌の性質にその原因はあったのだろう。
  メジロなどの小鳥を捕るのにはトリモチを使うこともあった。山から切り出して水中に保存してあるモチの木の皮をナイフで剥いで口に入れ、苦い味を我慢しながらペースト状になるまで噛み砕く。そして、それを吐き出して細い棒の先に突き刺し、水中でくるくる回しながら洗い流すとあとにネバネバした薄緑色の柔らかい物質が残る。それが地元の言葉で「ヤモーチ」と呼ばれるトリモチだ。これを小鳥がとまるにほどよい細目の木の枝や細竹、竹竿の先などに伸ばすようにして巻きつける。餌などにつられてやってきた小鳥がその上にとまると、足がくっつき飛び立てなくなる。トリモチに足をとられた小鳥は通常は逆さまになって振り子のようにぶらさがる。そこをすかさず捕り押さえるというわけだ
  落としにかかったウグイスは飼うのが難しいし、焼き鳥にもならないのですぐに放したが、モズやヒヨドリは当時の島の常に習い、貴重な蛋白源として胃袋に収まってしまうこともあった。ヒヨドリなどは、四角い針金製のネズミ捕りにサツマイモなどの餌を入れ、高い樹上に仕掛けておくと、面白いように捕獲できた。私の近所には、ネズミ捕りをたくさん仕掛け、ヒヨドリを大量捕獲していた人もいたくらいだ。ついでだから述べておくと、集落から離れた野山や湿地に雉罠や鴨罠が仕掛けれることもあった。現代の感覚からすれば、なんと残酷なと思われるかもしれないが、それはその頃の島人のささやかな生活の知恵であり、生活技術の一つだったのだ。
  一言断っておくが、少年期にそんな体験をしたからといって、残忍な性格になり、成人してからも生き物を平気で殺したり、異常な犯罪行為に走ったりするようになるなどということはまずあり得ない。むしろその逆で、幼少期にそんな体験を積んだり直接に見聞きしたりした人間は、歳をとるとともに、生命というものに深い畏敬を覚えるようになるものだ。もっとも、私が「銀河鉄道の夜」の中の列車にジョバンニと一緒に乗っているとしたら、あの鳥捕りの男と同様に「鷲の停車場」から先には行くことができないことだろう。
  捕らえたメジロには、サツマイモと青菜をすり鉢ですり合わせて作った餌を毎朝与えたり、椿の蜜や蜜柑の輪切りを食べさせたりしたものだ。もちろん、余分に捕らえたメジロは焼き鳥にしたわけではなく、ウグイスとおなじように放してやった。鳥籠などもすべて手作りで、薪の燃える冬の囲炉裏端で竹を割ったり、竹枠や竹ひごを削り出したり、枠の部分に錐で穴をあけたりと、なかなかに大変だった。長く飼い続けたメジロなどは、籠を開けて外に放っても、しばらくすると戻ってきたりもしたものだ。
  いまでは甑島でも昔のように自由に野鳥を捕ることは許されなくなっているし、食生活の向上にともなって、わざわざ野鳥を捕って食べようという人もいなくなったようである。だから野山の鳥たちもすっかり安堵していることだろう。そもそも野鳥の捕獲技術自体が伝承されなくなっているに違いない。
  屋敷の周辺の古い石垣の隙には鈴虫やコオロギがたくさん棲んでいて、虫々の鳴き競う季節などはずいぶんと賑やかなものだった。子どもたちのやる鈴虫捕りは秋の夜の風物詩のひとつだった。蝋燭や懐中電灯で石垣の穴の奥を照らし、鈴虫がいるのを確認すると、カボチャやキュウリの小片、少量の味噌などを穴の入り口に置いておく。餌にひかれて鈴虫が出てきたところを見計らって、用意しておいた金属製の洗面器などを穴の下にあてがい、細い棒や割り箸の先で鈴虫を弾き飛ばす。そして、金属の洗面器の中に落ちた鈴虫が足を滑らし、慌てふためいているところを御用にした。捕った鈴虫は籠に入れて飼い、その鳴き声を楽しんだ。
  武家屋敷通りのなかほどには下甑村立の歴史民俗資料館があったが、なかなかに立派な施設であった。一階の展示室には古来の農機具や漁具などがいろいろと展示されていたが、大型竈、蒸し器、自在鍵、牛馬用の鋤、木挽鋸、大工用炭壺、手動の唐箕、足踏み脱穀機、千歯、大八車、牛車、田の草取り器、縄ない機など、大半は私が子どもの頃まで実際に使われていた懐かしい民具ばかりだった。もっとも、都会育ちの息子には、使い方はもちろん、何に使うかさえもわからない器具のほうが多かったようである。
  資料館二階の展示品で特に印象に残ったのは、慶長七年(一六〇二年)に来島したドミニコ会のキリスト教宣教師フランシスコ・デ・モラレスらの用いていた三着の司祭服だった。その生地も仕立てもデザインも実に見事なもので、四百年近くもたっているとは思えないほどに艶やかな光沢を保っていた。その不思議な司祭服の彩りをじっと見つめていると、信心深くない私の耳にも、命を賭して来日した宣教師たちの祈りの声が時間を超えて聞こえ響いてきそうだった。
  同じ時にヨーロッパから伝来したと思われるきわめて精巧な人形もあった。幼いイエスを抱くマリアの姿をイメージした人形だが、イエスもマリアも宝冠を戴き、みるからに高貴な王族風のガウンに身を包まれているという、大変に珍しい代物だった。
  誰の筆になるものかを確認するのは忘れたが、入寂を前にして横たわる釈迦を菩薩や羅漢、天女、鬼神、さらには白像や虎をはじめとする数々の動物たちが取り巻く「涅槃図」は、意外なほどに明るい色使いのなんともユーモラスな傑作だった。同じ階の一角には、蓮如筆とされる「南無阿彌儕陀仏」の六文字の書軸と、親鸞の書と伝えられる「南無不可思議光如来」の九文字の書軸も展示されていた。いずれも地元の清雲寺に伝わるものだそうで、台紙は黒く変色し墨跡部分もかなり傷みが進んでいたが、もしも真筆だとすれば大変な価値のものである。帰りがけに受け付けの人に、それらが真筆だと鑑定済みなのかどうかを尋ねてみると、たぶんそうだとは思うが、最近この資料館に移ってきたばかりなので自分にはよくわからないとの返事だった。
  下甑村の歴史を飾る産物としては、宝飾用の赤珊瑚と、甑島特産のビーダナシ(芙蓉布)の着物とが展示されていた。枝ぶりも見事な赤珊瑚は、それが根をおろしていた海底の岩ごと引き上げて飾ってあったが、乱獲がたたりいまではもう採れなくなってしまっている。淡い赤紫色のビーダナシの着物は、特殊な技術で芙蓉の木の繊維を糸に紡ぎあげ、その糸をもとに地機織りで織り上げた芙蓉布で仕立てある。いったんはビーダナシを織る技術を伝承する者が途絶え、この珍しい貴布を再現するのは不能かとも思われたが、近年、下甑村瀬々浦の中村悦子さんという老婦人が懸命の努力によって復元に成功、地場産業としての定着が期待されるようになってきている。
  車に戻った私たちは、近代化と伝統保持の両面が比較的うまく調和し、全体的にどっしりと落ち着いた風格を見せる手打の集落一帯をひとわたりめぐってみた。真偽のほどは定かでないが、ある伝説によれば、昔、甑島の南端まで落ち延びてきた平家の落人が、この地を目にして、なんとも素晴らしい所だと手を打って喜んだことが、手打というこの珍しい地名の由来だとのことである。
  手打をはじめとする下甑村一帯には、秋田のナマハゲに似た「トシドン(歳神様といったような意味でドンは敬称)」という行事が昔から伝承されていて、昭和五十二年に国指定の重要無形民俗文化財になっている。大晦日の晩に異形のトシドン面をつけた男が、「おるか、おるか、良い子にしとるか」叫びながら歳餅を持って子どものいる家をまわり、その子のさらなる成長を祈り願うとともに、歳が一つ増えたことを子どもに自覚させる行事である。
  棕櫚、蘇鉄、稲藁、竹、木、和紙などを組み合わせて作った、口が裂け、牙が剥き出し、目の吊り上がった赤ら顔の三角鼻面が、トシドン面として今では広く知られるようになっているが、もともとは村内の集落ごとにトシドンの面も異なっていたようで、全身を包む装束や面の祖形やは現在のものよりずっと素朴だったようである。
  手打集落をめぐりた私たちは、次の目的地である下甑島最南端の釣掛崎灯台目指して山道を走りはじめた。晩秋だというのに燦々と陽光が降り注ぎ、車中は汗ばむほどに暑くなった。



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