「マセマティック放浪記」 2001年8月29日
Mathematics Odyssey August 29, 2001
北旅心景・宗谷岬

  途中であちこちに寄り道をしたため、宗谷岬に着いたのは、カーラジオから午前零時の時報が流れるのとほぼ同時だった。日本最北端の宗谷岬は、地形的にみても、あたりの雰囲気からしても、どこか女性的でまろやかな感じのする岬である。神威岬や知床岬、あるいは納沙布岬といったような北海道の有名な岬とはその点で趣を異にしている。岬一帯には広い駐車場も設けられていて、夜間でも煌々と照明灯がともっていた。
  ここにいたるまでの二十四時間というもの、強行に次ぐ強行の連続だったため、さすがに疲労の度合いは極限に達していた。駐車場の一角に駐めたワゴンは、轟々という音をたてて吹きまくる猛烈な西風に煽られぐらぐらと揺れつづけたが、そんなことなどにおかまいなく、横になった途端深い眠りへと落ちてしまった。
  翌朝は九時頃に目が覚めた。なにやら大勢の人の気配がしたからだ。寝ぼけ眼で車窓越しに外を眺めると、小ぶりの神輿をかつぎ、そのまわりを幟や太鼓でかためたお祭りの行列が、すぐそばを通過していくところだった。幟には岬神社という文字が染められていたから、近くにそんな名の神社があるのだろう。宗谷岬のすぐそばには大岬というかなり大きな集落があるから、お祭りに参加しているのはそこに住む人々に違いない。全国いたるところに神社は存在しているから、宗谷岬でそんなお祭りがあったとしてもべつにおかしくはないのだが、旅人の目からすると、日本最北端の岬で見る神輿や太鼓、さらには幟の行列といったものはなんだか不思議な感じのするものではあった。
  昨夜ほどの烈風ではなかったが、岬一帯には相変わらず強い西風が吹きつけていた。夏だというのに風も結構冷たかった。天候の良い日なら遠くサハリンの島影なども望むことができるこの岬だが、この日はほとんど展望がきかなかった。そのせいもあってだろう、次々に岬を訪れる観光客たちは、日本最北端の地をあらわす碑の前で記念撮影を終えると、皆足早に立ち去っていった。
  ちなみに述べておくと、「日本最北端の碑」は北極星の一綾をイメージした三角錐様の構造物で、五・四メートルほどの高さがある。碑の中央には北を意味するNの文字が配されており、その設置地点の緯度は北緯45度31分14秒なのだそうだ。もっとも、将来北方四島の返還が実現すれば、日本最北端の地というキャッチフレーズは、択捉島の西北端あたりに奪われてしまうことになるだろう。その時がきたら、「日本本土最北端の地」と「本土」の二文字を付け加えねばならなくなるに違いない。だからといって、まさか、宗谷地方の人々が北方領土返還反対運動などを起こしたりすることはないだろうが、「日本最北端の地」を択捉島にとってかわられることになれば、観光スポットとしての宗谷岬の存在意義はいくぶん薄れることになるだろう。
  今回私は観光目的でこの岬にやってきたわけではなかった。稚内を経て日本海側からオホーツク海側に抜ける途中で、これまで何度もこの岬には立寄ったことがある。だから、日本最北端の地に足跡を印すという格別な想いを込めてこの岬を訪ねたのではなかったのだ。わざわざこうして宗谷岬にやってきたのは別に目的があったからである。
  十数年前にたまたまこの宗谷岬を訪ねた時のこと、私は岬のすぐそばにある出光興産の給油所で燃料を補給した。その折、所定の代金を支払うと、たまたま応対してくれた若い女性係員が領収証とともに一個の手製のお守りを手渡してくれた。ホタテか何かの小さな貝殻を二枚合わせて作ったかわいらしいお守りで、貝殻の内側には手書きの文字で「交通安全」の四文字とその日の日付とが記されていた。また、貝殻の表側には宗谷岬を表わすシールと出光興産のアポロ印のマークとが貼ってあった。どうやらこの給油所で給油したお客に一個ずつそのお守りを手渡しているらしかった。
  若い頃から私はお守りというものを持たない主義の人間だった。だから神社やお寺で売られているお守りなどを車につけたことは一度もない。人からお土産にお守りをもらったりすると、相手の好意は有り難いが、正直、その処理に苦労することも少なくなかった。ところが、縁というか何というか、その時もらったその貝殻のお守りだけは、何気なく運転席左下隅のチョーク調整ノブに吊り下げられたのがきっかけで、いつしか私と一緒に全国を走り回ることになってしまったのだった。
  沖縄を含めた国内の全都道府県を余すことなく通過し終えたくだんのお守りを、折あらばそのガソリンスタンドに返納しようと、私はながらく機会を窺っていたのだった。既に片方の貝殻が欠落してしまったそのお守りを新しいものと交換してもらおうという思いもあった。四、五年前にも一度宗谷岬を通過したのだが、あいにく深夜のこととあってスタンドは閉っており、その時には返納はならなかった。
  安田石油店経営の出光興産宗谷岬給油所に車を乗り入れると、すぐに若い女性の係員が現れた。軽油を満タンにしてくれるように依頼し、運転席に座したまま私は黙って作業が終わるのを待った。給油が終わり料金を支払ったあと、昔とおなじように手製の貝殻のお守りを領収書ともども手渡してくれるものかどうか確信はなかった。あれから十数年も経っていることだから、状況が変わっていてもおかしくなかった。ただ、安田石油店いうお店の名が昔のままだったので、期待はもてると内心では思っていた。偶然だが、安田という姓は、北海道旭川市出身の私の家内の旧姓とおなじだったから、安田石油店という店名は十数年経ったいまもはっきりと憶えていたのである。
  はじめてこのスタンドで給油したときは確かカードで支払いを済ませたんだったよな、などというどうでもよいことを想い出しながら現金で代金を支払うと、いったん店内に戻った女性係員は、領収書やおつりと一緒に、一枚のカードと一個の小さな貝殻のお守りを手にして現れた。六月二十四日という日付スタンプの押された「日本最北端給油証明書」なる記念カードとともに、昔ながらの貝殻のお守りを彼女が手渡してくれたとき、私は内心言葉には言い尽くしがたい感動を覚えたのだった。
  いったんお礼を言いながらお守りを受取った私は、片方の貝殻の欠落した古いお守りをはずしておもむろに係員に差し出すと、この日わざわざこの給油所を訪ねた理由を告げた。そして、持参してきていた拙著「星闇の旅路」の中の、この給油所について述べた一文を指し示しながら、怪訝そうな顔を見せる相手に、ここに至るまでの詳しい事情を説明した。ほどなくして私の真意のほどを察知してくれた係員は、新しいお守りと引き換えに私が差し出した古いお守りを快く受取ってくれた。
  新たにもらったお守りをすぐチョーク調整ノブにつけ終えた私は、給油所に別れを告げると、すぐさま宗谷丘陵に向かって走り出した。そんな私の脳裏を、この新しいお守りが全都道府県を通過し終えるのはいったい何時のことになるだろうかという思いがよぎっていった。
  宗谷岬駐車場そばの坂道を上り、展望所や宗谷岬灯台のある場所を通過してどんどん奥へと走っていくと、清浜からのびる道路と合流する。そこで左にルートをとると、広大な丘陵地帯が現れた。ゆったりと波打ちうねるようにして、一面若草に覆われた緩やかな丘陵が遠く四方に広がっている。
  宗谷岬を訪ねる人は少なくないが、この宗谷丘陵にまで足を運ぶ人は意外に少ないし、そもそもほとんどの人はその名さえも知らない。だが、初夏の頃になるとこの丘陵一帯は緑の天国と化す。牧草地や作物畑の広がる丘陵といえば、富良野の麓郷や美瑛の丘陵地帯が有名だが、背景に十勝岳のような高山はないにしても、広さと美しさにおいてはこの宗谷丘陵もそれらにひけをとらないだろう。丘陵地帯のはるか彼方に青く輝くオホーツク海が見えるのもなかなかにいい。
  吹き抜ける風の強さは相変わらずだったが、陽射は明るく、緑の丘や谷間の織りなす緩やかな起伏を這い滑るようにして、薄雲の影が次々に通り過ぎていった。一定のリズムで風に波打ち揺れる牧草のやわらかな輝きも美しかった。私は三百六十度の展望のきく高みに車を駐め、しばらく眼下に広がる眺望を楽しんだ。
  北海道の牧場地帯というと、すぐに誰もが想像するのは乳牛の姿だが、この宗谷丘陵の光景はその点でもちょっとばかり異なっていた。広大な草原に放牧され悠然と草を食むのは、白黒まだら模様の乳牛ではなく、全身が黒毛で覆われた和牛たちであった。知る人ぞ知る宗谷和牛は黒毛あるいは茶毛の肉牛である。点々と四方に散在する牛たちの黒い影は、北辺の地であるにもかかわらず、緑の野山と不思議なほどにマッチしていた。
  ほどよいアップダウンを繰り返しながら広がる野山を思うがままに駈けめぐり、瑞々しい輝きの夏草を満ち足りるまで食むことのできるこの季節を、牛たちもかれらなりに謳歌してはいるのだろう。牛の群の中には、まだ生まれて間もない子牛を連れているものも少なくなかった。まだ草をうまく食むことのできないそんな子牛たちは、母牛にすがるようにしてその後を追い、時折、乳房をくわえては、安堵したような表情を浮かべつつ空腹を癒してもいた。
  上猿払方面へと向かって丘陵地帯を縫う道路は、南へ向かって十七キロほど続いていた。完全舗装された素晴らしい道路で、牧場地帯を過ぎると、周辺の景観は白樺やブナ、蝦夷松、唐松などの林の広がる天然の混交樹林帯に変わった。道路の部分をのぞいては人手がほとんど加えられていないところだけに、一本一本の樹々それぞれが、尽きるのことのない物語を隠し秘めているという感じだった。
  十七キロ地点から先は道路が未整備のため交通止めになっており、他に抜け道もなかったので、そこからまた宗谷岬方面へと引き返さざるをえなかった。そして、その立派な舗装道路を快走しての帰り道、実を言うと私はちょっぴり複雑な気分になった。車で北海道の旅を続ける自分にとって、こんなにも自然に恵まれ、しかも快適なことこのうえない道路の存在は有り難かったが、手放しでは喜べないという思いがわいてきたからである。
  このような整備の行き届いた道路を新たに建設し、その維持管理を的確におこなうには大変な費用がかかる。人手のはいっていないところであればあるほどに、道路建設に伴う自然破壊もけっして少なくないだろう。それほどにして造った道路の利用度がどの程度のものであるかも問題となる。そういった視点から考えてみると、いまこうして自分が気持ちよく走っている道だって議論の余地がないわけではない。複雑な気分になったのはそんなことを考えたからだった。
  不必要な道路の建設に異議を唱える人々に対して、道路建設賛成の人々から「道路ができればあなた方だって通るじゃないですか?」という反論がなされることがよくあるが、確かに、人間というものは便利になるとついついその便利さになれてしまうところがある。どこまでが必要でどこまでが不必要かの的確な判断は、けっして容易に下せるようなものではない。不要な道路の建設をおしとどめるには、我々自身にもそれなりの理念と覚悟のほどが不可欠となろう。
  宗谷和牛の牧場地帯をもう一度通り抜け清浜へと向かう途中で、かなり成長した子牛たちだげが相当数一区画に集められているところに出た。無理やり親牛から引き離されたせいか、悲しそうな鳴き声をあげている子牛もある。それに応えでもするかのように遠くから親牛の鳴き声らしいものも聞こえてきた。
  農耕用をかねた和牛のたくさん飼われていた島で育った私には、すぐにその意味が読み取れた。それとは知らず親牛について波止場まで行った子牛が、有無をいわさず親牛から引き離され、クレーンに吊され次々に船倉に積み込まれる風景を毎年のように見てきたからである。悲鳴に近い鳴き声を上げて互いに呼び合う親牛と子牛の悲しげな姿は、まだ幼かった私の胸に深く焼きついて離れなかった。
  状況とその方法こそ違うものの、親牛から引き離されたこの子牛たちが、ほどなく遠くへと出荷されていくだろうことは明かだった。またそれゆえに、自らの運命を知ってか知らずか、思いおもいの格好で若草を食み、あるいは寝そべってまどろむ子牛たちの姿が、なんともいとおしく胸に迫ってくるのだった。増殖のために牧場に残される子牛と出荷される子牛との選別も当然おこなわれているのだろうが、出荷されるのは圧倒的に雄牛が多いに違いない。あとに残されるにしろ、そうでないにしろ、誕生からまだそう時も経たないうちに運命の岐路に立たされる子牛たちの歩む道は、想像以上に過酷なものなのだ。
  何もかもが躍動感に溢れ、旅人の目には緑の楽園にさえも映る六月のこの牧場一帯で、静かにしかし確実に牛たちの悲劇は進行していく。弱肉強食の世界の常だと言えばそれまでのことではあったが、つくづく人間とは業の深い存在であると思わざるをえなかった。



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