「マセマティック放浪記」 1999年3月3日
Mathematics Odyssey March 3, 1999
海路、念仏のたどり着いた断崖で  
  照葉樹の林を縫う山道を登り詰めると、眼下はるかに藍色の海を望む鞍部にでた。海側は黒々とした岩肌の切り立った断崖になっている。垂直の岩の屏風をなして左右にのびる連続崖は、足元直下のもっとも低いところでも高さ百メートルほどはあるだろう。営巣期は五・六月頃なので、この季節にはそれらしい鳥影はまったく見あたらないが、この一帯がウミネコの南限繁殖地としても知られる鹿島断崖だった。ずいぶん昔に、海上からその豪壮な景観を仰ぎ見たことはあるが、断崖の上から海面を見下ろすのは初めてだった。断崖下の岩場一帯は石鯛をはじめとする大物魚の絶好の釣り場にもなっている。たまたま夕凪の時間帯にあたっていたせいか、岩壁の直下に寄せる波は穏やかそのものだった。台風の時や北西の季節風が吹き唸る冬場には、この静かな海が白く鋭い怒りの牙を剥くことになる。
  真下に見えるごく小さな岩浜の入り江は藺落浦(いおとしうら)といい、私たちが立つ断崖上の一帯は藺落(いおとし)と呼ばれている。昔、藺草の産地としても知られた藺牟田の人々は、東側の海がひどく時化(しけ)て藺草の積み出しができないとき、この藺落まで藺草の束を運び上た。そして、この断崖上からそれらの藺草を西側の波の静かな藺落浦にへと落とし、船積みしていたのだという。藺落という地名はそんな史実にちなんだものである。
  足下の断崖斜面伝いに藺落浦へとくだる岩道も魅惑的だったが、夕暮れも迫ってきていたので、とりあえず右手断崖の縁を縫う急傾斜の歩道を登ることにした。息を切らしながらしばらく細い道を辿ると、「念仏発祥の地」という案内板の立つ地点にでた。そばにある展望台からは、藺落浦とその向こうに果てしなく広がる東支那海の海面が望まれた。はるかな水平線が遠い西の空と接するあたりには低く雲が垂れ込めていて、その雲の帳(とばり)の一部がほんのりと赤らんでいる。一日の仕事を終え、いまにも姿を隠そうとする秋の太陽が、その雲の向こう側にはあるのだろう。
  昔、一向宗門徒の島人たちは、この地から荘厳な落日に向かって合掌し、西方浄土への敬虔な祈りを捧げ唱えた。そんないにしえの島人たちに倣い、美しい夕陽を眺めながら己の穢れた心を少しでも洗い清めることができればと思って、私たちは夕暮れのこの断崖上へとやってきた。天候の加減でその願いが実現しなかったのは残念だったが、少年の頃、幾度となく西の海に沈む夕陽を追いかけたことのある私には、哀しいまでに海と空が赤々と燃え輝く、この島ならではの夕映えの美しさを想い描くことはできた。
  親鸞を開祖とする浄土真宗は、かつて一向宗とも呼ばれていた。傲慢な時の支配者たちの暴政に苦しみ、搾取に次ぐ搾取のゆえの貧困に喘ぎ、ゆえなき弾圧を繰返し被る農民や漁民たちにとって、他力本願の教義のもとに現世の制度を超越した魂の世界を示し仰ぐ一向宗が、大きな心の救済となったことは当然であった。生身の人間には、いくら自力の限りを尽くして精進してもどうにもならないことがある。家柄がものをいい、身分制度の厳しかった封建時代、どう足掻いても自力では抜け出し難い苦しみを背負う民人が心の救済を求め、たとえ一時のことであっても精神の自由を獲得するには、一向宗の根幹をなす阿弥陀という超越的な存在、すなわち、「他力」にすべてを委ねるのが何よりの道であった。     
  俗な言い方をすれば、自己努力の限界を悟り、なるようにしかならないと自然の成り行きに身を任せ、祈りと想念の生み出す阿弥陀世界、すなわち西方浄土という理想郷に魂を解放してやることが唯一の道だったのだ。
  時代の制度や慣習、価値観などに適応できず、極限まで苦しみ悶え自らの居場所のを失った魂は、そこまで自分を追い込んだ制度や慣習、価値観を否定し、それらを超えた世界に救済を求めていくしかない。本来、信仰とはそのようなものであり、宗教とはそういった信仰を求める魂を受け入れ導く場所である。そうしてみると、時代の重圧を背負い苦しむ人々を救済できる宗教は必然の結果として過激かつ反時代的、反権力的にならざるを得ない。現在のキリスト教や仏教だってもともとはそうだったに違いない。宗教が時の権威と手を携えるようになったとき、その宗教は換骨奪胎され、本質的な意味を失ってしまう。
  その意味からしてみると、その善悪はともかくとして、新興宗教の信者の思想や行動を、時代の制度や規範にかなっていないから改めよと批判してみても何の進展も得られないことになる。時代に順応し時代の制度と妥協した既成宗教と異なって、新興宗教は常に反時代的であり、ゆえにその時代時代の抑圧された魂を魅了してもきたのである。
  中興の祖、蓮如の働きもあって越前や加賀の国を中心に燎原の火のごとく広まった浄土真宗、すなわち一向宗は、一帯の庶民の魂を解放し、解放された庶民のエネルギーは権力者の不当な支配に抗する一向一揆となって爆発した。織田信長をはじめとする戦国時代の武将たちが一向宗徒を恐れ、激しく弾圧したのは、支配階級の価値観を脅かす宗徒たちの自由な精神に、自らの存亡の危機を感じとったからであった。
  信長の加賀攻めなどによって一向一揆は鎮圧されたが、一向宗そのものは日本海沿いの交易ルートなどを通じて国内各地に広まっていった。隠岐、壱岐対馬、五島、島原、天草などを経て甑島にも一向宗が伝来し、当時の民衆の心をとらえ、その奥底に深く根を下ろしていったのである。一向宗が美しい夕陽の見られる日本海や東支那海沿岸域に根強く広まっていったことは、なんとも興味深いことである。夕陽が西方浄土の象徴だったことにもよるのだろうが、それ以上に夕陽が人々の信仰心を深めたわけは、自然に手を合わせたくなるほど荘厳な日輪の輝きの生み出す幻影が、感動に震え佇む彼らの胸に別世界の存在を確信させたことにあるのではなかろうか。
  藩制の権威を超えた世界に魂の解放を求める一向宗徒の動静は、島津藩主に脅威を覚えさせるところとなった。慶長二年(一五九七)年、薩摩藩は一向宗禁制令を下し、以後江戸時代末期に至るまで藩内の一向門徒は厳しい取り締まりをうけたのである。当然、取り締まりは甑島にも及び、多数の仏像や経文が没収焼却の憂き目に遇い、島の民衆は改宗を迫られた。
  しかし、一向宗門徒の島民たちは藩の命令に面従腹背し、隠れ念仏講を組織した。そして、新たに島外から持ち込まれた御本尊や法難を逃れて密かに隠し残されていた経文類、法燈などを守り抜き、明治時代はじめに信教の自由が認められるまで陰で信仰を貫き通した。門徒の島民の結束は固く、しかも表向きは一向宗の取り締まりに当たるべき島内の郷士や役人の中にも隠れ門徒が相当数いて、本土からやってくる役人や密偵の探索を巧みにかわしていたらしい。上甑島、下甑島のあちこちに隠れ念仏関係の史跡があるが、いま私たちが立つ念仏発祥の地もそんな史跡の一つだった。
  当時の藺牟田周辺の信徒たちは春秋の彼岸の中日にはこの藺落の断崖上に集まり、西海に沈む夕陽を極楽浄土の桜門に入る如来に見立てて合掌し、念仏を唱和したのだという。この風習は代々伝承されて現在にまで至っている。
  念仏発祥の地からさらに高みへと続く急峻な階段状の小道を登ると、ほどなく藺落展望台にでた。訪ねる人が少ないせいで一帯は草むしているものの、実にいい展望台である。西側の藺落浦ばかりでなく、藺牟田集落や鹿島港、さらにその向こうに広がる東側の海をも一望できる。昼間の景色ばかりでなく、朝日や夕日、月星の輝きなどをここから眺めるのも悪くないだろう。かねてのストレスを解消するために、海に向かって大声で叫んでみるのもいいかもしれない。
  小道はこの展望台までで終わっていたが、前方を仰ぎやると頂上一帯が草地になった形のよい山が見えている。地図で調べてみると屋尾山という名の山らしい。鹿島断崖のもっとも高い地点にあるその山頂から東西の海や空、南北の島影などを眺めたら、さぞかし感動的だろうなと思った途端、勝手に足が動き出した。そこから先は道がないので、密生した照葉樹林の中に分け入って薮こぎし、蔦や茨、蜘蛛の巣などと戦いながら進んで行く羽目になった。途中で左手の断崖端に沿う樹々の間から恐るおそる下を覗くと、くらくらするほどに高く切り立つ垂直な岩壁が網膜を焼かんとばかりに迫ってきた。
  こんなことになるとは思わず、山刀やナイフはおろか軍手さえも車中に残してきたために、深い樹林の中の薮こぎは予想以上に難航した。屋尾山の頂と藺落展望台との中間地点あたりに達する頃には、宵闇に包まれてあたりはすっかり暗くなり、足元さえもよく見えなくなってきた。新聞で調べた月齢から考えると、満月に近い月が東の空の低いところに出ているはずだが、深い樹林の奥まで月光が差し込むのを期待するのは虫のよすぎる話だった。
  中途で引き返すのはなんとも残念に思えたが、懐中電灯も用意してきていないとあっては、それ以上の前進を断念せざるを得なかった。間違っても断崖の縁に迷い込まないように気をつけながら、真っ暗になった樹林の下の薮を抜け展望台へと戻ったときには、私も息子も体のあちこちに引っ掻き傷をつくり、頭や顔は蜘蛛の巣だらけになっていた。
  登頂がならなかったから言う訳ではないが、どうせならこの藺落展望台から屋尾山の頂まで遊歩道をつけ、頂上で西海に沈む荘厳な夕陽を眺めたり、満月に映える海面を観望したりできるようにすれば素晴らしいだろうなと考えた。散策しながら登るのにも手ごろだし、都会からくる旅人たちはきっと感動するにちがいない。藺落浦へとくだる道のほうももっと活かすように工夫したほいがよい。うまく整備し、上手に紹介さえしてやれば、この一帯がとても魅力的な観光スポットになることは請け合いだ。甑島の観光は夏だけだなどという、誤ったイメージを払拭するにも役立つはずだ。ただ、そのためには他村との連携が必要で、鹿島村単独で実践できることではないだろう。
  都会からやって来る人は野山や荒磯を歩くのは好きでないし、それほどの体力もないと島の人々は思い違いしているらしいが、それは大変な誤解である。都会の人間は旅先で三時間や四時間歩くのくらいはへっちゃらだし、登山などにもよく出かけるから、いまでは甑島の一般の人々などより健脚だと思ってよい。そもそも、甑島のようなところを訪ね歩いてみようと思う都会からの旅人は、豊かな自然をじっくりと味わい楽しもうと思っているから、コースや地図、標識などが整っていさえしたら、時間をかけて島内のあちこちを歩くことなど厭いはしない。
  甑島全島には、さまざまな自然学習や自然体験ができる遊歩道を設けるに適した場所はたくさんある。都会の人は足が弱いから、疲れないようになるべく車まで運んであげるようにし、車で行けない不便なところは観光スポットから省くべきだなどと考えるのは、島の人々の勝手な思い込みである。ほんとうに旅を愛する人間というものは、豊かな自然の裏返しとしての不便さや適度な緊張を伴うスリルなどはなんとも思わないものである。もし、都会から多くの旅人を呼ぼうというなら、島の人にはまずそのあたりのことを十分に理解してもらいたい。
  私たちが下甑島に行くと知ると、下甑の西海岸一帯は道が狭く山も険しく、車の通行も不便で、わざわざ行っても何もないからしょうがないと、したり顔で忠告してくれた人もいたが、冗談ではない。開けていないからこそ私たちは魅力を感じているわけで、勘違いもここまで昂じると、それを指摘することさえ面倒になってくる。
  藺落展望台からくだる途中で眺めた藺牟田集落の夜景は望外のものだった。点々と灯る美しいオレンジ色の街灯が、集落全体を幻想的に彩り浮かび上がらせていたからだ。光度と光量を抑え、どこか愁いを含んだ暗いオレンジに街灯の色を統一したのは、どういう人の着想なのだろう。月夜や星空との調和、周辺の自然環境や夜の景観との折り合いなどを総合的に配慮した、意図的な色調の統一だったのだろうか。それとも、電力を節減するとか、夜の漁への影響を考慮してとかいった別の理由があったのだろうか。明るければなんでもよいとされるこの時代にあって、その背景がどのようなものであるにしろ、光を抑えたこの集落の夜の風景はどこか不思議な情緒に溢れ、とても好感のもてるものだった。
  再び車に戻り藺牟田を後にした私たちは、夜道を長浜まで引き返し、そこから東岸沿いの青瀬を経て下甑島最南端の手打という集落までいっきに南下することにした。走りだしてほどなく、東南方向の雲が切れ、明るい月が顔を出した。月光に映える静かな海面を左手に見ながら快調に夜道を駆け抜けて、午後九時頃に手打に着いた。下甑村の手打は下甑島最大の集落で、独特の風格を備えた町並みをもっている。
  月光に白く輝く美しい手打の浜辺脇に車を駐めた私たちは、調理具を外に出して遅い夕食の準備に取り掛かった。もちろん、藺牟田の瀬戸で獲った亀の手と黒蜷を、ペットボトルの海水で茹でることも忘れなかった。
  潮騒を聞きながら煌々と月の照る無人の砂浜でとる夕食は最高だった。さすが南の島だけのことはあって、十一月の夜とは思えないほどに吹く風も爽やかで、外気の温度も快適の一語に尽きた。息子に食べ方を指南しながら久々に口にした亀の手や黒蜷の味も、懐かしくかつこのうえなく美味で、なんとも満ち足りた気分になった。これで南の海から竜宮城の使いの亀がやってきたら、もう言うことはなかったが、「貝の亀の手ならよいが、本物の俺の手まで食われたかなわん」と警戒でもしたのだろう、ついにその姿は見られなかった。
  食事を終え、調理具を片づけると、ワゴン車後部のシートをフラットにし、眠りに就くことにした。冴えわたる月光と囁くような潮騒の響きのおかげで、この手打の浜辺の夜ならではのよい夢が見られそうだった。


| 前のコラムへ | 次のコラムへ | 総目次へ |

....................................................................................................................................................................................................................
(C) Honda Shigechika 2002. All rights reserved.