「マセマティック放浪記」 2001年9月5日
Mathematics Odyssey September 5, 2001
北旅心景・サロベツ原野

  夕刻に稚内を立ち、前夜北上したオロロン街道を、こんどは逆にサロベツ原野方面に向かって南下した。大粒の雨と海霧含みの猛烈な西風が吹きつけていたため、視界は極度に悪かった。右手に位置しているはずの日本海や利尻島の島影はむろん、道路のすぐ両側に散在する湿地帯や湖沼地などもほとんど見えなかった。それでも、途中で車を停めカッパを着込んで道端に立つと、冷たい雨にうたれ激しい風に揺れながらも咲き匂う、黄色いエゾカンゾウの花々が目に飛び込んできた。
  ずいぶん昔に初めてサロベツ原野を訪ねたとき、私は、広大な湿原の果てるところまで一面に咲き誇るエゾカンゾウの花を見て、

   花々よ萌え咲き結ぶ営みを幾たび経しやサロベツの野に

という一首を詠んだ。北の大地の厳しい環境をむしろ利するがごとくに咲き結び、はるかな時を超え、営々と自らの種を守り伝えてきたその姿に心を打たれたからだった。
  しかし、この日はなぜか、吼える海風にひどくあしらわれながらもそれを耐え忍び、断じてその品格を失うことなく、毅然として咲き開く一輪のエゾカンゾウのたたずまいに強く心惹かれたのだった。その花のけなげな姿に、私はある種の女性のそなえもつ不思議な強さのいくつかを重ね見たからだろう。
  都会に育ち、都会での長年の生活を経たあとで遠く離れた異郷の離島に渡り、まだ幼かった私を中学生になるまで育て上げ、死期を悟ると唯一の肉親として残された私にすらそれを告げることなく、独り決然として逝った祖母の強さもそのひとつだった。また、鹿児島市で苦学中だった高校時代、お世話になっていたバイト先で出逢い、様々なことを教示していただいた石川美江子先生の、気品に満ち、しかもいかなる時でも毅然としてやまない姿などもこの日エゾカンゾウの花の向こうに重ね見たもののひとつだった。
  当年すでに九十三歳の石川先生は、まだ全国的に女性の社会的地位が低く抑えられ、なお男尊思想の色濃く残っていた時代に、鹿児島県下の全公立学校を通じ、女性として初めて教頭職に就かれた方である。地元においては、さまざまな誹謗中傷をものともせず、教育者として多くの優れた人材を世に送り出されたことで知られている。先生は若い頃結婚し、いったん教職を離れて満州に渡られたが、その地で御主人と死別、辛酸の極みを舐めた挙げ句に終戦後なんとか鹿児島に帰還された。そてからほどなく教員として復職なさり、再婚することなくその後の人生をひたすら教育に献げられた方である。異国の地で苦境にあった時代、満州の野に咲く草花を眺めながら自分の孤独な心を励ました話などを常々伺っていたので、よけい私は風に揺れるエゾカンゾウの向こうに先生の姿を想い浮かべたのであろう。

   風吼ゆる北の浜辺に立ち揺らぐか細き花よ汝は強き

  愚作ではあるが自分の想いそのままを歌に詠み込んだ私は、再び車に戻って走り出すと、稚咲内で左折しサロベツ原生花園の中心部へと向かった。だがますます天候は悪化し、夕闇も深まってきていたので、そのまま豊富温泉方面へと通過することにした。そしてその時、たまたまというにはあまりにもタイミングがよすぎるくらいに、カーラジオから、祈りの詩人金子みずずの詩の朗読が流れてきた。まるでその詩はサロベツの野を一面に覆う無数の草花に向かって切々と語りかけられているようでもあった。
――かあさん知らぬ草の子を、なん千万の草の子を、土はひとりで育てます。草があおあおしげったら、土はかくれてしまうのに――それは「土と草」という詩であったが、易しいけれども深く心に染み透る天才詩人ならではの言葉使いとその絶妙なリズムとに、私は思わず聞き入ってしまったのだった。我々命ある者は「自力で生きている」のではなく「目に見えぬものの力とその犠牲とによって生かされているのだ」――言葉にするとなんとも月並な表現になってはしまうのだが、私には金子みすずの心の奥のそんな真摯な叫び声がいまにも聞こえてきそうであった。
  サロベツ湿原を抜けたあと、そう遠くないところにある豊富温泉に立寄り、町営の温泉施設で一風呂浴びた。そして再びハンドルを握ると、幌延町を経て国道四十号に入り、ひたすら夜道を美深町方面目指して走り出した。午後九時半頃だったろうか、音威子府に差しかかる少し手前で私は前方路上に動物の死体らしいものが転がっているのを発見し、すぐに車を停めた。車から降り懐中電灯を持って近づいてみると、それはまだ温かみの残るキタキツネの死体だった。頭部と腹部とを車に轢かれ、内臓破裂で即死したものらしい。目と内臓が飛び出し、見るも無残な姿であった。
  そのままでは可哀想なので、両足を掴んで体ごとぶらさげ、道路脇の深い草むらまで運んだ。そしてスコップを取り出し穴を掘ると、柄にもなく南無阿弥陀仏と心の中で呟き、手を合わせながら、そのキツネの魂を静かに弔い葬ってやった。南無阿弥陀仏ではなく南無妙法蓮華経と呟こうと、十字を切ってアーメンと唱えようと、あるいはまた二礼したあと二拍手一礼して引下ろうと、死んだキツネが望むならこちらとしてはどの方法を選んでも構わなかったのではあるが、あいにく私には当のキタキツネの信仰がどのようなものであったのかなど知るすべもなかった。だから、もっとも手っ取り早いナムアミダブツで済ましたようなわけだった。
  再び運転席に戻った私は、音威子府を過ぎると、美深町までいっきに国道四十号線を南下した。そして、「びふか」と表示された道の駅に車を駐めると、そこで朝まで眠ることにした。ちょうどその頃、鹿児島市内のある病院の一室で起こっていた事態など神ならぬこの身はつゆ知らぬことではあった。こともあろうにこの日の夕方、突然ひどい下血を起こして緊急入院された石川先生は、その病院で危篤状態に陥っておられたのだった。
  のちにして思えば、激しい風雨に耐えて咲くエゾカンゾウの花に石川先生の姿を重ね見たことといい、たまたま耳にした金子みすずの詩の朗読といい、さらには息絶えたキタキツネに遭遇したことといい、この日の一連の出来事はなにかしら暗示的ではあったのだ。翌朝、石川先生は他界された。だが、府中の自宅からの連絡でそのことを実際に知ったのは、それから四日後、まだ私が北海道の山中を旅している途中でのことだった。
  ずっとのちになって石川先生の養女の方から伺ったことなのだが、もう二十年近く前、上高地の河童橋で私と二人で撮った写真をいつも手元に置き、大切にしてくださっていたらしい。「本田さんと」と記されたその二枚の写真はその後東京の私宅に届けられ、いまではさりげなく自室の一隅に飾ってある。



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