「マセマティック放浪記」 1998年10月21日
Mathematics Odyssey October 21, 1998
蝉の音出すスピーカー 

  八つ手の話を書いていて、寺垣武さんのことを想い出した。「日本のエジソン」という異名をもつ寺垣さんは、工業界では半ば伝説の人物と化した天才技術者だ。
 理論というものは両刃の剣で、その限界や短所を見すえて用いれば未来を切り開く強力な武器にもなるが、見かけだけの正しさを鵜呑みにして振り回すと、発展を阻害し、一瞬にしてその命脈を断つ凶器となる。肥大化し現実から乖離した理論に疑問を抱いた技術者がとるべき道は、理論の原点に立ち戻って考えることである。
  だが、それはけっして容易なことではない。数式でものものしく武装され、一見完璧に見える理論の根底に迫り、問題点を的確に究明するには、卓越した能力や一貫した理念にくわえて、人一倍の勇気と良心を必要とするからだ。それだけの能力と資質をもつ技術者はきわめてすくない。寺垣さんは、我が国ではまれなそんな技術者の一人である。オーディオシステムΣ5000の開発だけをみてもそのことがよくわかる。
  寺垣さんは、ふとしたことから、専門外のオーディオの研究を始めて間もなく、アナログレコードに音響情報を刻み込むとき消費されるエネルギーに比べ、レコードから音を再生するときに要するエネルギーが小さすぎることに気がついた。そこで、最新のレーザー技術を用いて従来のアナログレコードに刻まれた複雑な溝の形状を精細に調べてみると、驚くほどに膨大な情報が隠されていることが判明した。それまでのプレイヤーは、再生に際して、アナログレコードがもつ音響情報のほんの一部しか読み取っていなかったことになる。
  プレイヤー自体の微妙な震動や内部の定常波の反射が原音情報に変調をもたらしていることも問題だった。極力変調を抑えるためラバー類や油脂類を一切排除し、軸芯やアームに特殊な工夫を凝らして寺垣さんが完成させたΣ5000システムは、何十年も前のモノラル盤レコードでさえも現代のCDを凌ぐほどに良質で立体感のある音響情報を秘めそなえていることを実証してみせた。
  そのいっぽうで、寺垣さんは驚異的な性能をもつスピーカーの開発にも成功した。わずかなエネルギーしか消費していない蝉の鳴き声が遠くまで響き渡る理由を追究したことが、新スピーカー開発のきっかけになったという。きれいに波長のそろった物質波は、低エネルギーのものであっても、いったん音波に変わると、やわらかく澄んだ響きとなって遠くまでよく通る。独創的な波動理論に基づいてバルサ材を素材に設計された薄型スピーカーは、たった3Wたらずの出力にもかかわらず、信じられないような音響と音色で大ホールを包み込み、何百人もの聴衆を感動させるという奇跡をも演じてみせた。
  近くで聴いても遠くで聴いても、前後左右どの位置で聴いても音質に変わりがないこの全方位型スピーカーは、過去の常識を超越した逸品中の逸品だと言ってよいだろう。その音を聴いたオーディオ研究者や音楽家たちは、皆、異口同音に驚きの声をあげる。
  寺垣さんは、CDをはじめとする最近のオーディオ技術は、芸術家に対する冒涜だとさえ語っている。収録された原音を忠実に再生するのではなく、技術者の感覚と判断で原音を変調したり加工したりして再生するからだという。
  Σ5000はCDの再生においても他のシステムを寄せつけない。だが、CDの情報は、原音の連続情報を人為的に強制分割し、不連続なデジタル情報に変換入力される時点でかなりの変調が生じている。さらに情報再生の過程で人の耳に馴染みやすい音質への加工がおこなわれるため、原音とはかなり異質な音になってしまうのだという。
  一八七七年にエジソンが蓄音機を発明してからCDが普及するまでの間にアナログレコードに蓄積された膨大な情報は、歴史的にみてもかけがえのない文化遺産であり、それらを時流の中に沈め捨て去ることは人類にとって大変な損失だと、寺垣さんは熱く語る。その美しく澄んだ瞳の輝きに、私は寺垣哲学の神髄をみる思いである。



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