「マセマティック放浪記」 1999年1月13日
Mathematics Odyssey January 13, 1999
島の近代化と
環境保全のはざまで
 

  帰郷二日目の午後は、私の育った里村や隣村の上甑村をめぐっての挨拶回りが主な仕事となった。田舎育ちの方ならばわかっていただけようが、あっちの家に挨拶に出向いて、こっちの家には出向かなかったとなると、のちのち何かと面倒になる。また、訪問を予定した家々をめぐる途中で、予定に入れてなかった家の人から声をかけられれば、成り行き上、そちらにも挨拶に伺わないわけにはいかない。さきに田舎のありかたが大きく変わりつつあるという話をしたが、まだ挨拶回りの風習がすたれるところまではいっていない。
  東京から車に積んで運んできた三十個の虎屋の羊羮箱は、私の胸の内を嘲笑うかのように次々と消えていった。半分ほどに減った羊羮箱の数を確認しながら、残りの訪問先の家々を思い浮かべた私は、なんとも心もとない気分になってきた。もっと多めにお土産を用意しなかったのは誤算だったと気づいたが、いまさら地元のお店に顔を出して買い足すわけにもいかないし、たとえそうしたくても甑島で虎屋の羊羮なんか売っているわけがない。それに、たとえ猫屋(?)の安羊羮だってそれ以上買いそろえる余力はなかった。
  挨拶回りに要する時間そのものも馬鹿にならなかった。地元に近親者でもあれば、一時的にそこに身を寄せ、その家の誰かに代理でお土産だけを届けてもらうというような、ワンクッションおく方法もあるのだが、近親者がまったくいない私にはそれもできない。近親者がいないなら挨拶回りもお土産配りも不要ではないかと思われる方もあるだろうが、それは、慣習化された情念と情念の相互作用が生みもたらす「地縁」というものをご存じない方だから言えることである。それが現代にふさわしいかどうかは別として、地縁というものは都会の方々が想像するほどに生易しいものではない。
  二十数年ぶりの帰郷ともなると、出向いた家にお土産だけをおき、文字通りの挨拶のみをすませて帰るというわけにもいかない。少なくとも、お茶の一杯くらいは頂戴しながら、こちらの近況を伝え、相手の話にも耳を傾けなければならない。それだけでも三十分前後はかかるから、かりに三十軒の家を訪ねるとすると、最短でも十五時間は要することになる。しかも、それなりに広い島だから、次の家を訪ねる途中の時間も必要だし、訪ねる先が食事やお酒の用意をして待っていてくださる場合などは、二時間や三時間はたちまち過ぎ去ってしまう。だから、実際にはその二倍、三倍の時間が必要になる。
  あるお宅でご馳走になり、満腹状態で次のお宅を訪ねたらまた食事を出されたりして困ってしまうようなことも当然起こる。しかし、相手の好意を無にするわけにもいかないから、取り敢えず箸をつける。当然、胃袋が落ち着くのを待つしかなくなってくるから、行動は鈍り、その結果として挨拶回りの時間はどんどん長くなる。
  挨拶回りだけでまるまる二・三日は要するだろうと、私は胸の中で計算していた。そのことを息子に話すと、さすがに彼は驚いたような顔をした。ぜひ甑島に連れていってほしいと望む都会の知人も少なくないのだが、地域特有のこういう状況をあらかじめ理解してもらうことはなかなか難しい。「たとえ同行してもらったとしても、滞在期間が短い場合は、十分な案内はできないかもしれないですよ」と伝えたりすると、ほとんどの相手は怪訝な顔をするものだ。

  アルコール緩衝材として多少は役に立つことのわかった愚息を同行して挨拶回りをするかたわら、私は昔遊んだ野山や小川、さらには磯浜や海の様子などを少しづつ見て回った。もちろん、翌日に予定されている「幼き日の風景を胸に」というテーマでの講演に備える意味もあった。
  島内の集落どうしをつなぐ主要道や集落周辺の生活道路ばかりでなく、山野や海岸地帯を縫うすべての道が拡幅舗装され、車が走れるようになっていた。昔は狭く険しい薮道を歩いて登るしかなかった山岳部や、船で海から近づくしかなかった荒磯には、新しく造られた林道や農道が通じ、しかも、しっかりと舗装されていた。信じられないことだが、昔いたるところに見られた岩や石ころだらけのダートの道路は、もうどこにも見当たらなかった。
  驚いたのは、昔、ウナギやフナ、メダカ、テナガエビ、カニ、シジミなどを捕って遊んだ小川ばかりか、田んぼの畦道沿いの細い水路の隅々までが、その両側面と底面の三面すべてをコンクリートで覆われていたことだった。それによって、かつては毎年のように起こっていた、梅雨時や台風時の増水による河川の堤防決壊や畦道の侵食崩壊はなくなったのだろうが、当時その一帯に満ち満ちていた水生の動植物の姿は、まったくといっていいほど見られなくなっていた。水底の土砂や岩石がなくなり、生物の棲んでいた無数の土手の穴や変化に富んだ水中の凹凸が消えたのだから、それは当然のことである。小川や畦道脇の側溝を流れる水だけは、有機質が少ないためか奇妙に澄んでいたが、山間の清流とも異なるその無表情な水の色には、温かさや優しさがほとんど感じられなかった。
  私がたしか中学生だった頃、それまでいくらでも捕れたカワエビが、ある時期を境にまったく姿を消してしまったことがあった。子ども心にも悲しく不思議な出来事だったが、それが、当時の稲作に大被害をもたらした害虫、ニカメイチュウなどの駆除に用いられる有機リン系農薬の影響だったのだと知ったのは、大人になってからだった。米の増産と引き換えにカワエビは絶滅し、それを食べる川魚も激減したのだが、それでもまだ、川は生きていた。しかし、今回の帰郷で目にしたほとんどの川は、もはや川とは言い難かった。
  集落周辺の海岸線は高く頑強な防波堤で守られ、猛烈な風や激浪、高潮をともなう台風によって昔のように被害を受けることはなくなった。だが、安全と引き換えに集落近くの美しい玉石の浜辺や砂浜は失われ、海草が繁茂し色とりどりの魚が無数に泳ぎ回っていた天然の磯や魚礁は姿を消した。
  高台から集落全体を眺めると、白く大きな近代的な建物がずいぶんと増えているのが見てとれた。実際に集落の中を歩きめぐってみると、ほとんどの家々が暴風雨にも十分耐えうるしっかりとした造りに変わっており、食料品店や雑貨店、食堂その他のお店もかなりの数見受けられた。村の過疎化が進み、住民の高年齢化も起こっているが、それにもかかわらず、食生活をはじめとする人々の生活水準が飛躍的に高まっているのは明らかだった。
  村の近代化によって集落周辺の自然は失われたが、そのぶん、交通は便利になり、生活の安全性も生活水準も高まった。生活も厳しく、梅雨時の豪雨や台風の猛威のまえにひたすら翻弄されるばかりだった昔の村の姿を知る身には、島の近代化と生活の向上そのものは喜ばしいかぎりだった。だが、そのいっぽで、集落周辺の豊かな自然が失われたことは、たとえそれが都会に去った人間のエゴイズムに近い感傷だと言われても、やはり淋しく思われた。
  国内各地で起こっていることだが、自然保護と生活環境の近代化はどうしてこれほどまでに両立や調和が難しいのだろう。我が国には、将来の状況を十分に想定したうえで自然保護と自然開発の適切な調整をはかることのできる専門機関や専門研究者が存在しない、というのがその理由の一つかもしれない。それぞれの専門家はいるが、間にたって総合的に問題を処理することのできる人材はきわめて少ない。三面側溝一つとっても、生物の生存可能な構造を工夫するとか、なんらかの方法はあるはずなのだが、誰も真剣に考えてみようとはしない。
  離島振興法に基づく交付金の用途に対する国の査定のありかたなども、たぶん問題なのだろう。甑島のような離島の自治体の財政は九割以上が国や県からの交付税でまかなわれている。その恩恵に預かる自治体側は、当然、見た目にも使途が明らかで査定がしやすく、住民にも労賃のかたちで現金収入の道を開くことのできる公共事業、すなわち、道路や港湾の整備、防波堤や河川堤防の強化に予算の多くを注ぎ込むことになる。その結果、不必要なまでに道路開発が行われ、二重三重に防波堤や消波ブロックが強化され、さらには田んぼの隅々の細い水路までがコンクリート製の側溝に変貌する。麻薬とおんなじで、その感覚に慣れてしまうと、もう誰にもその流れをとめられない。
  かたちの見えにくい各種文化事業や福祉事業、人材育成、自然研究などにたくさん予算を注ぎ込んでみても、本土から査定にくる役人の評価と承認は得られないから、ほんとうに必要な範囲の公共事業が一通り終わると、それを境に事態は悪化の一途をたどる。もしかしたら、村の住民に交付金を分け与え、何もしないでおくのも一法なのかもしれないが、現実にはそうするわけにもいかない。
  自然美や自然の豊かさなどと一口に言うが、自然にも二通りのタイプがある。古来、まったく人間の手を寄せつけず自らその荘厳さを保ち続けてきた、峻険な山々や海蝕断崖、原生林のような自然が一方にあり、人間と共存することによってその美しさを磨き保ってきた田園風景や湖沼、海浜、河川、港湾などに見る自然美が他方にある。
  前者はともかく、後者のほうは、人間社会の古い因習や制度と深く関わりをもっている。各地域の農耕や漁業、林業などの日常生活と密着しており、地元の祭礼や信仰などともかたく結びついている。裏を返せば、この種の自然美は、都会では敬遠されがちな前近代的社会制度や風習、村落共同体特有の人間関係などがあってはじめて維持されるものなのだ。地方の古い伝統や因習が徐々に失われつつある現在、後者のような自然美の存続を願うことは、もしかしたら、ないものねだりなのかもしれない。              
  そうだとすれば、どんな理由があるにしろ、現在の私のように、先祖の墓を守り暮らすことをやめ、個人主義的風潮の強い都会に出て生活を送るようになった者などには、島の現状についてあれこれと偉そうなことを語る資格などないことになる。旧来の制度や因習の必要性をある程度認めたうえでその種の自然保護を叫ぶならまだよいが、そうではないくせに自然の美しさだけは固守せよなどと主張する一部の文化人の態度などは、虫がよすぎるということになるのだろう。
  そうしてみると、国民のほとんどが旧習や旧制度を時代に合わないものとして捨て去りつつある現在、かつては「白砂青松」という言葉に象徴された我が国の自然美が失われていくのは当然のなりゆきなのかもしれない。思いを深めるうちに、私はなんとも言い難い複雑な気分になってきた。いまではフェリーで車ごと島に渡れると聞き、お土産を運ぶためにもそれは有り難いと考えて、わざわざ東京からハンドルを握ってやってきた自分がなんとも浅薄かつ滑稽に感じられたからだった。なんのことはない、私もまた間接的自然破壊者の一人にすぎないというわけだったから……。
  もっとも、そんな都会暮らしの人間にも、一つだけ抗弁の余地がないわけではない。国や県から交付され、島の財政の九割以上を支えている資金の大半は、都市労働者が払う税金によってまかなわれる。だから、その使い道について都市住民が意見や希望を述べることは許されてよいだろう。
  幸いというべきか、集落周辺の自然美は姿を消しはしたものの、奇勝奇岩で知られる甑島全体の豊かな自然がすっかり失われてしまったわけではなかった。里村の沖に位置する無人島群やその周りを取り巻く青く美しい海も、珊瑚の群落も健在だった。開発の進んだ上甑本島の場合でも、集落から離れたところにある玉石の浜辺や荒磯は昔ながらの美しさと風情とをとどめていたし、長目の浜という甑島一・二の景勝地もそのまま残されていた。化石燃料の普及のおかげで薪として照葉樹が伐採されなくなったせいか、見事な照葉樹林帯が島のあちこちに復活しているのも印象的だった。自分の原風景の一部だけでもたどることができたのは、せめてもの幸せだと考えるべきなのだろう。
  これからの課題は、残されたそれらの自然を徐々に進む近代化の波とどう調和させ、どう活かしていくかにあることは明らかだった。そして、そのためには、島に住む人々と島外、なかでも都会に住む人々とがお互いに歩み寄り、膝を接して本音で話し合い、極力利害を調整して、その時々にもっとも適切な状況判断をしていく必要があるだろうという気がしてならなかった。
  甑島に渡る一・二週間ほど前、私は、ある雑誌の編集部から依頼を受け、岐阜県清美村のオークヴィレッジの創立者、工芸家の稲本正さんと、富山県利賀村利賀山房の創設者で高名な演出家の鈴木忠志さんを取材した。都会でのかつての業績を捨て、わざわざ飛越地方の山奥の村に本拠を構えたこの両氏の共通点は、古い村落共同体のもつしたたかな生命力を砥石とし、厳しい自然との共生を糧として、芸術家としての感性を世界に通用するレベルにまで磨き上げたことだった。秘境とまでいわれた山村は両氏を大きく育て上げ、稲本、鈴木の両氏もまた、それぞれの村を国内はおろか世界にまで広く知られる存在へと変容せしめた。
  清美村や利賀村のケースは、きわめて特殊な自然環境と民俗文化、さらには非凡な人材という三つの要素の幸運な廻り会わせによるものだと言えないこともない。しかしながら、「田舎の人たちは都会人が想像するほどには純朴でないし、そこの自然もけっして甘くなんかない。だが、どこかドロドロしたその凄じいばかりの生命力や、命をも脅かす大自然の暴力は、人間という存在の小ささを心底自覚させてくれるし、都会生活で眠り衰えた五感の鋭さを甦らせてくれもする。そうやって呼び覚まされた感性や生存のための知恵をもって、山奥の舞台で劇を演じ世界に発信してやれば、必ず人を動かし、感動させることができる」という鈴木忠志さんのこの言葉は、甑島の将来を考えるにあたっても一つの大きなヒントにはなるように思われた。



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