「マセマティック放浪記」 2001年6月6日
Mathematics Odyssey June 6, 2001
犬は猫なのか?

 「犬が犬であることを証明しなさい」と言われたら皆さんはどうするだろうか。「そんなこと当たり前じゃないか!」と言って一笑に付すか、「バカバカしいことを訊くんじゃないよ!」と、はなから相手の言葉を無視するかのどちらかだろう。「犬は犬である」とか、「人間は人間である」とかいったように、主部と述部がまったく同一の命題は論理学の用語でトートロジイ(同語反復)と呼ばれている。
  もちろん、このような命題を直接的に証明することは不可能である。あえてそれをやるとすれば、この世に生息する他のあらゆる動物の特徴や特性を片っ端から調べ上げ、犬がそれらの動物のいずれにも属さないこと(犬がそれらの動物のどれかに属するとすれば矛盾が生じること)を明示しなければならない。ものものしい言い方をすると、いわゆる背理法的証明に頼るしかないのだが、数学や論理学の世界の証明ならいざしらず、的確な分類さえも困難な無数の生き物の存在する現実の世界において、そんな悠長なことなどやっておれるわけがない。また、たとえやってみたところで、そこにはなんの意味もない。
  数理科学の記号をふくむすべての言語表現の根底には、「定義」と呼ばれる基本的概念(無条件で受け入れることを求められるおおもとの約束ごと)が存在している。数学の世界を例にとれば、「二点間を結ぶ最短距離を直線とする」とか「部分は全体の一部とする」とかいったようなことが定義になるわけで、通常はそれらを自明の理として受け入れていくしかない。むろん、そんな定義の証明は不可能であり、また無意味である。
  既存の定義にどうしても納得がいかないというのであれば、自分でより明白かつ的確な定義をつくり、それらをもとに理論体系の再構築を実践していくほかには解決の道はない。実際、リーマンやアインシュタインといった史上名高い天才数学者や天才物理学者たちはその困難な仕事を成し遂げてきたことで知られている。
 「犬が犬であることを証明せよ」といわれて窮するのは、「犬」という自明の定義を証明せよと迫られているからにほかならない。「A、Bの二点間を結ぶ直線の長さは同じ二点間を結ぶ曲線の長さより短いことを証明せよ」といわれているようなものだからだ。では、「犬は猫であることを証明せよ」と求められたとすればどうだろうか。数学の世界ならば、これは、「曲線は直線よりも短いことを証明せよ」といわれているようなものだから、悪い冗談だということで終わるだろう。証明を求められている命題そのものがおかしいとすぐわかるからだ。
  しかし、それが複雑な生命現象や社会事象のように連続的でダイナミックに変動する世界の話となると、そう単純にはいかないのが厄介なところなのだ。その論理展開に説得力があるかどうかはともかくとしても、「犬は猫である」という命題のほうは、詭弁を弄して様々な論証を展開することができるからだ。白を黒と言い含めることの得意な一流の詭弁家ならば、「足は四本だし、尻尾もある」といったような形態的特徴の類似性から説き起こし、あの手この手で、一般うけする面白い論証を考え出すことだろう。
  その気になれば、進化論を持ち出してルーツは猫も犬も同じだったと論じ、動物の声帯の構造を引き合いにして、「ワンという鳴き声の一変容形態がニャンという鳴き声だ」と強弁することだって可能である。こまかい話は省略するが、実際、「犬は猫である」といったような自明の定義からかけ離れた事柄をもっともらしく説明してみせることのほうが、そ筋のプロにとっては容易だし、また腕の見せどころでもあるからだ。
  この話は、「犬は犬である」という命題を「政治家は清廉潔白で、国民全体の利益のために存在するべきだ」という命題に、また、「猫は犬である」という命題を「政治家は権謀術数に長けていて、自己利益を追求する存在であるべきだ」という命題に置き換えてみるとよくわかるだろう。
  前者はだれもがごく当たり前のことと考えるから、いざその正当性を説明しようとするとなかなかに難しい。後者の場合については、いろいろな現実論や人間の本性論を持ち出し、「権謀術数に長けていることや自己利益を追求する能力があることは政治家に欠かせない資質であり、つまるところ、それらが国民全体の利益にもつながる」という論証を、面白おかしくいくらでも展開することができる。自明の定義に近い命題ほどその正しさを説明することは困難なのだ。
  本来そうであることが望ましい社会理念についていうならば、その正当性を説明するより、その反証事例を指摘することのほうがはるかに易しい。そして、詭弁家は、本来二次的なものに過ぎないその反証事例をもとに、問題の理念の突き崩しや骨抜き、さらには全面的な否定を狙う。ある命題の反例を挙げればその命題そのものを否定できるという数学的あるは論理学的な手法を、社会問題や社会事象の論証にそのまま適用すること自体間違いなのだが、作為的にそういった論法がとられたりもする。
 「言論の自由の理念に基づき報道の自由は保証されるべきだ」という至極当たり前の主張に対し、「公正」とは何かという議論などそっちのけにして、「報道は公正であるべきだ。公正でない報道は断固規制すべきである」などという批判的発言が平然となされたりする。そして、その主張を裏付ける好例として、所沢のダイオキシン汚染問題についての一部テレビ局の誤報問題のようなものが声高に取り上げられたり、各種マスコミの極端なプライバシー侵害問題が持ち出されたりもする。言論の自由や報道の自由が社会にとって有益であることを示す事例が有害な事例よりはるかに多いにもかかわらず、それらは見事にカモフラージュされてしまうのだ。しかも、このきわめて政治的な策謀に基づく議論が一般国民には想像以上に説得力をもったりするから厄介なのだ。
  所沢のダイオキシン汚染報道誤報問題の裁判では、担当地裁によって原告側の主張が一応退けられはした。しかし、原告団の一部の人々は判決を不当として高裁に控訴するという。控訴自体は法治国家における当然の権利だから、その善悪を云々する気は毛頭ない。同地のダイオキシン汚染がもともと農家自らの責任ではないことを思うと、また、農作物の売れ行きが落ち、少なからぬ損害を被ったことについても同情を禁じえない。
  だが、原告団の農家の人々の背後に、直接の被害者ではないにもかかわらずあわよくば逆転判決をと願い、それを報道規制の切り札にしようと狙っている一部政治家やその黒幕たちの影がちらついているのはいささか気になってならない。そういった動きや思惑には、今後とも十分な警戒を怠らぬようにしなければならないだろう。
  もしも高裁において逆転判決が出たりすれば、所沢の原告農家の人々はそれによって損害賠償を勝ち取り、大いに溜飲をさげることができるかもしれない。その判決が客観的にみて正当なものであるならば、むろん、それはそれでやむを得ない。だが、その代償として、日本国民全体が報道規制というかたちで不当な情報管理にさらされるようになり、取り返しのつかない不利益を被る可能性があるとすれば、それは重大なことである。
  無節操な一部国会議員主導の国政問題、教科書問題、国旗国歌問題、報道規制問題、放送法改正(?)問題、プライバシー保護問題、薬害エイズ裁判問題、各種環境保護問題、医療倫理問題など、最近の重要な社会問題に関する議論の根底や背景には、いずれの場合にもいま述べたような巧妙な詭弁の論理の魔の手が潜んでいるような気がしてならない。陰で高笑いしている権力者や黒幕たちの姿が見え隠れしてならないのだ。
  私のような一芥のライーターの言うべきことではないかもしれないが、マスコミに関わる多くの人々は、とくに良識派を自負するマスコミ人たちは、とおりいっぺんの表面的な綺麗ごとを述べるばかりでなく、相当な覚悟をもって問題の本質の深刻さを危惧し、その対応策を真剣に考えておく必要があるだろう。「犬は猫である」と声高々に主張する人々や、その論理に説得煽動された人々に対して、「犬は犬である」とオウム返しに繰り返しながら立ち向うだけではもはや不十分だからである。どんなにそれが大変なことであっても、反例には逆反例で、巧妙なレトリックにはそれ以上に巧妙なレトリックをもって応酬するしかないと思われる。
  天才数学者リーマンは、二点間を結ぶ最短距離を直線と約束し、二点間を結ぶ直線は一本しか存在しないとするユークリッド幾何学の定義を捨てた。そして、二点間の距離すなわち二点を結ぶ直線は任意に定義できると発想を大転換することによって、リーマン幾何学と呼ばれる新しい幾何学体系をうちたてた。さらに、リーマン幾何学という画期的な科学論理の記述手段を手にしたアインシュタインは、運動、質量、光、エネルギー等に関する革命的な定義を生みだし、特殊相対性理論、一般相対性理論を確立した。
  まるでジャンルの異なる世界の話だから同列に論じることはできないけれども、もしかしたら、昨今の国内社会問題の解決にはリーマンやアインシュタインなみの発想の転換が求められているのかもしれない。時代の流れの中で定義が不適切になったとするならば、英知を結集しより適切な新定義を生み出していかなければならないからだ。善くも悪しくも、この世のすべては定義にはじまり定義に終わるといってよい。少なくとも、悲惨な過去の世界において猛威をふるった時代錯誤的な定義に立ち戻る愚だけは避けなければならないだろう。

  明証性、すなわち、ある事柄を自明だと感じるプロセスの奥底には、どのような場合でも、我々人間の意識に対し暗黙かつ無条件の承認を迫る大前提が、定義あるは公理というかたちで巧妙に隠されている。そして、その大前提を我々の思考形態が抵抗なく受け入れることができる場合、あるいは、もともとその大前提が我々の思考形態の産物であるような場合に、「明証性がある(明かである)」という判断がなされる。したがって、ものごとを証明するという行為には当然限界が生じてくる。そして、その限界のゆえに、巧妙このうえない様々なレトリックや、「犬は犬である」といったようなトートロジイ(同語反復)がそれなりの存在意義をもつことになる。
  誤解を恐れず言わせてもらえば、結局、証明とは、直観的には納得も理解もしにくい高度な概念を、直観的に明かだと感じることのできるよりわかりやすい基本的な概念に置き換え、その正当さを人々に納得了解させることである。したがって、そこには、「証明の対象になっている高次の概念は、それに先立つより身近で易しい概念群で構成されている」とする暗黙の大前提が潜んでいる。そうすると、一番もとになっている概念、すなわち定義や公理は証明不可能で、それらを無条件で受け入れるしかないことになる。
  また、易しい既成概念の組み合わせでは説明がつかないが、それでも魅惑的な新概念や新事象に出遭ったような場合には、それらを証明不可能な定義、あるいは絶対の真理として無条件で信じ受け入れるか、さもなくば、見かけだけはもっともな虚偽ないしはまやかしとして排斥するしかなくなってしまう。そのうえ、ある基本的な概念に対し直観的に明証性(自明さ)を感じることができるかどうかには大きな個人差が存在するから、証明そのもののもつ明証性も相対的なものにならざるをえない。
  そう考えてみると、「あるものごとに明証性(自明さ)がある」ということは、「その事象の様態がその時代の一般的な認識のありかたに偶々うまく適合している」というだけのことであって、その事象の明証性が永遠に不変であることが保証されているわけではないことになってしまう。なんともパラドキシカル(逆説的)な話ではあるが、我々は、明証性があるがゆえにそのものごとを正しいと信じているのではなく、特定の前提概念を正しいと信じているがゆえに明証性があると感じているだけのことである。
  このような観点に立つと、ある理念や理論を説くにあたっては、その根本となる前提概念を、如何にしてなるべく多くの人々に抵抗なく受け入れさせるか、そして、できることなら感動をもって信じさせ了解させうるかが重要な問題だということになってくる。密かにその使命を託されて我々の前に立ち現れるのが、巧妙かつ荘重な自同律の叫び声であり、華麗な比喩やレトリックであり、さらにはまた諸々の神の言葉なるものにほかならない。
  ある者が「はじめに言葉ありき」と説き、ある者が「我思うゆえに我有り」と叫び、ある者が「万物は運動し流転する」と謳い、またある者が「言葉は言葉である」と高らかに唱えるのも、つまるところそのような背景があるからなのだ。

  小学生の頃の教科書にある教訓的な話が載っていた。詳しい内容は忘れてしまったが、要するに、貧しい老夫婦が行き倒れになりかかった一人の貧しい旅人を助け温かくもてなしてやったところ、その旅人はお礼にと蜜柑の種を一粒だけ残していったというような話であったと記憶している。
  その種をまくと一本の蜜柑の苗木が芽生え、みるみる成長してすぐに立派な成木になった。不思議なことに、その蜜柑の木には嵐の日でも雪の日でもかならず毎日一個ずつ美味しい蜜柑の実がなった。その話を聞きつけた大金持ちがやってきて、お金はいくらでも出すから是非その蜜柑の木を譲ってほしいと申し出たが、老夫婦は世の中のすべてのお金を積まれても売るわけにはいかないと断った。そしてその蜜柑の木にはその後も毎日一個づつ蜜柑の実がなりつづけたというのである。いずれにしろ、現代の道徳教育好きの議員先生方が耳にしたら、自らの悪徳ぶりや金権ぶりは棚に上げ、涙を流して大喜びしそうな美談であった。
  ところが、突然、クラスの生徒の一人が、「自分だったらその蜜柑の木をさっさと売ってしまうに違いない。なんでその老夫婦はそうしなかったのだろう?」という素朴な疑問を提出したのだ。慌てたのは担任の教師である。なんとかして老夫婦のとった態度の正しさ(?)を納得させようとあれこれ努めてみたのだが、その生徒は頑として自らの意見を変えなかった。そればかりか、その同調者がクラスの半数近くにまで及んでしまったのだ。そのままではまずいと判断した教師は、一計を案じ、「蜜柑の木守護派」と「蜜柑の木売却派」に生徒を分けてディベーティングをやらせることにしたのである。
  たまたま、私は両派の討論の司会役にまわされたのだが、教師の思惑を反映するかのように、蜜柑の木守護派には比較的成績のよい子供たちが数多く配されていた。そうして始まったディベーティングの結末は蜜柑の木守護派の完膚なきまでの敗北であった。「一日に一個の蜜柑がなったってそんなもの何の役にも立たないじゃないか。蜜柑の木を売って有り余るお金が手に入れば、いくらでも心豊かな生活を楽しむことができるし、話に出てくる旅人のような貧しい人々だってどんどん助けてあげられる。いろいろな施設だってつくることができる。いったいそのどこが悪いのだ」という蜜柑の木売却派の舌鋒に、蜜柑の木守護派は沈黙するしかなかったのであった。
  苦虫をかみつぶしたような表情の教師によって、最後には司会役の私も蜜柑の木守護派にまわって意見を述べるように指示されたりもしたのだが、むろんそれでどうにかなるような問題でもなかった。蜜柑の木守護派に立って論陣を張ることは大人にだって難しいことなのだから、どう足掻いてみたところで、小学生の身には、「老夫婦にとってその蜜柑の木は生き甲斐で、大切だったから大切だったんだ」といったトートロジイ的なことしか言えず、売却派の攻勢にギブアップするしかなかったのである。老夫婦の信心深さやその清貧思想の意義を説得力をもって弁護するなど、幼い子供にはどだい無理な話であった。
  その話の内容そのものが教訓として私の心に残ることはなかったものの、皮肉にも、そのデベーティングにおける蜜柑の木守護派惨敗の有様は大きな教訓としてのちのちまで私の胸の奥底に深く刻まれるところとなった。非現実的な精神論重視のにおいがしないでもないその訓話教育が失敗したのは当然だと笑ってすませられる。だが、それが表現の自由や報道規制に関する問題、自然保護問題、各種の政治問題や社会問題などにおいて、自明というべき正論が詭弁の嵐の前に晒され翻弄されるのを傍観するのは忍びない。蟷螂の斧と自嘲したくもなるのだが、まあそのようなわけで、柄にもないこんな戯言を綴ってみる気にもなったようなわけである。



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