「マセマティック放浪記」 1999年2月3日
Mathematics Odyssey February 3, 1999
幼き日の風景を胸に  

  華やかだか人工的な情報の海の中にはけっして求めることのできない、大宇宙の気配とでもいうべきものが、当時この島には残されていた。五感を鋭く磨いてくれる闇夜、荘厳このうえない朝日や夕日の輝き、刻々と色合いの変わる神秘的な空の彩りと不思議な形の雲々、心の奥底にまで差し透るような月星の輝き、悠久の時間を湛えて青く揺らめく海、凄じい嵐に吼え狂う孤島の潮――少年の頃には必ずしもそのこと自覚していたわけではないが、それらの一つひとつには、まごうかたなき宇宙の鼓動が秘められていた。
  豊かな自然の息吹に較べ人工的な情報の極端に少ない世界というものは、そこに育つ子どもの知識の量を一時的には乏しくするが、その代償として、奥深いところにある何ものかを想像する機会とそのために必要な力とを無意識のうちに与えてくれる。そして、そんな幼少期を体験した者の記憶の底には、幼き日に見た情景が深々と刻み込まれ、一種の心象風景として意識の片隅にいつまでも残るものである。
  都会の膨大な知識情報を知らずに育った人間には、多かれ少なかれ「井の中の蛙大海を知らず」的なところがある。だが、この諺(ことわざ)には、「されど天の青きを知る」という補足部分がついていることも忘れてはならないだろう。狭い井戸の底から来る日も来る日もじっと眺め上げた青い空は、やがて蛙の心の中に想像力という不思議な力を生み宿し、その力が創り出す世界に果敢に旅立つ勇気をもたらしてくれるものなのだ。
  たとえば、少年時代の私は、都会育ちの子どもたちと違って、星々の名はむろん、その星々の属する星座についても、それらにまつわる数々の神話や伝説についても無知に等しかった。しかし、夜空に輝く無数の星々の美しく華麗な動きや、天空を切り分ける雄大な銀河の流れについてなら、たぶん、都会の子どもたちよりもよく知っていた。遠い星を独り眺めつつ、いつの日か出逢うであろう運命の人の頭上にも、いま同じ星が輝いているのだろうかなどと夢想することもできた。
  そんな育ちの人間が大人になり、人生の旅路を阻む障壁や運命の岐路に瀕したとき、他人の言葉や身ぶるまいによってではなく、遠い昔に目にした懐かしい風景によって心から励まされることがある。その風景によって、眼前の困難を克服するのに必要な知恵や知識を授けられることがある。人によって見方に違いはあるだろうが、よい意味での「原風景」とは、たぶんそのようなものだと考えて差し支えないだろう。
  病弱な母や老いた祖父母の先行きが長くないことは子ども心にも明らかだったから、私の小さな胸の中には、いつも不安が渦巻いていた。そして、そんなやり場のない想いを少しでもまぎらわそうと島の海々や山々を駆け巡るうちに、いつしか私の体内には、のちの人生にとって大きな意味をもつことになる原風景が形成されていったようである。
  好奇心だけは生まれつき旺盛だったこともあって、島の自然の中でいろいろなものを観察し体感し、また、実験まがいのこともずいぶんとやった。いまにして想うと、島の自然はなんとも色彩に富んでいた。海の色は南国特有の澄んだ濃いブルーで、浅くて海底に白砂があるところなどは青緑色にきらめき輝いて見えた。鮮やかな色とりどりの花々、四季に応じた微妙な変化をみせる樹々の緑や空の色などは、幼い目を存分に楽しませてくれた。私は絵はうまくないのだが、深い想いを込めてある情景を描写するような場合には、まずその映像を脳裏に想い浮かべ、そこから文字を起こしはじめる。そんなときに大きな助けとなってくれる私の色彩感覚は、どうやらこの時代に培われたものらしい。
  フィールドワークをするための基礎知識を自然のうちに身につけることができたのも幸いだった。半農半漁の生活が中心の田舎のことだから、昔は日常的にさまざまな手作業が行われていた。火のおこしかたや刃物の研ぎかた、各種道具のつくりかたなどは、見よう見まねで身につけていくことができた。海での泳ぎに関しても、岩場に潜って魚貝類を採るとか、長時間泳ぎ続けるとかいう、生活に密着した実践的技能の習得が優先されたものだった。野生の有用植物の見分け方などを学んだのも、そんな日常生活を通してだった。
  釣り道具なども手作りだった。いまのように上等な釣り具をお金を出して買うのではなく、竹を切ってきて自前の竿と仕掛けとをつくったものだし、また、それで十分に間に合った。その頃身につけた特技の一つに天然鰻の穴釣りがある。これだけはいまも腕に自信があるし、仕掛けもきわめて簡単だから、万一東京が大災害にでも襲われ仕事がなくなりでもしたら、当分は鰻でも釣って生計を立てようかと思っている。
  離島ということもあって、当時は犯罪とは無縁だったから、子供でも夜遅く出歩くことが許さた。浜辺に寝転がり、潮騒の音を聴きながら満天の星々を仰いだり、夜光虫を眺めたり、月明かりや星明かりを頼りに手漕ぎの小舟で沖に出たり、夜の荒磯の岩場をよじ登ったりと、様々なことをやってのけた。漆黒の闇や淡い光に馴れ親しんで育ったおかげで、私には夜の世界に対する恐怖感はまったくない。だから、深夜人気のないとろを訪ね歩くのも、淋しいところで独り夜を明かすのも平気で、野宿などは少しも苦にならない。
  たまたま国語の教科書に載っていた寺田寅彦という物理学者のエッセイの中で、「ネットをもって人魂を追いかけ、取り押さえたところ、あとに何か黒い燃えかすのようなものが残った」という話を読んだときなどは、自分でもなんとか真似してみようと思い立ち、集落はずれの淋しい墓地や神社の裏手などを深夜独りでうろつくなどという馬鹿なこともやったりした。
  いまの私のささやかな言語感覚や思考法、観察力、分析力、創造力、方法論などといったもの基礎は、どうやら、そんな小さな行為の積み重ねを通して育まれたようだ。知識というものは歳をとってからでもそれなりに習得できるが、それらの知識を盛り受けるための各人固有の心の器みたいなものは、幼少期にその形や模様がきまるのであろうか……。
  離島のような人為的な情報の少ない地域で育った場合、総合的な言語力や思考力が体内で十分に熟するまでにはずいぶんと時間を要するものである。たとえて言えば、そんな育ちの人間は、形よく順調に熟れ育った温室産の果実ではなく、成熟に時間がかかったぶん、風雨に痛めつけられて形はゆがみ、虫食いの跡さえ残る天然果実だといってよい。
  しかしながら、そんな出来の悪い果実にもそれなりのとりえはある。見栄えさえ気にしなければ、太陽のエネルギーをふんだんに秘めた自然な味と香りがするし、長もちもする。色艶もそう悪くはなく、形がでこぼこで一定していないぶん、個性にも富んでいる。
  都会から遠く離れた海辺や山奥の村々を旅していると、いまでも、はっとするような野生の輝きを秘めた美しい少年や少女に出逢うことがある。どこか遠くを見つめながら、海風や山風に向かってじっとたたずむ彼らの姿を眺めていると、その前途を心の底から祈りたい気分になってくる。身にまとうものも、そして、その言動も洗練こそされてはいないが、彼らの心には本物の原風景と磨けば光る原石とが隠し秘められているからだ。
  原風景を心に秘め、折あるごとにその風景へと立ち戻りながら生きるのは有意義なことだが、甑島のようなところで育った人間の原風景がもっとも社会的に意味をもつのは、たぶん、それが都会のような異質な世界や、その世界でなされる仕事に投影されるときであるように思う。この見方に立つならば、他地域の原風景や都会の洗練された感覚が甑島のような離島に逆投影されることも重要な意味をもつ。若者の流出につれて地方の過疎化が進み、文化の流れが総じて都市志向になってしまったいまでは、都会から地方への逆投影は、地方文化や自然環境の再認識という点において必要不可欠であるのかもしれない。
  現代においては、島のことは島の人間にしかわからないという考え方は、半分正しいが半分は誤りだと言ってよい。内容がどうであろうと島の都会化、近代化はよいことだと考える人の多くなった今日では、むしろ、まったく異質な感覚をもつよそからの移住者や旅人のほうが、本質的な島の良さや守るべき自然の価値を的確に感知ができるからだ。
  長年生活を共にした夫婦がお互いの長所にもっとも無自覚になるのと同じことで、この危機的状況に歯止めをかけ、地方と都市それぞれの価値の見直しと相互の活性化をはかるには、いまばやりの「失楽園効果」ないしは「不倫効果」がきわめて望ましい。新しいパートナーの発見と確保は、実際の夫婦関係の場合はともかく、わが国の地域社会とその文化の存続には重要なことであるような気がしてならない。
  都会育ちで極度に洗練された感覚の持ち主が、都会での生活感の希薄さに気づき、それなりの理念と覚悟をもって未知の土地へと移住したとき、その地域社会に好ましい影響がもたらされることは少なくない。そういった事例は近年ずいぶんと増えてきているが、甑島の里村にもその好例が存在する。
  平成三年、朝日新聞全国版の「島で老いる」という連載記事で紹介された和田静子さんは、東京の下町育ちで、長年博報堂に勤務、のちにフリーのライターや記者、編集者として「思想の科学」その他の雑誌などに関わってきた方である。その和田さんが「終の住処」として選んだのが甑島だった。鶴見俊輔さんをはじめとする昔の知人友人などに協力を仰いだ和田さんは、島の子どもたちのために「児童文庫」を開設し、視覚障害をもつ人々に役立ててもらうめにボランティアで朗読テープの作成をもおこなった。村のデイ・ケアセンターの設立と運営にも多大の尽力があったとも聞いている。
  いっぽうで、和田さんは、その芸術的な感性と才能を活かし、浜辺で拾った自然石に特殊な技術で島の動植物を描く「石絵」を創案、村の人々にその技法を指導もしている。和田さんの絵のセンスは抜群で、その薫陶を受けた村人は少なくない。島の自然とその人情に深く感じ入った人だから、当然、環境保護には熱心だが、そのために近代化促進を願うの立場の人々から批判を買うことも少なくないという。しかし、その行動や理念は、自ら甑島に住みつき根をおろしたうえでのものであるから、一本筋が通っていて村人の中にも賛同者が多い。ご苦労は多かろうが、甑島にとっても大きなプラスであることは間違いない。たまたまだが、甑島に行く前、東京でアカテガニを描いた和田さんの石絵を入手する機会を得た私は、その素晴らしさに心から感動し、そのような人物の甑島在住を嬉しく思った次第だった。
  かつて作家藤原審爾に師事し、現在は児童文学者として活躍中の斎藤きみ子さんも里村在住で、島の生活や自然を深く見すえながら、優れた童話作品や演劇作品を発表している。斎藤さんのご両親は甑島にゆかりの方だが、ご自身は大阪育ちで、結婚後にご主人共々甑島に移住されたらしい。「魚をよぶ森」、「とうちゃんの海」などをはじめとし、その個性的で風土性豊かな作品は、甑島に暮らすなかで得られた種々の素材を独自の豊かな感性で深く掘り下げ、文学へと再構築、昇華させたものにほかならない。
  斎藤さんには、なぞの伝説の森を背景に少女の成長と人間愛を描いた「竜の飛ぶ冬」という作品などもあるが、その視線には一貫した自然への畏敬の念が感じられる。大学で教鞭をとったり劇団の指導に携わったりと、本土との間の行き来をしながら活躍する斎藤さんだが、その深い見識と思想とが島にもたらす影響は少なくないだろう。

 「幼き日の風景を胸に」というテーマでの里村教育委員会主催の講演で、私はいま述べたような話をした。会場はそんな詰まらぬ話を聞きに来てくださった方々でいっぱいだっが、大半は私がハナタレ小僧の悪ガキだった頃をよくご存じのお年寄りたちだったから、冷や汗もので、やりにくいことこの上なかった。なんとか責務を果たし終え演壇を降りたときは全身の力が抜ける思いだった。講演会が終わったあと、会場出口で昔を知るいろいろな方から「シゲチカちゃん」と声をかけられたときは、いますぐにも穴にはいりたい気分だった。和田静子さんや斎藤きみ子さんとはそれまで面識がなかったが、お二人とも会場に来てくださっていて、丁重なご挨拶まで賜ったのは望外のことだった。
  その日の午後から夜にかけては、またあちこちへの挨拶回りに終始した。宿の甑島館に戻ると、里村在住のすぐれた郷土史家で、古武道鞍馬揚心流第六代宗家でもある塩田甚志さんが待っていてださっていた。塩田さん自らの体験に基づく沖縄戦終焉時のドキュメンタリー作品「生と死の岐路」や、大変な労作である甑島の歴史民俗書「甑島・その風貌と略史」とを頂戴し、参考になるお話をいろいろと伺うことができたのは大きな収穫だった。
  部屋に戻って一息ついたのは十一時前だった。急に予定を変更し、翌朝六時に中甑港発のフェリーで下甑島に渡ることになったので、息子共々慌ただしく荷物を整理し、大急ぎでシャワーだけを浴びると、またもやベッドに倒れ込んだ。かくして、甑島館の温泉をのんびりと楽しみたいという願いはこの日もあえなく消し飛んだのであった。



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