「マセマティック放浪記」 2002年6月26日
Mathematics Odyssey June 26, 2002
宮沢賢治の手紙

  この六月の毎週水曜日の午後、府中市生涯学習センターにおいて、市民を対象としたやさしい宇宙科学講座の講師を務めさせてもらっている。市の講座企画担当者から講師の依頼をうけたとき、ウィークデイの午後の、しかも、ちょうどワールドカップ・サッカーと重なる時間帯に、実生活にはなんの関係もない宇宙科学講座に顔を出してくれる人があるのだろうかと、正直なところ内心ちょっと心配になった。今後を睨んだ先導試行的な意味合いもあるので受講者の数はあまり気にしないでほしい、という担当者の言葉を信じて一応は了承したものの、そのいっぽうで、もしも応募者がゼロだったらこちらとしても立つ瀬がないなというおもいもあった。
  講座の時間帯が時間帯であったから、受講者の平均年齢が六十二歳とかなり高めになったのはやむをえないことであったが、こちらの予想に反し、講座を維持するのに十分な数の受講希望者があった。高齢の男性諸氏に混じって主婦や若い女性の姿などもちらほら見られ、幸いにして当初の心配は杞憂に終わったのだった。講義がつまらなかったり、難しくなりすぎたりし、途中から集団催眠術体験講座になってしまったらどうしようかともおもったが、実際には大変熱心に講義に耳を傾けてもらうことができたので、その点でもまずは安堵したようなわけだった。
  この講座の話の中でちょっとだけ宮沢賢治の宇宙観に触れようと思い、書架の資料をあさっていると、ずいぶん昔に知人を通して入手した賢治直筆の手紙のコピーがみつかった。そんなものがあったことなどすっかり忘れていたのだが、偉大な詩人作家を偲ぶにはまたとない資料なので、話のタネにと、受講者の皆さんにも紹介してみることにした。
  それは、昭和六年二月、宮沢賢治が当時東京の西ヶ原というところにあった農林省農事試験場勤務の関豊太郎という人物に宛てた便箋三枚ほどの私信のコピーだった。宮沢賢治の年譜を調べてみたところ、関豊太郎という人物は賢治が盛岡高等農林学校研究科に学んでいた頃の恩師であることが判明した。農学博士であったこの関豊太郎指導のもとで、まだ二十二歳の向学心旺盛な青年だった賢治は、地質土壌と肥料の研究に携わり、稗貫郡の土性調査を委託されたりもしたようでる。この手紙の書かれた昭和六年には賢治は三十五歳になっているから、恩師関豊太郎に指導を受けていた頃からその時までに十三年の歳月が流れ去っていたことになる。
  この手紙の筆跡にみるかぎり、賢治の字はたいへんに個性的であったといえる。当時の知識人の多くが用いた草書あるいは行書による連綿体の文字ではなく、多くの現代人の筆跡同様、どちらかというと楷書体に近い感じで一文字一文字が分かち書きにされている。独特の丸みを帯び、大きくてかなりアンバランスなその文字は、お世辞にも達筆とは言えそうにない。当時のことだから、表面的なものの見方しかしない大人たちなら、結構な歳をしているのになんとも稚拙な文字だと陰口さえ叩いたことであろう。しかし、よくよく眺めてみると、それらは不思議にあたたかみのある字なのである。
  天才と呼ばれる人間にままありがちなそんな字体で、賢治は便箋三枚にわたるその手紙文をひといきに書き上げたようである。かなり息の長い手紙文の流れからも、また最後までまったく段落も改行もなしに文章文全体が綴られていることからも、そのことを窺い知ることができる。したためるべき文章の概要を瞬時に頭の中で構築し、便箋をまえにしてすらすらと筆を運んだのであろう。もしかしたら、無段落で手紙文を綴るのは賢治にとって習慣的なことだったのかもしれない。ついでだから、その手紙の全文を紹介しておくことにしたい。


永々ご無沙汰いたし居りました処、本年は寒さ殊の外嚴しく悪性の感冒などもしきりでございましたが先生並びに皆様にはお障りございませんでせうか。虔んでお伺ひ申しあげます。扨(さて)紙面を以ってまことに恐り(原文のまま)入りますが、年来のご海容に甘えお指図を仰ぎたい一事は本縣松川村東北砕石工場より私に同工場の仕事を嘱托(嘱託に同じ)したいと申して参りました儀でございます。同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰五四%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉石灰岩末及壁材料等を一日十噸位づつ作って居りまして、小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ出し昨年は宮城縣農會の推奨によって俄かに稲作等へも需要されるやうになったとのことでございます。就て(つきまして)この際私に嘱托(嘱託に同じ)として製品の改善と調査、広告文の起草、照會の回答を仕事とし、場所はどこに居てもいいし給年六百円を岩末で拂ふとのことでございます。それで右に應じてよろしうございませうか、農藝技術監査の立場よりご意見お漏し下さらば何とも幸甚に存じます。尚石灰岩末の効果は専ら粒子の大小にあると存じますが稲作などには幾ミリ或は幾センチ位の篩(ふるい)を用ひてよろしうございませうか、いづれにせよ夏までには参上拝眉いたしたく紙面を以って失礼の段は重々お赦しねがひ上げます。ご多用の場合かとも存じ同封葉書封入致し置きました。単に一方で抹消下さる迄でもねがひあげます。まずは。

                     昭和六年二月廿五日
                            宮沢賢治
  關豐太郎先生


  恩師関豊太郎に仕事上の判断を仰ぐきわめて実務的な手紙ではあるが、この手紙をしたたためてから二年半後に賢治が他界したことをおもうと、深い感慨を覚えざるをえない。賢治はかなり以前から肋膜を侵されており、このときまでに幾度も療養を繰り返していた。この手紙を恩師に書き送った前後、彼は一時的に小康を得ていたようである。関豊太郎がどのような返信を送ったのかは知るよしもないが、三月に入って正式に東北砕石工場技師に嘱託されているところをみると、恩師の関からはその仕事を引き受けてみたらどうかとの返答があったのだろう。
  三月から八月にかけて、賢治は炭酸石灰の製法改良と販売の業務に従事し、宣伝のため秋田、宮城、福島をはじめとする東北各地をめぐり、九月には東京までその足をのばしている。仕事はどこにいてやってくれてもよいという条件下で年俸六百円の待遇というと当時としてはなかなかのものだが、前掲の手紙にみるかぎり石灰岩末の現物支給だったようだから、売り捌かなくてはお金にならなかったはずで、その点でも苦労は尽きなかったことだろう。
  九月に入ると賢治は炭酸石灰製品見本などを携えて上京した。「夏までには参上拝眉致したく」と手紙にも書いているところをみると、予定よりは遅れたものの、たぶん、この時に関豊太郎にも会うつもりでいたのだろう。しかし、神田区駿河台南甲賀町十二番地(現在の千代田区神田駿河台一丁目四番地)八幡館に到着とともに発熱臥床し、数日後になんとか帰郷するが、再び体調が悪化し床に伏してしまった。
  のちになって明らかになったことだが、死期の近いことを察知した賢治は、この上京の際に遺言の書簡をしたためている。また、同年の十一月には、死後に遺言の書簡とともに発見された手帳の中に、有名な詩「雨ニモマケズ」を書き記してもいる。翌年の昭和七年から他界した翌々年の昭和八年九月まで、賢治は病床にありながらも、「グスコーブドリの伝記」をはじめとする数々の作品の執筆に精魂を傾けた。伝えられるところによると、彼はまた、そのような状況下での作品執筆の合間に、なんと高等数学をも学ぼうとしたのだという。その有様はまさに、宮沢賢治という稀代の精神の発した美しくも悲しい最後の光芒ともいうべきものであった。
  確実な足取りで刻々と迫り来る死の影を察知していた賢治の心魂は、「雨ニモマケズ」という詩をよんだとき、すでに達観とも諦念ともつかぬ領域に踏み入っていたに違いない。
そんな背景を念頭におきながら、そのあまりにも有名な詩を読みなおしてみると、これまでとは一味違った新たな感銘が湧き上がってくるような気がしてならない。そう言われても、出だしの部分くらいしか憶えていないという方も多かろうから、もう一度その詩の全文を記してこの稿の結びとしたい。


<雨ニモマケズ>   宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ



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