「マセマティック放浪記」 2002年4月17日
Mathematics Odyssey April 17, 2002
ドラキュラ邸追想記(三)

  七ヶ月ぶりに足を踏み入れた石田邸の屋内は深い沈黙に包まれ、ひたすら静まり返っていた。電源が切られていて照明器具はいっさい使えなかったので、ガラス戸や小窓から差し込む自然光だけが頼りだった。ゲストルームやリビングの様々な調度品や家具類はすべて片付けられたあとで、ガランとした室内には暗く冷たい空気だけが重々しく漂っているばかりだった。
  最後に石田翁と会った部屋に入ってみると、小ぶりの本棚ひとつをのぞいては、老翁の仕事机もベッドもみな運び出されてしまっていた。壁面のあちこちに飾られていた美術写真や珍しいポスターの類などもすべて外されたり剥がされたりしており、かつてこの部屋に棲息した奇人の姿を偲ばせるものはもう何も存在していないように思われた。
  しかし、室内の薄明かりに目が馴れてくると、そんな奇人が存在していたことを明瞭に示す痕跡が、いまもこの部屋には二つだけ残されていることが判明した。そのひとつは小ぶりな本棚にぎっしり詰まった状態で立ち並ぶ数々の洋書だった。私がよく寝泊りしていた部屋の本棚や、そこに並んでいた和書類のほうはもうどこにも見当たらなかったが、どういうわけか洋書だけが意図的にまとめられ、そこに残されたもののようだった。以前は洋書と和書とが入り混じった状態であちこちの部屋の棚などに並べ置かれていたから、老翁の逝去後に俊紀さんの手で洋書だけが一箇所に集められたのであろう。
  石田翁は、BBC放送記者としてロンドンに滞在中、のちに研究社の英和辞典の編集者としても名を馳せる故小川芳男東京外語大教授を自室に住まわせ長期間面倒をみていたこともあって、「小川君」と「君」づけで呼ぶほどに小川氏とは親しかった。また、「風と共に去りぬ」の名訳者として知られる故大久保康雄氏とも旧知の仲だったし、すでに述べたように加島祥造元横浜国大教授などとも長年にわたる親交があった。
  そんな縁もあって、イギリスから帰国してからは、国内での仕事の一環として、そういった高名な英米文学者たちの翻訳の仕事を手伝ったりしてもいた。自分の名を表に出すことを嫌った老翁は共訳者として刊行書に名を連ねることはなかったが、実質的に翁が訳した本は八十余冊に及んでいる。シャーロック・ホームズものを中心に石田翁が翻訳を代行していた大久保康雄氏の場合は、初版分の印税はすべて老翁に渡し、再版以降の印税を本人が受取るようにしていたそうである。
  本棚に並ぶ洋書群の背表紙をちらっと見やっただけで、リング・ラードナー、デーモン・ラニアン、アガサ・クリスティ、コナン・ドイル、サマセット・モーム、フォークナーといった英米の著名な作家たちの名前が次々に目に飛び込んできた。とくに、「野郎どもと女たち」や「マンハッタン物語」などで知られるデーモン・ラニアンの名を目にした時は、あの折も石田翁はその作者の短編かなにかを訳している最中だったよなと、初対面の日のことを懐かしく想い出した。
  老翁がかつてこの部屋で暮らしていたことのいまひとつの証は、壁面に彫り描かれた奇妙な樹系図とグラフ、それに「TREES」というタイトルの一篇の英文詩であった。石田翁は、生前、日々の歩行数を万歩計でカウントし、それを距離に換算したデータをもとに、奇妙な樹系図を板壁に描き刻んでもいた。詳しい描画ルールの説明は省略するが、要するに、歩行距離がのびるにしたがい樹形図の枝が怪異な形をとりながら徐々に成長する仕組みで、いくつかのすでに伸び切った枝の先端には日本各地の都市名が表記されていたりもした。すでにかなりの大樹にまで成長を遂げていたその異様な樹系図は、不可思議な存在感をもって我々来客の目を奪ったものだった。しかし、もうその怪樹系図の枝もこれ以上成長することはなくなった。
  樹形図の上に横長に描かれた日付目盛入りの折れ線グラフは、石田翁の感情の起伏をもとにした一種のバイオリズムを図式化したもので、独特の色分けがなされており、怪樹の枝先との相乗効果によってなにやらミステリアスな雰囲気を室内に醸し出していた。初めての来訪者などが呆れ顔でその不可解な壁画作品に見入るのを、老翁はニヤニヤしながら横目で眺めたりしていたものだが、もうそれも過去の話になってしまったのだった。
  「TREES」という英詩は石田翁自身の作った詩であった。英語を自由自在に操ることのできた老翁は、何篇も英詩を書いていたようである。そのなかの一篇を黒のフェルトペンを用い、自ら樹系図の右下に書き記したのがこの詩「TREES」であった。生前の石田翁は草花や樹木をこよなく愛していた。「近頃のドラキュラは美女の生き血ではなく、若木の樹液を吸うようになったんですかね?」などと軽口を叩いたりすると、翁は「いや、近頃は僕のパサパサに乾いた血を若い樹木に吸い取ってもらうのが快感でね!」と切り返してきたものだ。
  老翁が樹木への深い思いを読み込んだその「TREES」の最後の二行に、この日私はあらためて見入った。これまではなにげなく読み通すだけで、その言わんとするところをあまり深く考えたりすることもなかったが、この時ばかりは妙にその結びの二行が胸に響いた。それは、「Even a fool like me can make a poem. But only God can make trees.」というものだった。
  ドラキュラを自称し、あの時の私がその餌食にされたように、行きずりの旅人を言葉巧みに誘い込み、毒舌のかぎりを尽くして翻弄し食い尽くすことを楽しみにしていたあの老翁が、遠くに超越者の存在を見据えていたことは、考えてみるとなんとも感慨深いことであった。
  ドラキュラ翁の崇める神がいかなる神であったのかは私にはわからない。ただ、それが、釈迦でもキリストでもアラーでも、そしてまた日本古来の神々でもなかったことだけは確かである。老翁に訊ねるすべのなくなったいまとなっては、その神はドラキュラ神とでも名づけるべき新種の超越者、あるいは超越概念であったと考えるしかない。
  最後に私は、いまもドアに「WORKS CREATIVE」の二語のしるされたままのトイレに入った。かつてその四面の壁を飾っていた数々の写真やポスター、絵葉書類などはみな剥ぎ取られ、糊の跡だけが痛々しく残されていたが、たった一枚だけそのままになっている写真があった。
  それは、どこなのか場所は定かではなかったが、広い砂丘のようなところを黒いサングラスをかけた大柄の老人が風のように駆け抜けている写真だった。半透明な影にも似たその奇妙な人物は多重写しになっていて、明瞭な輪郭を捉えたり確たる実体を把握したりすることは困難だったが、それにもかかわらず、言葉では形容しがたい独特の存在感がじわじわと写真の中から漂い出てくる感じだった。
  もちろん、その写真のモデルは石田翁その人にほかならなかったが、芸術性の高いこの一枚の写真ほどに往時の老翁の姿をよく伝えるものはないのではないかという気がしてならなかった。初めてこのトイレに入った日も、この写真を見て私は不思議な感動を覚えたものだが、この日もあらためてその映像にじっと見入る有様だった。
  私と同様に、旅先で偶然出逢った老翁の毒気の虜となった市川勝弘カメラマンは、やがて「えごのき」というタイトルの洒落た写真集を刊行する運びになった。その中に収録されている数々の写真の被写体はすべて石田翁とその身辺の事物にかぎられ、写真集の風変わりなタイトルからして邸内の一角に生える老翁寵愛のエゴノキにちなんだものだった。問題の写真はそれらの中の代表的な一枚で、市川さん自慢の作品でもあったというわけである。
  いまは、写真集「えごのき」が手元にもあり、気が向けばいつでもその写真を見ることはできるのであるが、感動の大きさということになると、この石田邸の「WORKS ・CREATIVEギャラリー」における鑑賞には及ぶべくもなかった。もしかしたらこの場所でこの写真を目にするのはこれが最後かもしれないと考えながら、私はおもむろにトイレの外に出た。これほどにトイレから出るのが心残りでならないことなど、自分の人生の中で後にも先にもこれが一度きりに違いないという思いだった。
  石田邸をあとにすると、裏の赤松林の中を走り抜け天満沢という蕎麦屋の前に出た。この老舗の蕎麦屋は老翁と初めて逢った日の夜に案内された想い出の店でもあった。だが、この日はたまたま休業だったので、結局、そこからしばらく走ったところにある上條という蕎麦屋に向かうことにした。この蕎麦屋は信州一帯の風物をテーマとした美しい写真で知られる地元の著名な写真家、上條光水さん経営のお店である。写真家としての上條さんには、信州在住の作家C.W.ニコルさんと共著で出版している「信州の四季」という作品集などもある。
  この蕎麦屋に私を案内し、そのついでに上條光水さんを紹介してくれたのもほかならぬ石田翁であった。こだわりの蕎麦職人を自負してやまない上條さんは、全身全霊を込めて日々蕎麦打ちの仕事に励む。自分で納得のいかない蕎麦はけっして出さないというだけのことはあって、細めの蕎麦だが、香りといい、味といい、腰の強さといい、まさに絶品そのものなのだ。
  明るく落ちついた雰囲気の店内に入り、がっしりした木製のテーブルに着くと、私はこの店おすすめの天恵蕎麦を注文した。この蕎麦を注文すると、冷たい真水に打ちたての蕎麦を少量浮かしただけの水蕎麦なるものが特別奉仕品として出されてくる。自然なままの蕎麦の味を客にも知ってもらいたいという上條さんの蕎麦哲学が、この水蕎麦にはさりげなく込められていると言ってよい。まずはその水蕎麦を味わい、そのあとで十種類ほどの具を盛った天恵蕎麦に箸をつけるわけなのだが、このれがまた実に美味いのだ。天の恵みとも言うべき地元産の新鮮な食材を巧みに調理した独特の具と、上條さん自慢の腰のある蕎麦とのコンビネーションが抜群なのである。
  店主の上條さんは奥のほうで懸命に蕎麦を打っている最中らしかったので、石田翁を偲びながら天恵蕎麦を賞味したあと、上條さんの素晴らしい風景写真作品が展示されている別棟のギャラリーを拝見し、そのまま静かに店をあとにした。考えてみると、この上條で老翁と蕎麦を食べたのはたった一度だけだったが、その時に注文したのもたしか天恵蕎麦だった。
  穂高の町を離れる前に久々に万水川の水面でも眺めておこうと思い立ち、上條をあとにするとすぐに大王ワサビ園方面へと向かった。観光シーズンをはずれているとあって大王ワサビ園一帯に人影はまばらで、万水川のほとりに佇む者など他には誰もいなかった。渇水期だったので水位はいつもの半分ほどしかなかったが、「万水」という名に恥じず、澄んだ水が淀みなく流れ、水中では鮮やかな色の緑の水草が下流方向に細紐のような葉を長々と伸ばしながら、ゆらりゆらりと揺れていた。
  私が佇む地点のすこし上流にある二基の水車は、相も変わらずゆっくりと回転を続けていたが、異界へと去っていった老翁がこの岸辺に立つことはもうなかった。いつの日のことかはわからないが、いずれは私もまたこの世界を去っていかなければならない。その日まで、さらにはその日ののちまで、黒澤映画「夢」のラストシーンに登場したこれら二基の水車は回り続けているのだろうか――そんなとりとめもない想いに駆られながら、私は万水川をあとにした。



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