「マセマティック放浪記」 2002年10月16日
Mathematics Odyssey October 16, 2002
さらに小さな発見と出逢いが

  喜多方蔵の里の資料館にはもうひとつ興味深い展示物があった。明治十五年に起こった喜多方事件の資料である。時の明治政府は会津三方道路の開拓を強行しようとしていた。会津三方道路とは会津から山形県に通じる羽州街道、栃木県に通じる野州街道、そして新潟県へと通じる越後街道のことで、いずれも険しい山岳地帯を縫い貫く道路であったため、当時の技術のもとでは大変な難工事が予想されていた。
  その時代山形と福島の両県令を兼ねていた薩摩出身の三島通庸は、会津一帯の農民を強制徴用しその道路開削にあたらせたが、あまりにも常軌を逸した難工事だったため、ひどく農民を苦しめることになり、彼らの間には必然的に待遇改善の要求運動や道路そのものの開拓に反対する運動が勃発した。そして、その運動を支援し、政府官僚らによる圧政に抵抗するため、地元や国内各地の自由民権思想家有志たちが喜多方の属する耶麻郡周辺に集結した。それに対し、県令の三島通庸は同じ薩摩出身で警視庁権大警視の佐藤志郎を腹心として福島県耶麻郡長に招聘し、反対者の徹底弾圧にあたらせた。
  明治十五年、三島の指示を受けた佐藤は官憲を動員して一帯の多数の農民や自由民権家を次々に逮捕投獄し、容赦ない圧政と民権思想弾圧を試みた。これが世にいう喜多方事件にほかならない。逮捕された農民や民権家たちは結局裁判で無罪となるが、三島県令らが責任を問われることは最後までなかったようである。国家の近代化を最優先させていた明治政府には、道路建設強行にともなう民衆の多大な苦しみを黙殺しても、まずは道路の完成を急ごうという暗黙の方針があったからなのだろう。
  この喜多方事件を契機として自由民権運動は民衆の間でさらに広がりをみせ、板垣退助らの登場をみることになるのだが、それに比例するかのように政府当局や官憲による規制も厳しさを増していったようである。喜多方事件に関する当時の膨大な裁判資料がガラスケースに保管展示されていたか、誰でも自由にそれらを手にとって閲覧できるようになっていたのがいかにも暗示的で、私にはたいへん興味深くおもわれた。もうすこし時間があれば墨書されたそれらの資料にゆっくりと目を通してみたいという気もしないではなかったが、どう考えても容易にできるようなことではなかったので、さすがにそれは断念せざるをえなかった。
  資料のひとつとして、末広重恭著「花間鶯」の挿絵で、「雪中拘引の図」なるものが展示されていたが、この絵図などは興味深いことこのうえなかった。吹雪きの中を官憲によって自由民権家が引き立てられていくところを描いた絵図なのだが、縄を掛けられているにもかかわらず毅然とした着物姿の民権家は、風に髪を逆立たせ、衣の裾をはためかせながら、恐ろしい形相で前方を睨んで立っている。豪雪の中であるにもかかわらず、拘束された両手は肘からさきが剥き出しで、両足はなんと裸足のままである。それに対し、三人の官憲のほうは、制服制帽のうえに厚い外套をはおり、皮手袋に皮の長靴という出で立ちなのだが、なんとも情けなさそうな表情を浮かべ、全身に自信のなさそうな様子を漂わせながらガタガタと雪に震えている。その挿絵師をふくむ当時の会津民衆の官憲への内なるおもいがその絵図にそのまま乗り移っている感じであった。
  高橋由一といえば、芸大美術館保存の「鮭」という作品で広く知られる高名な写実画家である。この高橋由一は当局から三方道路完成直後の風景を克明に描くように依頼されていたものらしい。彼の描いた道路とその周辺の景観図がかなりの枚数展示されていたが、それらの絵図からもいかに三方道路の開削が難工事であったかを窺い知ることができた。当時この地方で共同作業に用いられていた頑丈な修羅(資材運搬用の木製橇、この地方では「シラ」と呼ばれていた)なども並べられていたが、そのような修羅はオンノレの木という硬木から造られていたらしい。オンノレとは「斧折れ」が訛った言葉なのだそうで、斧が折れてしまうほどに硬い木なのでそう呼ばれていたという。当時、オンノレの木は貴重な樹木として大切に守られ、数十年に一度といった具合に、その伐採は必要最小限にしかおこなわれていなかったようである。

  喜多方蔵の里のすぐ近くには喜多方市立美術館があった。門前の催し物案内板を見ると、たまたま「巨匠たちが描いた日本の自然」という風景画展が催されているところらしかった。意外なとことろで思いがけない風景画展にめぐり逢った私は、これを見逃す手はないとすぐさま入館し、素晴らしい作品の数々に対面した。日本画壇にキラ星のごとく輝く高名な画家たちの描いた風景画はいずれも素晴らしい作品揃いで、甲乙つけがたい感じだった。各地の国立公園を描いた作品もかなりの数あったが、なかにはすでに失われてしまったずいぶん昔の風景などもあって懐かしいかぎりであった。
  展示作品のなかには坂本繁二郎の描いた「桜島」という題の初めて目にする風景画などもあった。総じて淡い青の色調で描かれており、テーマとなっている対象物の輪郭がぼーっとしていて、いまにも背景の世界に溶け込み同化してしまいそうにもみえるのは、他の作品にも共通する坂本の絵の大きな特徴と言えた。若い頃はどこか影の薄い感じのする坂本繁二郎の絵にいまひとつ馴染めないでいたのだが、ある時期を境に、けっして激しく個の存在を主張しようとはしないその画境がなんとなくわかるようになってきた。能の小面を描いた作品が彼にはあるのだが、たまたま目にしたその小面の絵の凄みに圧倒されたのも、私が坂本繁二郎の世界にのめり込むひとつの大きな転機となった。
  「海の幸」で知られる青木繁の親友で、夭逝した生前の青木をなにかと陰で支えたという坂本繁二郎は、あらゆる点で青木とは対照的な人物だったらしい。一口に言えば「動」の青木に対して「静」の坂本――激情家で志向性の強かった青木と違って坂本のほうは穏やかで、きわめて自己抑制のきいた人物だったようである。天才と謳われ自らも天才を自負しながら、強烈な構図と色彩をもつ絵を凝縮された時間の中で描いて早世した青木、いっぽう、地味だが着実な人生を自然体で生き抜き、どこか枯れていて流れるような構図と淡い色彩の絵を描いて大成し、八十を悠に超える天寿をまっとうして逝った坂本と、画家としての二人の人生もまたきわめて対照的だったみたいである。互いに異質な存在だったがゆえにこそ、東京美術学校(現東京芸術大学)時代の青木と坂本の間には深い友情の絆が芽生えたのであろう。
  坂本繁二郎はよく馬のいる風景を描いているが、それらの絵のいずれもが見る者の心になんとも不思議な印象を焼きつける。見方によっては何もかもが陽炎のようにはかなく実体のない存在にも感じられてしまいそうな絵であるからだ。彼の描いた絵のなかには水色をした馬がおり、空色をした馬がいる。そしてまた、逆に、馬の色をした水があり、馬の色をした空がある。
  悠久の大自然のなかにあってはあまりにも儚い影のような束の間の生、しかしながらその淡い影のような一瞬の生なくしては意味もなく存在もしえない自然界――坂本繁二郎は、東洋思想の影響を大きく受けたホワイトヘッドの哲学の説くような深遠な世界を直観し、たぶんそれを絵にあらわそうとしたのだろう。断ち難い自然界との連続性のなかで、外界との境界の定かでないままに淡くほのかに浮かび上がる生命の神秘、さらにはその光の影のごとき生命を通してのみ認識される果てしない外界の広がり、そういったようなものを坂本はその卓越した審美眼のむこうに読みとっていたに違いない。
  たまたま喜多方の地でめぐり逢った坂本繁二郎の素晴らしい一枚の風景画を通して、かつて感動したいろいろな坂本作品を懐かしく回想し、ささやかな想いを深めることができたのはこの旅の収穫のひとつでもあった。
  ついでだから、この折に記憶の古層から突然に甦った奇縁ともいえる想い出のことにちょっとだけ触れておこう。私が幼かったころに一世を風靡したNHKのラジオドラマ「笛吹き童子」のなかなどで美しい尺八の音が流れたりすると、すでに鹿児島県の甑島の地で死の病の床に就いていた母は、「ああ懐かしい蘭堂さんの尺八だ……」と呟きながら、それに聞き入っっていたものだ。福田蘭堂とは笛吹き童子のほか、白鳥の騎士など当時の数々のラジオドラマの音楽を担当し、その名を知られた人物である。
  横浜生まれの横浜育ちだった母は、実をいうと若い頃福田蘭堂夫妻の家のすぐ隣に住んでいた。その関係で福田家とは一時家族ぐるみの交際があったようである。福田蘭堂夫人は川崎弘子という当時の有名な美人女優で、母の形見のアルバムには福田夫妻と一緒に撮った大きな写真などが貼られている。川崎弘子直筆のサイン入りの写真なども残っているようだ。かつて母が話してくれたところによると、綺麗な月の夜などには蘭堂氏の奏でる美しい尺八の音がろうろうと響いてきたものだったという。
  むろん、そんな遠い日の記憶を私が急に想い出したのにはそれなりの理由があった。福田蘭堂とは、坂本繁二郎の親友だった青木繁の息子、福田幸彦のことだからである。私がその事実を知ったのはずっとのちになってからのことだったが、その母堂はむろん福田たね――青木繁の恋人で、「海の幸」に描かれている裸体の女性のモデルになったと言われているあの人物にほかならない。坂本繁二郎の風景画「桜島」が発端となり、連想が連想を生んだ結果、記憶の底に沈んでいた想い出が甦ってきたようなわけだったが、とにかくも不思議な旅の一日ではあった。



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