「マセマティック放浪記」 2002年3月13日
Mathematics Odyssey March 13, 2002
自詠旅歌愚考(四)

月の船生駒に落つる日を追ひて
     渡る大和に大寺の鐘
                (奈良若草山にて)


  短歌の真似事を始めたばかりの頃に詠んだ一首である。当時私はまだ二十を過ぎたばかりの学生の身であった。東京下町の古い四畳半のアパートに住み、窮乏生活を送っていたから、もちろん、自分の思いのままに長旅などをすることができたわけではない。それでも、懸命にアルバイトをし、倹約に倹約を重ねてなんとか貯めたお金で、年に二、三度は貧乏旅行にでかけていた。
  奈良方面には何度も足を運んだが、それは、和辻哲郎の「古寺巡礼」、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」などの作品を読み、ずいぶんとその影響を受けたからでもあった。両書ともいまでは図書館にでも行かなければ手にすることはできないが、いずれも、かつては一世を風靡した名著である。たまたま斑鳩の地で会津八一の歌にめぐりあい、短歌というものに関心をもつようになったのも、もとはと言えば、和辻や亀井らの描く心象風景にいざなわれ、大和一帯を旅するようになったからである。
  関西方面に行くときには東京駅を午前零時すこし前に発車する夜行列車を利用した。その頃は東京発大阪行きの各駅停まり普通列車が走っていて、時間はかかったが、それを利用するのがもっとも安上がりだったからである。体力だけはありあまるほどだったから、車中で仮眠して翌日フル活動することなどなんともなかった。また、宿泊費が一泊分浮くのもありがたいことだった。この時代、東京から郷里の鹿児島までは特急でも十八時間、急行だと三十一時間もかかっていた。その大変さに較べれば、東京大阪間を各駅停車の列車で旅することなどたいした苦労ではなかったのだ。
  前夜東京を発って奈良にやってきた私は、秋晴れのこの日、奈良市内の寺社をあちこち とめぐり歩き、日没近くになってから若草山へとやってきた。そして、あの特徴的な若草山の草地の斜面を上へ上へと登っていった。「煙と馬鹿とは高いところに登りたがる」という諺があるが、まさにそれとおなじことをやろうとしていたわけだ。
  この山の斜面を登りきるといったい何処に出るのだろう?、斜面の最上部に立つと眼下にどんな風景がひらけているのだろう?……あえて探すとすれば、そんな物見高さが、日没時に若草山を登るという愚行に及んだ動機ではあったのかもしれない。
  しかし、その愚行は想わぬ収穫をもたらしてもくれた。素晴らしい古都の黄昏が私を待っていてくれたからである。眼下に広がる奈良盆地の向こうには生駒山系の青くくすんだ山影があって、その生駒の山の端にオレンジ色の落日がちょうど差しかかろうとしているところだった。東大寺や興福寺をはじめとする古刹の伽藍の屋根屋根が夕日に赤く映え浮かび、それらの秘める歴史の鼓動が無言のうちに私の胸に深々と響いてきた。
  麓のほうに離れ鹿の影らしいものが時折小さく見られるくらいのもので、静まりかえった夕暮れの若草山一帯に人影らしいものはもう見当たらなかった。やがて太陽が生駒山の陰に姿を隠し、西空は、落日直後の茜色から、黄昏時に特有な薄黄金色の輝きへと変わっていった。まだその夜の宿さえも決めていなかったが、いざとなったら持参の寝袋で野宿でもすればよいと開き直り、刻々と移り変わる西空の色と、次第に黒ずみ沈みゆく古都奈良のたたずまいに時を忘れて見入っていた。
  しばらくすると空の色が深い暮青色に変わり、それまで西寄りの夕空の一角で息を潜めて機を窺っていた三日月が、時を得たと言わんばかりに急速にその輝きを増しはじめた。そして、たまたまその三日月のすぐ真上に位置していた宵の明星も、力のかぎりを尽くすかのようにキラキラと青い光を放ちだした。その光景は、古代の遣唐使船のように両端の大きく反り上がった月の船が、美しい姫君の宵の明星を乗せ、夕空を生駒山の彼方へと落ちのびていった悲劇の武将太陽のあとを追いかける有様を連想させた。
  月の船の渡りゆく大空のもとで、かつて大和と呼ばれた眼下の奈良盆地一帯は、しだいに迫る夜の静寂に包み込まれようとしていた。点々と灯る民家の明かりがだんだんと美しい輝きを増し、それにつれて頬を撫でる夕風がひときわ冷たく感じられるようになってきた。そして、ちょうどその時、どの寺のものかは定かでなかったが、東大寺かその周辺と思われるあたりからか、胸の奥底にしみいるような鐘の音が響いてきた。
  その瞬間、これこそは昔ながらの大和の地を象徴する情景にほかならないという想いが胸中深くに凝結した。すくなくとも、その時の私には、眼前の光景が、大和、さらにはその中枢である奈良の都誕生以来の累々たる民人の祈りを凝縮し浄化したもののように感じられてならなかった。だから私は、素人の稚拙な表現に余ることを承知で、たまたま目にしたその光景とそこから受けた印象とをありのままに歌に詠み込んでみたのだった。
  奈良盆地一帯もそのご大きく変容し、いまではすっかり近代的な様相を呈するようになってきた。またそれにつれて若草山周辺の雰囲気も当時とはかなり変わってきたようである。もうあのような光景を見ることはできないのかもしれないが、あの時の掛け替えのない情景はいまもなお私の記憶の中に鮮明に残っている。
  歌を詠み終え、さらにしばらく尽きない感慨にひたったあと、すっかり暗くなった足元をものともせずに若草山を登りつめ、現在の奈良奥山ドライブウエイのどのあたりかに出た。そして、たしか車道伝いに奈良市街へと歩いて下ったのだが、そのあとの記憶はなぜか空白になってしまっている。一晩野宿をしたのか、ユースホステルかなにかに泊まったのか、どうしても想い出すことができないのだ。


                                      絵・渡辺 淳


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