「マセマティック放浪記」 2002年6月5日
Mathematics Odyssey June 5, 2002
自詠旅歌愚考(七)

大悟なき身にも刹那の春ありて
     慈恩の庭に光る静けさ
              (北鎌倉東慶寺)

  春の観光シーズンということもあり、かなり混雑の予想された北鎌倉だったが、あたり一帯は拍子抜けするほどに静かで、人影もまばらだった。北鎌倉駅から円覚寺に向かい、同寺をひとめぐりしてから東慶寺方面へと足を運んだ。東慶寺の総門へと続く石段をのぼりつめる頃には、春の陽光はいちだんと明るさを増し、北鎌倉の谷間全体が黄緑色に輝きはじめた。
  学生時代以来、折あるごとに訪ねてきた東慶寺だが、どこかもの寂しい雰囲気の漂っていた昔とは違って、近年はこのお寺もいわゆる庭園寺院風の佇まいを呈するようになってきた。庭の隅々までこまかく手入れが行き届き、以前のうらぶれた感じがなくなったせいなのであろうか。鎌倉時代を描いた大河ドラマなどでも北条時宗夫人ゆかりの寺として有名になり、来訪者も増えたようだから、やむをえないことではあるのだろう。
  東慶寺は時宗の妻、覚山尼が弘安八年(一二八五年)に創建したと伝えられ、覚山尼が入寂すると、その墓所はこの境内の奥に建てられた。その後も後醍醐天皇の皇女用堂尼や豊臣秀頼の娘の天秀尼など代々名門出身の女性が住職を務めてきた。明治三十五年になってはじめて男僧寺に改められ、臨済宗円覚寺派の寺として現在にいたっている。
  北鎌倉松ヶ岡の一角に位置するこのお寺は、東慶寺という正式の名称で呼ぶより、「縁切り寺」とか「駆け込み寺」とかいう俗称で呼んだほうが世間の通りはよいだろう。天秀尼が徳川家康に縁切り制度の維持を願い出て許され、「縁切り寺法」なるものが定められて以来、明治にいたるまで、この寺は夫の横暴に苦しみ絶望の極みに追い込まれた多くの女性たちを救ってきた。
  江戸時代以前の封建時代においては、一般に妻の側からは夫を離縁することが許されていなかった。そのため、不幸な結婚生活に苦しむ女性たちは数知れなかったようである。そんな社会状況下にあって、過酷な結婚生活に苦しむ女性たちを救うことができるのは、「縁切り寺法」の運用を許されているごくわずかな尼寺だけであった。かつての東慶寺はそういった特殊な役割をもつ尼寺の代表格だったのである。
  いったん縁切り寺の山門内に駆け込めば、たとえ夫といえどもそれ以上は手が出せない定めになっており、夫の追尾を振り切って運良く寺内に駆け込んだ女性たちは、そこで三年間の修行を積みさえすれば公に離縁が認められ、晴れて自由の身となることができた。真偽のほどは定かでないが、一説によると、山門に逃げ込む寸前でたとえ追っ手に掴まっても、履物を寺内に投げ込むことができれば、それで駆け込みが成立したものとみなされていたという。
  寺の境内には、本尊の釈迦如来坐像を安置する泰平殿や水月堂という観音堂、さらには、松ヶ岡文庫あるいは松ヶ岡宝蔵と呼ばれる文化財の展示収納庫などがある。この宝蔵には、聖観音立像や初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも)などの重要文化財のほか、東慶寺の東慶寺たるゆえんでもある縁切り文書の類などが展示されている。
  最近は、「関係者以外は立ち入りをご遠慮ください」という表示がなされたりもしているようだが、竹林の脇を通って境内をずっと奥のほうに進むと、一群の石碑の立ち並ぶ墓地にでる。意外におもわれるかもしれないが、この墓地にはかつて一時代を築き上げた錚々たる先人の霊が眠っている。そもそも、私が学生時代に初めてこの寺を訪ねたわけは、お寺そのものを拝観したかったからではなく、この地に眠る二人の先哲の墓参りをしようとおもったからだった。
  哲学者西田幾多郎、同じく哲学者の和辻哲郎、学習院大学長を務めた安部能成、禅の教義を世界に広めた鈴木大拙、さらには作家の高見順、岩波書店の創始者岩波茂雄などといった高名な学者や文人たちの墓が立ち並んでいるのだが、そのうちの西田と和辻の墓に詣でるのが当初の私の目的であった。だが、何度もここを訪ねるうち、結果的には他の先哲たちの墓にも一通り詣でることになり、また、縁切り寺としての東慶寺の詳しい由来や、付属する松ヶ岡文庫の存在などをも知ることになった。
  和辻哲郎の死後数年してから、その妻、和辻照によって著された「和辻哲郎とともに」(新潮社刊)という書の中には、たしか、和辻やその学者あるいは文人仲間が東慶寺の墓地を購入するにいたった経緯を手短に述べたくだりがあったようにおもう。それによると、和辻らは特別な意図や思い入れがあって東慶寺に墓地を求めたわけではなかったようである。実際のところは、同寺内の墓地が分譲されているという話がたまたま仲間内に広がり、立地条件も抜群だから、どうせなら一緒にどうだろうというわけでそのようなことになったものらしい。
  和辻哲郎が他界したのは昭和三十五年十二月末のことで、私が九州から上京した年でもある翌昭和三十六年の二月にはその遺骨は東慶寺の墓所に納められた。「和辻哲郎とともに」を読んだ翌年か翌々年のお彼岸の頃だったとおもうが、東慶寺を訪れていた私は、墓参にみえていた和辻照さんの姿を偶然に拝することになった。著作の中には和辻夫妻の写真も一緒に掲載されていたので、その気品ある老婦人が照さんであることはすぐにわかった。
 「和辻哲郎とともに」の中では、哲郎とその親友だった阿部次郎との間に起こった確執についてもすこしだけ触れられている。どうやら、「三太郎の日記」の筆者として知られる哲学者の阿部次郎が照さんに好意を抱くようになり、それが原因で和辻と阿部とは訣別するにいたったらしいのだ。一世を風靡した大哲学者たちも生身の人間にほかならなかったことが窺い知られ興味深く感じたりもしたものである。

  いささか私的な想い出話になって恐縮だが、和辻夫妻の生活の記録を綴ったその本の中には、いまひとつ驚くべき発見があった。「三田綱町」という章があり、その冒頭は「引越した家は三田綱町一番地。慶応義塾の裏門から三ノ橋の方へぬける裏通りのはずれ、大通りへ曲がる角にあった……」という記述になっていたのである。そして、それに続く文中には、借家住まいだったその頃の苦労譚のほか、住んでいた家の庭や周辺の様子などが克明に記録してあった。それによると、大正七年から大正九年までの三年間、まだ若かった和辻夫妻は、この三田綱町一番地にある古くて大きな二階造りの建物の一部を借りて住んでいたらしいのだ。
  話は少々前後するが、十八歳のときに上京した私にとってもっとも血筋の近かった親類は、母方の祖父の弟にあたる和田正平という人物であった。かなり遠縁ではあったのだが、近親者をすべて失っていた私にすれば親戚と呼べるのはこの人くらいのものだった。東京第一弁護士会創立メンバーの一人で、すでに八十を超える高齢であったにもかかわらず、国選弁護人の仕事を中心に当時もなお弁護士活動を続けていた。
  一時代前の法曹界ではかなり名の通った名物弁護士ではあったようだが、自身は終身借家住まいに甘んじ、貧乏生活に徹しながら、仕事中に倒れて死ぬまで社会的弱者の救済と後進の育成に奔走した。一徹なところがあったから、伝説的武勇伝にも事欠かなかったようで、若い頃には、あまりにも理不尽な論述を展開する検事に向かってコップの水を浴びせかけたりもしたらしい。
  終戦直後のこと、弁護士仲間が皆怖れるヤクザ相手の仕事を引き受け、交渉のため単身神田の組事務所に乗り込んだ。長テーブルの置かれた細長い部屋の最奥に通され、テーブルの両側には通路を塞ぐかたちでヤクザの親分や配下たちがずらりと並んで席に着いた。何人かの者は話し合いに入る前からドスをちらつかせ、無言で凄みをきかせてもいた。
  交渉は当然のように進展せず、ならばと席を立って帰ろうとすると、相手は皆で通路を塞ぎ、なかの一人がドスを突きつけ大声で脅迫しながら妥協を迫った。次の瞬間、内に激しい気性を秘めたこの人物は、「おまえらみたいなクズとまともな話ができるか!」と一喝するやいなや、土足のままでテーブルの上にのぼり、両側に居並ぶヤクザの面前をそのままスタスタと歩いて外に出てしまった。あまりの気迫と豪胆さにさしものヤクザたちもしばし圧倒されてしまい、誰ひとりとして手を出そうとはしなかったという。そのことが契機となって結局相手側が折れ、係争はめでたく解決したのだそうだが、一時期、その話は弁護士仲間で語り草になっていたそうである。
  上京直後の一時期だけだったが、私はこの一風変わった人物の住む古い借家の二階部屋で寝起きをさせてもらったことがある。それは、戦災でも焼け残った古く大きな木造家屋の一部で、いまにも崩れそうなばかりか、都会の真中だというのに時には南京虫までが出没するという恐るべきところでもあった。頑固なまでに清廉潔白を貫いた代償が南京虫の同居するボロの借家住まいというわけだったから、家族のほうも大変だったようである。 現在ではあたりはすっかり近代化し、町名のほうも三田綱町から三田四丁目に変更されてしまっているようだが、なんとその借家の所在地こそは、港区芝三田綱町一番地にほかならなかったのだ。位置的には慶応大学裏門から徒歩一分ほど、より正確に言うと、慶応女子高等部の南側に隣接する角地であった。
  もちろん、私の大伯父にあたるその人物が三田綱町に住むようになったのは戦後になってからのことで、ずっと以前の住人だった和辻夫妻とはなんの関わりもなかったのだが、たとえそうだったとしても奇縁であるには違いなかった。上京直後、三田綱町一番地のその家に一時的に私が身を寄せるようになったのとほぼ同時期に、和辻哲郎の遺骨は東慶寺の墓中に納められたようである。
  九州から上京したてのその頃、私はまだ和辻哲郎という先哲の名前すらロクに知らなかったわけで、まして、その人物が自分の寝起きしていたのと同じ場所に住んでいたことがあったなどとは、たとえ想像しようにも想像できるはずがなかった。私がそこに身をおいていた頃も庭先には一本の大きな柿の木が生えていたのだが、その柿の木にまつわる照さんの想い出話なども「和辻哲郎とともに」の中には登場していたのである。
  大伯父は当然私に対しても厳しく、けっして甘えは許されなかったから、東京の様子一通りわかるとすぐに大森の古い四畳半アパートへと引っ越した。そんなわけだから三田綱町一番地に私がいたのはごく短期間にすぎなかったが、それでも、ずっとのちになって同地にまつわるそんな事実を知ったときの驚きはひとかたならぬものであった。
  学生時代に端を発するそんな回想にひたりながら境内を歩きまわるうちに、春の陽光はいっそう明るさをまし、心地よい暖かさをもって全身を照らしはじめた。たとえ一瞬のことではあっても、この東慶寺の至福に満ちた春の静寂は、終生悟りの世界などとは無縁であるに相違ない吾が身の煩悩の数々を払い浄めてくれるような気がしてならなかった。昔この庭に駆け込んだ女たちの苦悩を温かく包み救ったこの慈恩の寺の静けさが、いまでは、煩悩と煩悩のぶつかりあいそのものの生の戦いに傷ついた男どもの魂をも包み浄めてくれている。よくよく考えてみると、それはなんとも不思議なことではあると言えた。

  そんなささやかな心境を稚拙な歌に托したりしながらさらに境内をあちこちとめぐり歩いているうちに、明治生まれの歌人、四賀光子の歌碑の前に出た。さすが一流歌人の詠んだ歌は、我流の域を一歩も出ることのない私の幼稚な歌などとはまるで格が違っている。
  ――救いを求めて魂の叫びを発する者たちに向かって「こちらへいらっしゃい」と導きかける、大慈悲に満ちた声なき声が、どこからともなく、しかしはっきりと時空を超えて響いてくる――そんな情景を的確に詠みきった光子の才能には、さすがと脱帽するしかなかった。そして、如何ともし難い彼我の力の差を痛感させられた私は、唯々気恥ずかしくなって、その歌碑の前からこそこそと退散する有様だった。大きな石の碑面には、四賀光子の次のような一首が深々と刻まれていたのである。

流らふる大悲の海によばふこゑ
    時をへだててなほたしかなり
              四賀光子

                                      絵・渡辺 淳

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