「マセマティック放浪記」 2001年9月26日
Mathematics Odyssey September 26, 2001
北旅心景・網走刑務所

  満々と水を湛えた網走川にその橋は架っていた。鏡橋と呼ばれるその橋を、かつての受刑者たちは、孤独と悲哀と絶望と諦念の複雑に交錯した思いに駆られながら黙々と渡っていった。彼らのほとんどは死刑囚や無期懲役囚、そうでなくてもそれに近い長期刑の受刑者たちだった。刑期を終え、自由の身となって再びその橋を渡ることのできた者はまだしも幸いであったが、重刑にともなう過酷な労役や病苦に耐えかね、絶命した者も少なくはなかった。
 「水面に我が身を映し、衿をただし、心を清めよう」という思いを込めて、人々はいつしかこの橋を鏡橋と呼ぶようになったというが、ほんとうの意味で衿をただし心を清めるべきは、橋を渡って行った幾多の受刑者たちではなく、彼らを橋の向こうへと送り出した善良なる市民、否、善良と称される罪深い一般市民の側であったのかもしれない。いまでは一般見学者の通行も自由になった鏡橋を渡りながら、橋下の水面を眺めてみたのだが、現世を象徴するかのごとくに速い流れのゆえもあってか、世俗にまみれ汚れきったこの身の影など映りさえもしなかった。
  場違いも甚だしいかぎりではあったが、橋上から眼下の川面を見つめるうちに、なぜか私は、突然、アポリネールの詩、「ミラボー橋」の一節を想い浮かべた。女流画家ローランサンとの恋の終わりを歌ったこの有名な詩は、シャンソンにもなり、我が国でも堀口大學の訳詩を通して広く人々に知られている。うろ憶えのその詩文を胸の奥で呟きながら、そこが刑務所の橋であることも忘れ、しばし私は遠い想いに耽っていた。
  網走刑務所に収容されるのは、今では二年から三年間の短期受刑者ばかりになり、昔のように長期受刑者が服役することはなくなった。鏡橋を渡って奥へと進むと、赤煉瓦造りの高い塀の前に出た。そしてその塀にそってしばらく進むと、「赤煉瓦門」と呼ばれるアーチ造りの大門が現れた。映画などにもよく登場するあの網走刑務所の正門だった。巨大な将棋の王将の駒の上半分を切り取りって輪郭を屋根で覆い、下部に大きな半円形の通路を設け、その両脇にお化けクラゲ様の一対の守衛所を配したような赤煉瓦門には、たしかに独特の威厳がそなわっている。一般見学者が立ち入りを許されるのはその門の前までで、そこから奥は外部と隔絶された世界になっていた。
  ここから先に入りたければ、それなりの怒りと苦悩と絶望を積んだうえでやって来るんだな。ほんとうに、お前にそれだけの度胸と覚悟のほどがあればの話だがね――まるでその赤レンガ門は、罪多き身のくせに表立っては無垢のごとくに振る舞う小市民の私に向かって、そんな厳しい言葉を発しでもしているかのようだった。俳人松尾芭蕉は、当時流人の島として知られた佐渡島に遠く想いを馳せながら、「罪なきも流されたきや佐渡島」と吟じたという。そんな偉大な漂白の詩人の姿を想像するにつけ、罪があっても流される勇気のかけらすらないなんとも卑小な己の有様をつくづく情けなく思うのだった。

  網走刑務所は、明治二十三年三月、釧路監獄署網走囚徒役所として発足した。囚徒たちの労役によって、原生林に覆われた険しい山岳地や、深い笹薮と葦原の広がる未開の原野を開削し、中央道路を建設するのがその狙いだったという。現在は主要国道になっている網走から北見峠までの新道百六十三キロを切り開くために徴用された囚徒千二百名のなかだけでも、死者約二百名余、重傷者や重病者の数にいたってはその何倍にものぼるという過酷さであったらしい。劣悪このうえない生活環境、厳しい監視と拘束、さらには凄絶かつ残虐な強制労働の数々と、道路開削の作業現場は囚徒にとって獄舎における以上の修羅場となったのであった。
  富国強兵が至上命令であった当時の我が国においては、たとえ多数の死亡者や重傷者がでたとしても、重罪者は国土開発のために徴用して当然だとされていた。ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」や「収容所群島」といった作品に描かれているような、スターリン時代における旧ソ連のシベリア開発の惨状となんら変わるところがなかったのだ。この旅の途中で私が走った網走や北見周辺の道路なども、もとはといえばそれら囚徒たちの尊い命と引き換えに開発されたものなのであった。
  社会を支配する強者たちは、いつの時代も自由と平等と秩序の名のもとに自らの権益や地位の保全に都合のよい体制やルールをつくりあげる。そして、それらの体制やルールを巧みに利用したりくぐり抜けたりする狡知に欠ける人々は、やがて窮乏へと追い詰められ、苦悩し絶望し、そしてついには不当な制度に反逆し重罪をも犯すようになる。何ひとつ失うものも守るべきものもなくなった者にとって、この世の規範はいかなるものも無に等しい。なんとも逆説的な話ではあるが、彼らの魂はその極限の地平においてのみ大いなる自由を得る。
  時の支配者がもしもその究極の自由さえも剥奪しようするならば、自由を謳歌しているはずの彼らのほうが心理的物理的に拘束され、疑心暗鬼の泥沼に陥ってしまうというパラドックスに遭遇せざるをえない。さもなければ、彼らが合法的と称する手段をもってその相手を処刑ないしは抹殺するしかなくなってくる。だが、処刑とか抹殺とかいうそんな行為は、詰まるところ、至上たるべき社会規範や社会倫理の敗北そのものにほかならない。釧路監獄署網走囚徒役所として発足したこの網走刑務所ひとつにおいてさえも、過去幾たびかそんな悲喜劇が繰り返されてきたのであった。
  帰りがけ、通路脇に立つひとつの石碑が目にとまった。網走刑務所開基百周年を記念し、平成二年十月に建てられたというその碑には、「わたしの手は厳しいけれど、わたしの心は愛に満ちている」という一文が刻まれていた。オランダのアムステルダムにある刑務所の門扉の刻字を翻訳したものだという。なるほどとは思いながらも、いっぽうで私の胸の片隅に棲む意地悪な心は、いつしかその文意を「わたしの心は愛に満ちているけれど、わたしの手は残酷なまでに厳しい」と逆転させ、「残酷なまでに」という六文字の形容詞をつけくわえたりしてもいた。
 
  網走刑務所の近くには網走監獄博物館がある。広大な敷地をもつこの博物館には、移築あるいは復元された初期の網走監獄の建物や関係諸施設のほか、過去百十年に及ぶ網走刑務所関係の行刑資料や監獄史文献などが展示されている。ついでなのでこちらのほうも訪ねてみることにしたのだが、市内観光スポットのひとつになっていることもあって、バスツアーの団体客その他、来訪者は少なくなかった。千円余の入館料を支払ってゲートをくぐるとき、入場者一人ひとりにカメラを向けている男の姿を目にとめたが、とくにそのことを気にすることもなく、私はその場を通り抜けた。
  ゆうに二十を超える展示建物や展示施設が並んでいたので、それらすべてをつぶさに見学するというわけにもいかなかったが、行刑資料館などはさすがにそれなりの見ごたえがあった。明治期の囚徒たちによる中央道路開削関係の詳細な資料は言うに及ばず、当時の獄舎内での囚徒や監守らの生活状況を伝える資料、各種監獄用具類、深い哀しみを全身に秘めた大小のニポポ(囚徒の手による木彫りのアイヌ人形)などまでが、ところ狭しと陳列展示されていた。
 また、ここには、明治の脱獄王、五寸釘の寅吉などに関する興味深い解説資料などもあった。脱獄すること実に六回、ある時など彼は、その破獄を防ぐため特別に設けられた三重監獄をも破り、超人的な身体機能をもって獄舎通路の高い屋根裏によじのぼると、頭突きで厚い屋根を貫き逃走したのだという。それに先立つ脱獄の際には、五寸(約十五センチ)釘を足で踏み抜いたにもかかわらず、その釘のついた厚板をつけたまま十二キロもの道のりを逃走し続けた。五寸釘の寅吉という、どこか畏敬の念さえこもったその異名は、そんな驚くべき実話にちなんだものであるらしかった。
  中央道路開削の時代、本拠の獄舎から遠く離れた作業現場などに設けられた仮宿舎「休泊所」を再現したものなどもあった。労役に駆り出された囚徒や看守らの等身大模型と擬似音声までをそなえるという手の込みようで、彼らの就寝の様子をはじめとする生活振りや拘束の厳しさなどを偲ぶこともできた。動く監獄とも呼ばれたこの休泊所は、その名称とは違って、囚徒たちが安心して休んだり泊まったりすることができるような場所ではなかったようである。
  当時の監舎内浴場の様子を再現し、等身大の人形などを配したものなども大変興味深かった。大勢の者が劣悪な環境のもとで寝食を共にするため、皮膚病などが流行しやすかったから、衛生面からも浴場は欠かせない設備であった。また入浴は収監者らにとっても大きな楽しみのひとつだった。しかし、厳しい監視のもとでの囚徒らの入浴風景はなんとも風変わりなものであったらしい。
  十人ほどの者が一組になり、脱衣場で衣服を脱いで横一列に並ぶ。そして、そんな一列横隊が何列もできる。浴場は広い長方形の空間になっており、その床面には細長いプール状の浴槽が二つ少し離れて設置されていた。複数の看守たちによる厳しい監視の下で入浴がおこなわれていたことは言うまでもない。
  浴室内で一定の間隔をとりながら横一列に並んだ入浴者たちは、そのまま一斉に前進し、手前の浴槽に五分前後の限られた時間だけ身を沈める。それから看守の指示に従ってやはり細長い前方の洗い場に上がる。そのあとに続いて次ぎの列の者たちが、前列の者たちの背中をみるかたちで一番目の浴槽に入る。五分間ほどかけて素早く洗い場で身体を洗った前列の者たちは、そのあと、前方にある二番目の上がり湯用浴槽に入る。また五分ほど身体を温めたら、そのままさらに前方の拭き場にあがり、身体を拭いて着衣場に入ると手早く着衣を終える。そして、この一連の奇妙な入浴劇が各列ごとに次々に繰り返されていくというわけだった。常に前向きの姿勢での入浴で、所用時間も各列十五分から二十分に制限されていたらしい。
  五翼放射状平屋舎房と呼ばれる獄舎も大変珍しいものだった。最初の獄舎が焼失したため、明治四十五年に再建され昭和五十九年まで使用されていたもので、その後、この博物館に移築されたのだという。正面入口から中に入ったすぐのところが大きな正八角形構造をもつ見張り所になっており、正面とその両脇の看守控え所のある三面をのぞく五面からは、一号舎から五号舎までの長大な獄舎が放射状にのびだしている。
  それぞれの獄舎の中央には七、八十メートルにわたるまっすぐな通路があって、その広い直線状通路の両側に独房や雑居房など大小の舎房が多数設けられている。要するに、八角形の見張り所の中央に立てば、一目で五棟の獄舎の通路を奥まで見渡せる構造になっていたわけである。通路上の屋根はずいぶんと高く、常人の能力ではどう足掻いてもよじのぼることのできるような造りではなかった。
  いくつかの獄房は奥のほうまでつぶさに見学できるようになっていたが、独居房は広さ四・九平方メートル、また、三〜五人の受刑者が暮らす雑居房の広さは九・九平方メートルほどで、いずれも頑丈な木造の獄房だった。脱獄常習犯の脱走を防ぐため特別に造られた、二重三重の厚い床と壁をもつ特殊独房も公開されていたが、脱獄の名人たちはそれでも破獄に成功したらしい。脱獄に賭ける彼らの執念はなんとも凄まじいものだったようである。
  たとえばある脱獄者などは、日々の食事に出る味噌汁や醤油、食塩などの塩分を何年にも渡って根気よく覗き窓の太い鉄格子の根元になすりつけ、ついに腐食したその鉄格子を折り外して脱走したという。忍者まがいの技術と四股の能力をもって高い壁や大きな柱をよじのぼり、天井や屋根に長時間はりつき脱獄を果たした者もあったそうだ。
  博物館敷地の片隅には四面の壁が煉瓦造りで屋根が瓦葺きの懲罰用独居房なども復元されていた。窓はまったくなく、入口の厚いドアを閉めると外部の物音は完全に遮断され、内部は漆黒の闇に包まれるようになっていた。獄舎内で粗暴な振舞いをしたり、重大な規則違反をしたり、命令に背いたりした者を懲罰するため、昼夜連続七日間を限度に入房させていたという。
  最後に足を運んだのは刑務所内の教悔堂を復元した建物で、内部には免囚保護の父と称えられる孝永法専師の業績なども紹介されていた。堂内最奥にある祭壇で香を焚いてお参りしてから出口に向かって歩いていると、美形の若い女性係員が足早に近づいてきて、「ご入館の時に撮影した写真が出来あがってますよ。とてもよく写ってますから、記念に是非如何ですか?」とにこやかに話しかけてきた。入館者を一人ひとり撮影していたのはこのためだったのだ。商魂逞しいことこのうえない。
  断ろうと思ったが、差し出された写真を見ると、なるほど我ながら意外なほどによく写っている。運転免許証の写真のような写り具合だったらそのまま相手の勧誘を振り切っていたのだろうが、まんざらでもなかったので一瞬心が動いた。そして、そこに見事につけこまれ、結局、博物館網走監獄写真部謹製なる絵葉書大の記念写真を千円で買わされるはめになってしまった。
  自分の姿が大写しになった写真の脇には網走刑務所正門の小さな横長の写真が添えられ、その下に「出獄許可證 右之者網走監獄入監見学中ノ処、其ノ見学態度神妙且ツ勤勉ニ付キ茲ニ特赦ヲ以ッテ出獄ヲ許可スルモノ也 2001年6月26日 網走監獄」という一文が付記されていた。確かに「見学態度神妙且つ勤勉」であったかもしれないなと苦笑しながら、私は駐車場に向かって再び歩きだした。



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