「マセマティック放浪記」 2002年10月9日
Mathematics Odyssey October 9, 2002
喜多方の町を再見する

  喜多方が蔵とラーメンの町だということは以前からからよく知っていた。だが、この折の旅において、会津若松から米沢に抜ける途中立寄った喜多方では想わぬ発見がいくつかあった。喜多方市内の一角には、かつて市内のあちこちに建っていた蔵々を移築し、その内部に各種の歴史資料や民俗資料等を展示した「喜多方蔵の里」という資料館が存在している。さして大きな期待も持たずにこの資料館を訪ねた私は、そこで喜多方という町の秘める意外な一面をまのあたりにし、すくなからず驚かされることになった。
  慶応四年に建てられた旧井上家穀物蔵と説明のある蔵内には、かつてはこの地の誇る伝統職人技芸であった会津型紙作成についての技術資料が展示されていた。型紙とは着物の布地に種々の絵柄や紋様を染め付けるための染色用原型紙のことである。すぐれた型紙技術があったということは、当然この地では布地の染色も盛んだったことを意味している。江戸時代にあっては誰でも自由に型紙を造ることができたわけではなく、幕府から特別に許可のおりている伊勢、江戸、それにこの会津喜多方の職人たちしかその制作に携わることができなかった。解説されているところによると、一時期までは伊勢地方の職人集団だけの占有技術であったともいう。喜多方へ型紙技術を伝えたのは伊勢の職人だったそうで、その後幕府から特別な認可がおり、会津藩の管轄のもとに本格的な型紙造りがおこなわれるようになったようである。
  型紙を彫るに先立って、職人たちはまずその地紙を造らなければならなかった。地紙は上質の和紙を柿渋で三枚接着して造り、それに職人が染め型を彫り込む。精緻な染め型を彫ったり、完成した精巧な型紙で染め付けをおこなったりするときに型崩れが生じたりしないように、紐入れとか沙貼りとかいった特殊な処理なども施されていたらしい。
  展示資料によると、型紙彫りには、道具彫り、縞彫り、錐彫り、突き彫りの四通りの方法があったようだ。道具彫りとは、職人が様々な刃形の彫刻刀を必要に応じて自作し、それを使って地紙を打ち抜くように図柄や模様を彫る技法のことを、また、縞彫りとは、定規に彫刻刀の刃を当て、数回手前に引いて均等に筋模様を彫る技法のことをいったらしい。錐彫りとは小さな円形の穴を無数に連ねて紋様を彫る技法で、先端が小さな半円形の細刃を半回転させて地紙を刻んでいたという。最後の突き彫りの場合は、切り出し形の彫刻刀を用い、前方に刃を押し出すようにして細かな模様を彫り刻んだのだそうだ。
  型紙彫りに使用された彫刻刀類や完成した型紙なども展示されていたが、神がかりとでもいうほかない往時の天才職人たちの技にひたすら感嘆するばかりであった。小紋などの染付けに用いられた型紙などは見ているだけでも気の遠くなりそうなくらいに精緻をきわめていたからだ。着物全盛の時代における粋な柄模様を――現代風にいえば最先端ファッション、あるいは最流行ファッションを創造し支配するための根幹技術だったわけだから、幕府が型紙造りに厳しい規制を設けていたのも当然のことだったと頷ける。
  喜多方産の型紙は会津型紙と呼ばれ、それによって染め付けられた生地類は広く東北地方一帯に出回っていたようだ。喜多方の職人たちはやがて本場の伊勢型紙をも凌ぐ美しく精巧な型紙を生み出すようになっていったようだが、近代に入りプリント技術による布地の染め付けが普及したために、型紙技法による伝統的な染め付け法は廃れ、技術を伝承する職人もいなくなってしまったという。すべては時代の流れというしかないのだろうが、なんとも惜しい気がしてならなかった。
  蔵の里には穀物蔵のほかにも、味噌蔵、勝手蔵、厠蔵、酒造蔵、座敷蔵、店蔵といったような様々な蔵が移築展示されていた。そして、それらを一通り見ていくうちに、喜多方の蔵々は単なる貯蔵庫としての蔵ではなく、各種生産作業場用、台所用、トイレ用、住居用、来客接待座敷用、商店用など日常生活全般と深く結びつく存在であったことがわかってきた。地元出身の写真家の故金田実は、近代化の中で失われゆく喜多方一帯の蔵々を惜しみ、その情景を写真にして広く全国に紹介した。そのことが発端となって喜多方の蔵は多くの人々に知られるところとなり、結果的に民俗文化遺産としての蔵保存が実現したのだが、そうなったことの背景には、この地の蔵が単なる貯蔵庫ではなかったといった事情などもあったのだろう。
  ちなみに述べておくと、喜多方がラーメンで有名になったのも金田実のおかげである。珍しい蔵々の写真が広く紹介されたのを契機に、喜多方には全国から多くの写真家や見物客などが訪れるようになった。当時喜多方にはそういった来訪者が食事をとれるお店などがほとんどなく、やむなくして彼らは近くにあった一軒のラーメン屋に立寄るようになったらしい。たまたまそこの店で出すラーメンが美味しかったため評判となり、それが呼び水となって似たようなラーメン屋が次々に現れ、独自の味を競うようになったようだ。そして、ついには喜多方ラーメンというブランドまでが生まれるにいたったのだという。
  蔵を利用した展示館の中には、東洋のナイチンゲールと謳われた瓜生岩子の年譜と業績を列挙したコーナーや、一時代前に独特の教育理念の実践で名を馳せた教育者蓮沼門三の業績を称える資料室などもあった。私自身にすれば、どこかで名前くらいしか聞いたことのない人物たちだったが、二人ともこの喜多方地方の偉人なのだそうである。たまたまのことだったが、よい機会ではあったので、その足跡を興味深く拝見させてもらうことにした。
  瓜生岩子という人物は、戊辰戦争などにおいて多くの負傷者を敵味方へだてなく救済したのを手始めとし、貧民救済など様々な社会福祉運動に生涯を献げた先駆的女性福祉活動家であったようだ。浅草には彼女の業績を記念した銅像が立っているそうで、その碑文は渋沢栄一の揮毫になるものだという。
  十三巻もの分厚い著作集などあることすら知らなかった教育家蓮沼門三について、その偉業を語ったり評したりする資格などこの身にあろうはずもないが、それはともかく、半ば伝説的ともいえそうな彼にまつわるエピソードそのものはなかなかに面白かった。解説文によると、蓮沼門三は明治十五年二月二十二午前三時過ぎ、大雪のさなか、道端の胡桃の木のもとで生まれたのだという。夫の実家に独りで挨拶に行った母親が帰途の山道で突然産気づき、誰の助けもないままに雪上に生み落とされたのだそうだ。誕生の瞬間からその人生はおそろしく劇的だったというわけである。
  そんな彼の誕生の苦労を知ってか知らずか、彼が幼いうちに実父は家を出奔し行方不明になってしまう。嫁ぎ先の配慮もあってその後いろいろな再婚話が周辺から持ち上がるのだが、母親は頑としてそれらの話を断り、義父母に尽す日々を送った。やがて母親は困窮する生活を支えるため他家に住み込み下働きをするようになるのだが、お世辞にも裕福とはいえなかったその家の主は幼い門三を我が子のように可愛がってくれたのだという。その様子を見ていた母親は、それまでのかたくなな態度を変え、その相手と再婚することを決意した。蓮沼という姓は母親が再婚した先のものであったという。
  苦節を重ねに重ねながら成長した門三は、やがて向学心に燃えて上京し、現在の東京学芸大学に入学、他の学生たちと共に寮生活を送るようになる。選ばれた学生という一種の特権意識を持ちバンカラの美学を誇る寮生たちが土足で寮内に踏み入ることなど常のことで、そのため玄関や廊下などは汚れほうだいであった。そんな中で門三だけは、他の寮生の蔑視や嘲笑をものともせず、来る日も来る日もただ独りで雑巾がけをはじめとする清掃に専念し、寮内の美化に努めたのだという。 
  そんなある日、過労がたたり体調を悪くしていた彼は、掃除の最中に高熱を出し、血を吐いて倒れてしまう。それでもなお必死に頑張ろうとする門三の姿に、それまで彼の行動を冷視していた同室の寮生も自分が悪かったと反省、以後、彼と共に寮内の美化作業に勤しむようになった。そして、いつしかその美化運動は学生寮全体に広がり、皆が率先して寮内の整頓と美化に努めるまでになっていったのだという。
  どんな小さな誠意といえども、諦めずにそれを積み重ね続けていけばやがてそれは大きな力となって社会を動かすようもになる――そんなふうにも読み取れる蓮沼門三の教育理念の根幹を、このエピソードなどはよく象徴しているのだろう。立派なことこのうえないのではあるが、生来無精なうえに、現代社会の個人主義的な環境にすっかり毒されてしまった私などにはとても真似ができそうにない。すくなくとも、ふらふらと旅をしながら勝手なことを綴っている身がおいそれと気軽に近づくことのできるような手合いではなさそうだ。
  のちに修養団運動などを通して教育面で国際的にも貢献したという蓮沼門三は、昭和五十五年に他界した。晩年は天皇の前で御進講などをする栄誉にも恵まれたということだ。彼が残したという言葉が資料室の壁に表示してあったので、ついでにそれを紹介しておこう。あの資料展示室の様子からすると、私のような気まぐれな旅人がたまにふらふらとやってきて、室内を一瞥しただけでそそくさと立ち去るのがよいところではないかともおもわれるから、こんないい加減な紹介でも、いくらかは蓮沼門三先生の霊の慰めになるかもしれない。

人よ醒めよ 醒めて愛に帰れ
愛なき人生は暗黒なり
共に祈りつつ
すべての人と親しめ
わが住む郷に
一人の争ふ者もなきまでに

人よ起てよ 起ちて汗に帰れ
汗なき社会は堕落なり
共に祈りつつ
すべての人と働け
わが住む里に
一人の怠け者もなきまでに
     (蓮沼門三)



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