「マセマティック放浪記」 2002年8月7日
Mathematics Odyssey August 7, 2002
変わり果てた奥三面渓谷
  国内屈指の清流で知られた三面川とその周辺の景観がかなり変貌しているだろうとは想像していた。しかし、その変貌ぶりは私の想像をはるかに超えるものであった。三面渓谷を大きく跨ぐ新設の橋上に立った私は、しばし絶句したまま呆然と眼下の奥三面ダムの湖面を眺めやった。過ぎし日の三面渓谷の水の色には似ても似つかぬ灰褐色の湖水は、夏の太陽の下であるにもかかわらず重たく暗く淀んでいて、かつての生気の名残などまるで感じられなかった。ダムが完成し湛水が始まる直前の二〇〇〇年九月末にこの地を訪れてからまだ一年十ヶ月ほどしか経っていないというのに、この無残としか言いようのない変わりようはどうだろう。私は胸中で交錯する深い哀しみと腹立たしさとをどうすることもできなかった。(2000年9月20日〜10月4日のバックナンバー参照)
  以前には日本屈指の自然の宝庫と謳われ、神秘的な色にきらめく清流、緑豊かな森や林、景勝に富む奥深い渓谷、縄文の遺跡群、さらにはそれらすべてを抱き育む朝日山系の山々で知られた奥三面の地は、もはや感動のかけらさえも覚えることのできない平凡で殺風景な巨大人造湖と化していた。上高地梓川の水の青さをも凌ぎさえしたコバルトブルーの清流の大部分が奥三面ダムの湖底深くに沈んでも、かつての面影のいくらかくらいは偲べるであろうと期待しながら私はここへやって来た。しかし、そんな淡い期待は瞬時にして吹き飛んでしまったのだった。
  そこに残されていたのは奥三面の谷々の哀しい亡骸にすぎなかった。東京の多摩川の上流にある小河内ダムの水の色でさえも、いま目にしている奥三面ダムの湖水の色よりはずっとましだとおもわざるをえなかった。ダム建設後まだ二年足らずしか時間が経過していないというのに、これほどまでに周辺環境が一変してしまったという現実を目の当たりにして、私は心底愕然とするとともに、美しい自然の川が死ぬということがどういうことであるのかをあらためて思い知らされるばかりであった。
  北国の山岳地帯では、膨大な量の雪融け水とともに大量の土砂や植物性の腐葉土、樹々の落葉や小枝、倒木類などが次々に渓流中に流れ込む。だが、たとえそうであっても、以前のように川が生きていて絶間なく水が流れ動いているときには強力な自然の浄化力が働き、長期にわたって水が青黒く淀んだり灰褐色に濁ったりするようなことはない。そのいっぽう、大型ダムの出現によって水流を堰き止められ水の動きのとまった湖水では、土砂や腐葉土は次々と湖底に沈澱し、上流から流れ込む多量の有機物のため、もともとはどんなに澄んだ水であっても急速に富栄養化が進み、たちまち透明度を失ってしまうのだ。むろん、そんなことなど理屈としてはとっくに知ってはいたことだが、その凄まじい変容ぶりを現実に目にしてみると、そこから受ける衝撃の大きさはまた想像以上のものではあった。
  二〇〇〇年の十月五日に三面ダムの湛水がはじまるとダム周辺への一般人の立ち入りは禁止された。その後の様子を知りたいとおもい、昨年六月のある夜遅くに朝日スーパー林道側からダム方面へ入ろうとしたのだが、まだ通行止めになっており目的を果たすことはできなかった。しかも、その時は、まったくの偶然から、文字通りの手ぶら状態で、さらには折からの体調の悪さをおして朝日スーパー林道奥の西側に位置する石黒山に強行登山するハメになったのだった。(バックナンバー、2001年6月20日〜7月4日参照)
  結局、昨年はそのあと奥三面を訪ねる機会に恵まれなかったので、今年はなんとしてもとおもい、七月の初旬に再訪を試みたようなわけだった。今回は村上市から朝日スーパー林道伝いに入るいつものコースではなく、山形県南部の小国から五味沢の奥へと続く道を走り、途中から北に分岐する細い林道に入って蕨峠を越え、奥三面ダム本沢方面へとくだるコースをとった。
  蕨峠越えの林道は深い林を縫う狭いダートの道で、途中、急坂と急カーブの多い悪路だったが、周辺の景観はなかなか変化に富んでおり、樹林相も豊かなだったので、走っていて苦になるようなことはまったくなかった。蕨峠を越え、「あさひ湖」と命名されたとか聞いている奥三面ダムに下るまで、正直なところ、私は、それなりには青い湖面が見られるのだろうと考えていた。もちろん、摩周湖やオンネトーに見るような真っ青に澄んだ湖水の色を期待していたわけではなかったが、ダムの湛水がはじまる以前の三面川や本沢川の清流の青い輝きを知る身としては、いくらかでも青く澄んだ水面の輝きが残っているようにと願わざるをえなかった。
 しかしながら、実際に私を待っていたものは、灰褐色をした湖面の鈍く沈んだ輝きだけだったのだ。水没した旧三面渓谷を大きく跨ぐ現在の新しい橋は、私が二〇〇〇年九月末にこの地を訪ねたときにはまだ建造中であった。三面川沿いの道を谷奥へと向かって走りながら、はるか頭上でおこなわれている大掛かりな架橋作業を複雑なおもいで仰ぎ見たものである。皮肉なことに、いま私はその新橋の上から、かつて道路のあったとおもわれるあたりの水中をしげしげと見下ろすことになったのであった。もちろん、そうしたからといって水底深くに沈んだ旧道や三面川の河原などが見えるはずもないことはわかっていた。実際のところは、たとえどんな奇跡が起こったとしても、失われたものがかつての姿そのままに甦ることはもうないのだと自らにかたく言い聞かせていたのである。
  その新しい橋の端にある一対の支柱には、それぞれにマタギとカモシカのレリーフが嵌めこまれていたが、そういった発想そのものが空々しいかぎりではあるとおもわれた。かつてはマタギやカモシカがこの奥三面の谷の象徴であったと言い伝えたかったのであろうが、ごく最近まで曲がりなりにも生きていたこの美しい谷をこんな無残な姿に変えた当人たちの手によって、自然への畏敬のかけらさえも感じられないそんな小手先の細工がなされたことに私はやり場のない憤りを覚えざるをえなかった。
  二年前に水没直前の奥三面を訪れたとき、巨大ダムの工事現場には、「清らかな三面川、事故で汚すなダム仲間」と大書した大きな横断幕が張られていた。誰が考え出した標語なのかは知るよしもなかったが、私はそのうわべだけの自然讃美の言葉の裏側に潜む無神経さに唯々呆れ果てるばかりであったことを想い出す。ここ三十年来の我が国の大規模公共事業と建設行政の実態をこれほどに象徴している言葉はないと感じたからだったのだが、それとまったくおなじような無神経さをそれら二枚のとってつけたようなレリーフに感じたことはいうまでもない。
  人類史の流れのなかにあって、必要に応じて自然が徐々に改造され、それによって自然本来の姿が少しずつ変容していくことは仕方のないことだとはおもう。災害から地域住民を守るための治水、農業用水や生活用水の確保、さらには逼迫する電力事情の緩和に巨大ダムが絶対必要であり、地域住民も環境アセスメントの専門家もそのことを十分に納得しているというなら、ダム建設に敢えて反対はしない。
  しかし、この奥三面ダム建設に関しては、初めから終わりまでまるで納得がいかいことが多すぎた。建設推進関係者にとっては治水も用水確保も電力供給も実際のところはどうでもよく、明らかにダムを造ること自体を目的にした、より正確に言えばダム建設を通して巨額のお金が動くことだけを狙ったダム建設だったからである。近年の行政改革や構造改革の気運の高まりにつれ大型ダム建設の見直し論なども飛び出すなかで、三十年来の奥三面ダムの完成と湛水が異常なまでに急がれた裏にはそれなりの事情があったに違いない。
  国内有数の豊かな自然に恵まれた三面集落を半ば強制的に全面移転させ、美しい緑と清流と奇勝の数々からなる広大な渓谷を水没させ、その喪失を専門家も惜しんだ元屋敷一帯の貴重な縄文遺跡を消滅させてまで建設されたこのダムは、今後いったいどれほどに地域住民の生活に役立つというのであろう。このダムの建設目的が、治水用、生活用水確保用、さらには発電用とその時々の都合でくるくる変わったことからしても、その必要性が絶対のものではなかったことが窺われる。
  新潟県村上市の北側を経て日本海に注ぐ三面川水系には、すでに大型の三面ダムと猿田 ダムとが造られており、治水や各種用水確保の役割はそれら二つのダムによって十分に果たされていた。各方面からその目的の曖昧さを批判された新潟県や旧建設省の関係当局は、結局、この奥三面ダムを発電用ダムだと位置づけることにしたのだったが、素人目にもその主張に説得力があるなどとはおもわれない。
  奥三面ダムによって新たに生み出される電力は年間約一億三千万キロワット時とのことで、これを金額に換算すると年間およそ十七億円になるという。三面ダムの建設やその維持管理費に投入された資金はすでに一千億円を超えているから、その資金分を償還するだけでも単純計算で百年近くも要することになる。現実には投入資金に利息もかかることだろうし、ダムの耐用年数は百年前後でその間に発電施設のほうも老朽化してしまうから、とても採算の合う話ではない。
  しかも、すでに数多くの水力発電所があり電力事情も悪くはない新潟県が、このダムの発電能力にそれほど依存しなければならなかったとは考えられない。また、私自身がこれほどまでにと驚くほどに変わり果てた眼前の風景は、とても観光資源などにはなりそうにもない。湛水開始後二年足らずでこの有様だから、湖底にはどんどん泥土が溜まり、水質は有機化して事態はいっそう悪くなるいっぽうだろう。
  やりきれない想いに駆られながらも、私はいま一度なんとか気持ちを奮い立たせ、以前に歩きまわった三面渓谷の上流地帯を再訪してみることにした。ダムの湖面が谷奥のどのあたりにまで達しているのか、湛水開始直前に渡ったあの想い出深い吊り橋やその下を流れていた清流はどうなってしまったのか、栗林やそのさらに谷奥にあるブナ林はかつてのままで残っているのかなど、いろいろと気になることがあったからだった。そして、なかでもとくに気掛かりだったのは、二〇〇〇年九月末の探訪の際に急斜面に生い茂るブナ林の深い藪地を掻き分けで降り立った美しい渓流や河原が、その後どうなっているかということだった。
  あのとき泳いだコバルトブルーの淵や石英質の白砂と純白の玉石からなる河床はいまどうなっているのだろうか、さらにまた、その河床の上をサラサラと快い音を立てながらきらめき流れ下っていた、あの青く澄んだ幻想的な清流はなおも健在なのだろうか――私はそれらの存在の無事を祈りながら、水没した三面渓谷の左側を上流に向かって遡行しはじめた。


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