「マセマティック放浪記」 2002年7月10日
Mathematics Odyssey July 10, 2002
大学進学ルートの多様化
に思うこと

  これまで、中学卒業資格しかない者や高校中途退学者などが大学を受験するには、大学入学資格検定試験を受け、それに合格しなければならなかった。大検は絶対評価に基づく試験で出題内容も各教科の基礎的事項が中心の試験であるから、それ自体はけっして難しいものではないのだが、試験科目が多数の教科にわたることなどもあって、複雑な生活事情や心理状況のもとで日々を送っている受験希望者がその試験に合格するのはかならずしも容易ではなかった。
  学校教育法においては、大学入学有資格者を「高等学校や中等教育学校卒業者、またはそれと同等以上の学力があると認められた者」と定めており、その条文後半の「それと同等以上の学力があると認められた者」という基準を満たすには大検合格が必要な条件であるとされてきた。
  だが、近年の社会状況の変化にともない、文部科学省もこれまでの方針を一部変更し、インターナショナルスクールや朝鮮学校など外国人学校の卒業生については大検に合格しなくても大学受験を認めることにしたようである。また、高校中退者や中学卒業者についてもなにかしらの救済処置を講じ、かならすしも大検合格を条件としないで大学受験に臨めるようなルートを設定するよう検討を進め始めた模様である。しかし、こちらのほうについては、結論が出るまでにまだ時間を要すると考えているのだそうだ。
  そんな折、東京都立大学が、大学入学資格のない者でも大学指定の授業で好成績をおさめれば大学入学が可能となる「チャレンジ入試」を二〇〇四年度から導入すると発表した。同大学は、「大学において、相当の年齢に達し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者」という学校教育法の施行規則を根拠にして独自の入試制度を実施するのは可能だと判断したようだ。
  新聞などで報道されているところによると、満十八歳以上のチャレンジ入試受験者に四月から八月にかけて都立大指定の授業を受講してもらい、履修成績や面接を踏まえたうえで若干名の入学を認めるのだという。二〇〇四年の入学にそなえ、まず来春は法学部と理学部で同方式による受験生の登録がおこなわれるらしい。
 「中学卒業後に高校進学しなかったり、高校にうまくなじめずに中途退学した者のなかにも、なお学ぶ意欲をもっている者は少なくない。そのような人々に道を開き、単に暗記力のみを有する学生ではなく、多面的に思考できるような学生を選び、その能力を伸ばしたい」というのが、東京都や都立大学側の意向なのだそうだ。誰の発案かは知らないが、杓子定規の事なかれ主義を常としてきた教育行政当局者にしては、驚くほどに大胆かつ斬新な対応ぶりだと言ってよいだろう。
  もちろん、その新規の制度による入学者数はごくかぎられたもにならざるをえないだろうし、専門的な立場から受験希望者の本質的な能力を問う必要上、選考基準は厳しいものとなり、それなりに高度な知識や判断力の有無など試されるに違いない。だが、たとえそうであったとしても、このような入試制度が設けられることはおおいに歓迎すべきことである。他大学にも影響の及ぶ問題だけになにかと細かな事前調整も欠かせないことだろうが、せっかくのことだから、ぜひとも文部科学省当局の柔軟な対応を期待したい。

  放浪記とは無関係な入試制度問題について書く気になったのは、本質的な能力があるにもかかわらず、大学受験資格がなかったばかりに、大学進学を断念したり、大学に入るまでにずいぶんと青春の貴重な時間を浪費したり、またそうでなくても、その能力について一時的には不当な評価を受けた若者たちをずいぶんと知っているからだ。詳しい経緯や具体的内容について述べるのはこの場では差し控えたいが、様々な理由で中学や高校時に不登校状態に陥った生徒たち、高校の中退者、さらにはあるときから突然学ぶことに目覚めた中卒の社会人といったような若者たちに直に接し、その面倒をみる機会が過去私にはいろいろとあったのだ。
  学ぶことになお強い意欲を抱く中卒者や高校中退者などのなかには、大きな潜在的能力を秘めた者が少なくない。とくに複雑な家庭的事情や経済的事情のために就学を断念した地方出身の中卒者や高校中退者などのなかには、もともと高い学習能力をそなえもっている者が数多く見うけられたりもする。また、高校での授業や生活に馴染めず不登校状態になり、単位不足などになって結局退学のやむなきにいたった者などには、物事の根源や本質に徹底的にこだわるじっくり型の思考タイプが少なくない。ある特別の分野だけには抜群の能力を発揮するが他の分野の教科はまるでだめというアンバランス型や、推理力、観察力、創造力などは秀でているものの、暗記力依存の教科はどんなものも生理的に受けつけないという日本的教育適応不能型なども相当数含まれているようだ。
  中途半端な決断力しかもたなかったがゆえに不登校にもならず退学もしなかったが、物事の根源にこだわる性格のわりには成績はかんばしくなく、青息吐息状態だった私自身の高校生活は、そういった類の若者たちの状況とかなり重なるところがある。当時まともな英語教育など期待すべくもなかった離島の中学出身の私は、進学した鹿児島の高校では英語の劣等生だった。おかげでずいぶんと劣等感を味わったりもした。いまではもう誰も信じてくれはしないのだが、実際にそうだったのである。
  物理の時間には、なぜ力の大きさを f=mα という式で表わさなければならないのかにこだわり、化学の時間にはアボガドロ数がなにゆえそんな変な数になるのかと考え込み、ちっとも先に進めなかった。「そんな簡単なことがわからないのなら理系には向かない。仕方がないからそんなものだと暗記せよ」といわれても、モヤモヤして納得がいかないものは納得がいかず、最後には「おまえは木だけを見て森を見ていない」というお言葉まで頂戴した。それらがけっして簡単な問題などではなく、その定義や数値の決定には物理や化学の根源的な大問題が隠されていること、換言すれば「森を見て木をみない」こともまた問題であることを知ったのはずっとのちのことである。
  心の支えがほしかったため小説や随筆の類は洋の東西を問わずいろいろなものを読み漁っていたが、読書感想文や作文を書く国語の宿題は大の苦手で、一度もまともに課題を提出した記憶がない。それがいまこうして曲がりなりにも人様に読んでもらうための文章を綴っているわけだから、人生とはほんとうにわからないものである。世界史の時間などには、諸々の事件項目やそれらが起こった年代をひたすら記憶することよりも、どうやってそんな遠い昔のこまごまとした出来事がそれほどに疑う余地のない事実とわかるのだろと考え込むことのほうが多かった。その当然の結果として試験の点数は散々だった。
  数学はというと、とことん定義にこだわっていたようにおもう。定義や定理をそんなものだと受け入れてしまえばとりあえず高度な問題も解けるのはわかっていたが、なんでこんな定義をしなければならないのかと考えはじめると収拾がつかなくなった。「サイコロのそれぞれの目が出る確率はいずれも六分の一である」ということが厳密な意味で成り立つためには、「どの目も均等に六分の一の割合で出るサイコロが存在するとすれば」という暗黙の大前提がなくてはならないということに気づくと、確率というものの意味がなんだかよくわからなくなったりもした。結局、それは「人間は人間である」というトートロジイ(同語反復)と同類であるとおもうにいたると同時に、そもそも、そんなサイコロを誰がどうやってつくるのかという根本的な疑問にぶつかり、堂々めぐりに陥った。
  まあ、そんな具合で、高校生の私は、受験に必要な知識をすんなりと受け入れ、それらを無条件に暗記するという受験適応型の優等生ではなかったから、なにかと手のかかる生徒ではあったに違いない。ただ、そんな経験のおかげで、のちになって、学ぶ意欲や本質的な思考力はあるにもかかわらず通常の中等教育コースにうまく適応できなかったり、はじめから無縁だったりした若者に接する機会があったとき、彼らのおかれた心理的状況のをかなり的確に把握することはできたのだった。
  標準的教育コースからドロップアウトした生徒たちは、次第に親を含めた周囲の大人たちから諦めの眼差しで見られるようになり、やがて将来への過剰な期待からも断片的な知識を詰め込む受験教育からも解放される。ところが面白いことに、そんな状態が彼らにプラスにはたらくこともある。
  通常の学校教育カリキュラムを無視して、私なりに彼らを指導するうちに、そのなかからだけでも様々な能力を示す者が現れた。受験レベルの数学を通り越し大学レベルの数学の学習に夢中になる者、物理科学の特殊な領域に並外れて強い関心を示す者、小説、エッセイ、社会科学書などの原書をどんどん読み進む者、高度な文学書や哲学書、歴史書などを読んでは、それらに関する原稿用紙五十枚百枚のユニークなレポートをすらすらと書いてしまう者、さらには三百枚近くの自作小説を仕上げる者などといろいろだった。
  そこまではよかったのだが、オールラウンドではないけれど個性的な能力を発揮する若者たちが、より高度な学びの場を大学に求めようとしたとき、彼らの前に立ちはだかったのが、大学入試資格検定試験と、雑多でやたら断片的な知識を求める大学入学試験という二重の大きな壁だった。もともとその種の試験には性格的に不向きであるうえに、いまさら何教科にもわたる暗記中心の受験勉強などには戻れないという強い思いが心の奥にはたらくから、よほど覚悟して心理的妥協をはからぬかぎり、その壁の突破は彼らにとって容易ではなかった。
  もちろん、なんとかその二重の壁を突破し、いまでは大学の教官やさまざまな分野のスペシャリストになっているものも少なくない。しかし、現実にはせっかくの能力を開化させかけながら挫折していった者のほうがはるかに多かった。たとえば、もうかなり昔のことではあるが、高校中退者であったにもかかわらず、数学のある分野のきわめて高度な知識修得に意欲を燃やす十八歳の男の子に出逢ったことがある。明らかに特異な才能を持っていたと思われるこの生徒は、すでに普通の数学科の大学生などよりも力があったとおもわれたのだが、結局のところ、私には彼の前途をひらいてやることはできなかった。制度の壁のゆえに挫折した彼は一時期ラーメン屋の店員を務めたりしていたらしいのだが、やがてその消息はわからなくなった。
  まだ、試行的なものであるにしろ、今回の東京都立大学におけるチャレンジ入試の導入は大変評価すべきものであると私自身は考える。それでなくても不登校者の数が増大している昨今の状況をおもうと、時代に対応した多様な大学進学ルートがあってしかるべきだろう。多くの大学が同様の制度の導入に関心を示すようになれば、普通のルートからはいったんドロップアウトしたとはいえ、本質的には通常の大学進学者に勝るとも劣らぬ能力をもつ若者を救済できるようになるに違いない。それはまた、直接間接を問わず、将来の我が国の発展にもつながることでもあるだろう。



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