「マセマティック放浪記」 2001年5月23日
Mathematics Odyssey May 23, 2001
神楽坂の酒闘?

  永井明さんと私とが担当するアサヒ・インターネット・キャスター(AIC)中のコラム欄には、「医者vs.数学者」などといういかめしいタイトルがついている。もちろんこれは、ほっておくとどこまでも暴走しかねない我々二人に一定のタガをはめておくべく、AICの統括責任者穴吹キャスターがあらかじめ仕組んだ業であって、いささかも我が意を得たものではない。いっぽうの「漂流記」と「放浪記」というタイトルも穴吹キャスターが独断的に決めたものなのだが、こちらのほうはかなり的確に我々二人のライターの本性を押さえた命名だと言ってもよいだろう。
  そんなわけだから、永井さんと私とは、各々の本性にのっとって、もっぱら、漂流者あるは放浪者として振舞うように心がけているわけで、医学や数学の話がほとんど登場しない理由のひとつはそんなところにもあるかもしれない。もともと、穴吹さんは我々に執筆を依頼するにあたって、医者を辞めた人間と数学者を辞めた人間の「辞めた者同士の組み合わせ」で漂流記と放浪記を担当してもらいますからと伝えてきていたのだ。
  そんな流れからすると、「医者vs.数学者」ではなく、「慰者vs.崇楽者」か、さもなければ、「漂流者vs.放浪者」というタイトルのほうがよりふさわしかったのかもしれない。いや、いまにして思えば、酒豪の永井さんと酒を飲めない私との組み合わせだから、「上戸vs.下戸」とするのがベストだったような気がしてならない。
  永井さんと私が手記を書きはじめてからもう二年半ほどになるが、実をいうと、永井さんと私とはこれまで一度しか会ったことがなかった。昨年、永井さんがたまたま私の住む府中市に公演にみえたとき、焼酎「百合」の原酒「風に吹かれて」を手土産にして会場の控え室を訪ね、ほんの十分ほど初対面の挨拶を交わしただけである。永井さんは想像に違わず自己抑制のきいたとても素敵な方で、上戸と下戸の違いを超えてすぐにも意気投合できそうな感じであった。友好促進の陰には「風に吹かれて」の隠れた効能もいくらかあったのかもしれないが、ともかく我々は短い会話を交わしたあと再会を約して別れたのだった。  
  しかし、それ以降、双方ともに仕事に追われ(その実は仕事をしないための口実に追われ?)永井さんとの再会はなかなか実現しなかった。そのご永井さんとメールのやりとりをするなかで、穴吹さんに場所と時間を設定してもらい三人で会おうというところまで話は進んだのだが、肝心の穴吹さんに、なかなか動いてくれる気配が見られなかった。たぶん、行司役の穴吹さんには、「上戸vs.下戸」の対戦をうまく捌く自信がなかったのだろう。
  さもなければ、上戸と下戸が上下同盟を結び、行司の不手際をなじり吊るし上げる挙動に出るかもしれないことをあらかじめ警戒したのかもしれない。いずれにしろ、我々二人の対戦の場を本欄中に設定し、ハッケヨーイと焚きつけておきながら、いまさら行司役を放棄するとはなんともけしからぬ話ではあった。
  そこで四月末のこと、私は、「上戸vs.下戸」の直接対戦をなんとか実現しましょうという主旨のメールを永井さんに書き送った。四月からのAICの画面表示の大幅変更にともなって、永井さんと私とは有無を言わさず別々の部屋に押し込まれ、家庭内離婚の状態になってしまっていたので、この際なんらかの対応策を講じておく必要もあった。
  幸い、すぐに、永井さんから、自分のほうで私と穴吹さんを含めた三者の都合を考慮し、適当な日時と場所を設定するからという返信メールが送られてきた。対戦者のうちの片方がその相手やレフリー役までも招待してしまおうというのだから、「上戸vs.下戸」どころか、「上戸in hands with下戸、行司」ということになってしまって、もはやこれでは対戦になりそうにもなかった。でもまあ、この殺伐な世の中ゆえ、「和」に勝るものはないだろうということになり、友好会議の設定をすべて永井さんにお任せする運びとなった。その結果、まずは五月十日の午後七時に飯田橋の永井さんの事務所に集まろうということになったのである。
  友好会議に出向くには当然なにかしら友好の証が必要となる。相手がアルコール党の永井さんとあれば、友好の証の持参品として、鹿児島は甑島産の芋ジュース(?)「百合」か、前述したその原酒「風に吹かれて」に勝るものはない。ただ甑島の蔵元塩田酒造から取り寄せていたのでは間に合いそうになかったので、当日の午前中、東京で焼酎「百合」や「風に吹かれて」を置いている数少ない店のひとつ、三鷹の宮田酒店を探し当てた。そして、たまたま一本ずつ残っていたお目当ての品を購入、それらをぶらさげて飯田橋に向かい、約束の時刻かっきりに、駅からほどないマンションの六階にある永井事務所のチャイムを鳴らした。
  ドアを開け、にこやかに私を案内してくれたのは、とてもチャーミングで感じのいい女性の方だった。永井さんの手記の中に折々登場するウライさんというのはこの方に違いなかった。ほどなく奥の部屋から現れた永井さんと挨拶を交わし、勧められるままにテーブルに腰をおろすと、飲み物は何がよいかと尋ねられた。永井さんの事務所の冷蔵庫にはアルコール類しかはいっていないんだろううな、もしかしたら、水道の蛇口からもアルコールしか出ないんじゃないかな?――などと想像をめぐらしながら、おそるおそる、「ウーロン茶はありますか?」と返事をした。するとすぐに、ウライさんがよく冷えた琥珀色の飲み物を運んできてくださった。まさか生ビールかウイスキーじゃないだろうなと思いながら一口頂戴してみると、間違いなくそれは上質のウーロン茶であった。
  そうこうしているうちにまたチャイムが鳴った。穴吹さんの登場、いや穴吹さん御一行様の登場だった。朝日新聞電波メディア局の技術者として、AICをはじめとするasahi.comのテクニカルサポートを担当している後藤康弘さんと早川由紀さんが穴吹さんの同行者だった。後藤さんはまだ若いけれどもがっしりとしたタイプの男性で、みるからに存在感に満ち溢れていた。過日の穴吹さんの話の中で紹介された絶対音感の持ち主の一人はこの後藤さんなのだという。いっぽうの早川さんは双眸の輝きの美しいみるからに爽やかなお嬢さんで、好奇心と知識欲の旺盛さが全身から溢れ出ていた。穴吹さんの説明によれば、後藤さんと早川さんを同行したのは、下戸の私にかわって二人に永井さんの相手を務めてもらうためなのだそうであった。
  あらためて簡単な挨拶を交し合ったあと、その場のテーブルを囲んですぐさま前哨戦が開始された。永井独立軍に対するは穴吹、後藤、早川連合軍という感じで、武器は何本かの缶ビールであった。ウーロン茶というオモチャのピストル同然のものを手にした私は、必然的に中立国の停戦調停委員みたいな役割を担うことになってしまった。なんてことはない、いつのまにかこの下戸の身は行司役にされてしまったのだった。ビール砲の撃ち合いが続いている最中に、永井軍の兵站(へいたん)をつかさどるウライさんは、難を避けるかのようにその場を退出していった。幸いというべきか残念というべきか、私が持ち込んだナパーム弾なみの重火器は卓上で封印されたままだった。
  ビール砲の弾が尽きるのを待っていったん休戦協定が成立、本戦の場を永井さん通いつけの神楽坂界隈のお店に移すことになった。永井さんの手記中に折々登場する風情豊かな夜の神楽坂をゆっくりと上り、中心街からすこしはずれた横丁に入ると、ほどなく「もきち」という名のお店に着いた。永井さんに、斉藤茂吉にちなんでつけられた店名ですかと尋ねると、そのようだとの返事だった。経営者が山形ゆかりの人なのであろう、どことなく古い日本の郷愁の漂う、なかなかに落着いた雰囲気のお店であった。従業員の一人ひとりにも、テーブルを囲む個々のお客にも、心なしか人情の濃やかさが感じられてならなかった。

  最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも  茂吉

  なぜか一瞬、私の脳裏には斉藤茂吉のそんな歌が想い浮かんだ。そして、この「もきち」での今宵の本戦は、最上川の急流に逆らって白波が立ち騒ぐほどに激しく荒れ吹雪くのか、それとも、遠く故郷の冬を想いながらこの歌を詠んだ茂吉その人の心境のように、参戦者それぞれの心の内へ内へと深く向かって終結するのか、私にはいささか興味のあるところでもあった。自分自身は下戸ではあるが、ウーロン茶やコーラ、ジュース片手に、酒豪と名のつく面々にいつ果てるともなく付き合うのはいつものことで、私にはすこしも苦にはならなかった。
  我々はお店の長テーブルの隅をU字形に囲んだ。U字の右端に永井さん、その隣に永井さんの介添え役の早川さん、そしてU字の底部に右から私と後藤さん、U字の左端部には穴吹さんという陣形だった。永井さんと穴吹さんとはテーブルを挟んでほぼ向かい合うかたちになっていた。皆が席に着き終え、戦闘態勢が整うと、ちょっとした刺身の盛り合わせや魚の唐揚げ、田舎風の煮物、山菜などを兵糧に、そして、お店自慢の銘柄種冷酒を重砲にして粛々と本戦の火蓋は切って落とされた。
  その詳細を伝えることができないのは残念だが、お酌合戦の合間に繰広げられる会話の応酬にはそれなりの妙味があった。まずは穴吹さんの仕事上の様々な苦労譚が語られたが、そこは大阪仕込みの話芸の持ち主、どこまでが本意でどこまでが座を盛り上げるためのオトボケなのか、聞いているうちにさっぱりわからなくなってくるところなどはさすがであった。過日の朝日新聞日曜版の旅する50人の記者、「強壮伝説」のなかで、執筆者の保科龍朗記者が「ふと目覚めると耳元に、自転車操業に疲れ果てている、この連載のキャップの、ナニワの商人のような笑顔があった」と書いているが、そのナニワの商人のような笑顔の主が誰であるのかはいまさら書く必要もないだろう。
  穴吹さんのあとをうけた永井さんの口からは、カナダのモントリオールに留学し医学研究に従事していた頃の想い出話などがユーモアたっぷりに語られた。無重力の状態において芳香物の放つ香りと人間の嗅覚との関係がどうなるかを解明することに、一時期永井さんは関心を持っていたという。マグロ調査船のシップ・ドクターとしての永井さんの体験談も大変に面白かった。いつもオトボケ調の航海記を書いている永井さんだが、その実は国内でも三指にいる船医で、最終的な狙いは南極観測船で南氷洋に乗り出すことにあるらしいことを知って、私は大いに興味をそそられた。そう遠くない将来、オーロラをバックに皇帝ペンギンとの飲みくらべに励む永井さんの姿が見られるかもしれない。

  忌憚ないお互いのやりとりを通して、AICに関わっている誰もが、かたちこそ違えそれぞれに苦労しているらしいことがわかったのも大きな収穫であった。AICで筆を執っている穴吹さんら朝日の記者諸氏も、そして、後藤さんや早川さんのようなAICのテクニカルサポート担当者も、さらには、永井さんや私のような外部のライターたちも、皆が皆心身の労を厭わずボランティア的状況のもとで個々の任務を果たしているのだということが明白になったのは、チームワーク上も大変有意義なことであった。
  朝日新聞系のメディア媒体のなかで、アサヒ・コムはインターネットの普及にともない近年ようやく認知されはじめたメディアなのだが、そのアサヒ・コムの中でもAICはきわめて異端的な存在であるようだ。しかも、そのAICのなかでも八方破れで無節操なライターと目されているらしい私や永井さんが、折々ビーンボールやデッドボールを投げ込んだりするものだから、キャッチャーの穴吹キャスターはハラハラしながらその処理に苦労することが少なくないらしいのだ。全体的に見て各ライターの私的色合いが濃く滲み出ているAICのことだから、いつなんどき解体消滅の憂き目に遭ってもおかしくないだろうことはうすうす私にも想像がついた。
  ただ幸いなことに、AIC全体としての読者数は国内国外を問わず想像以上に増えているのだそうで、たとえば、ベル研究所やマックスプランク研究所をはじめとする海外の高名な諸研究所に務める日本人研究者の五割以上が愛読者なのだというから、その点は有り難いというほかない。なんといっても読者は神様、日々十万件単位のアクセス数があるとなれば、AIC関係者の励みとならないわけはない。多数の読者の声援を頼りにして頑張れるところまでは頑張ろう、そして、もし消滅する時が来たら、スーパー・ノヴァ(超新星)なみに大爆発を起こして終わろうなどと、半ば冗談、半ば本気を交えて語り合いもした。
  永井さんへのアルコール製実弾補給係を兼ねている早川嬢は、自らも次々にグラスを空にしながら、目を細めなんとも幸せそうな微笑を浮かべるドクターに向かって、絶え間なく質問を浴びせかけている。満ち足りた顔つきの永井さんは、そんな早川嬢の好奇心に感心でもするかのように、一つひとつの問いかけに丁寧に応じていた。本戦などと勇ましい書き方をしてきたが、酒杯を手にした永井さんの表情は穏やかそのもので、実に紳士的な気品溢れる飲みっぷりであった。最愛の恋人同様に酒を心底愛してやまないという風情の永井さんを、飲めない私はいささか羨ましくも思いながら眺めていた。一言でいうなら、それは内へ内へと静かに向かう抑制のきいた酒であった。ただし、これはその晩「もきち」で目にしたかぎりでの感想だから、かならずしも保証のかぎりではないことをお断りしておきたい。
  私は両隣の早川さんと後藤さんにお酌をしながら、何か問われれば答える程度でもっぱら他の四人のはずむ話に聞入っていた。すると、話の風向きが変わり、早川さんが私の本業は何かと尋ねてきた。私に代わってすかさずその問いに答えたのは穴吹さんだった。
 「永井さんはちょっと売れてる作家で、本田さんは売れてない作家!」――それはいかにも背負い投げの得意な穴吹流の答えではあった。見事にぶん投げられた私は、空中で受身の態勢を取りながら、敵は「ぜんぜん」というトドメの形容詞をつけ落としてしまったから、この背負い投げは有効か技あり程度にはなっても一本にはならないな、と内心でニヤリとしていた。不精な性格もあって、ここ二年ほど著作を出していないから、売れない作家である前に、売る本のない「売らない作家?」でもあるわけだ。
  たしか永井さんの話か何かがきっかけだったとは思うが、たまたま伝書鳩のことが話題になった。すると、穴吹さんが、朝日新聞社にはちょっと前までは鳩係なるものがあって、伝書鳩の飼育を担当していたものなのだと話しはじめた。そして、日比谷公園あたりの鳩のほとんどは、逃げ出したり戻ってこなかったりした当時の伝書鳩の子孫たちなのだなどという、半ば人を煙に巻くような話を、もっともらしい顔をして面白おかしく語ってみせた。すっかり感心したように頷きながらその話に聞き入っている若くて素直な早川嬢の隣では、永井さんが楽しそうに笑いながら無言でグラスを傾けていた。
  私の左に坐る後藤さんは穴吹さん相手にグラスを空け続けながらも、料理やおつまみ、さらにはお酒の追加注文などにあれこれと細かな気遣いを見せていた。AICの技術面のサービスとサポートを実質的に担当しているのはこの後藤さんや早川さんらだとのことで、その苦労は相当なものらしい。穴吹さんの語るところによれば、ごく最近のこと、急に後藤さんらが辞めてしまうという話が持ち上がったりして、AICの存続が危ぶまれたこともあったのだそうだ。中国通でもある後藤さんは、大変優れたコンピュータ技術者であるという。
  四月からのアサヒ・コムの画面の全面変更に伴う煩雑な技術処理のため、現在AICのバクナンバーが一時的に読めなくなってしまっているが、後藤さんたちは、朝日の電子電波メディア局企画開発セクションでの本来の仕事の合間をみつけては、その復元処理を懸命に進めているところらしい。言語開発やソフトウエアのコーディングなどを昔やったこともある身だから、その苦労はよくわかる。舞台裏からみると、ボランティアベースのAICは、どうやら何度も綱渡り的状況に瀕し、その度ごとになんとかその場を凌いできたもののようなのだ。
 「すっかり味覚が麻痺した状態になってきたから、アルコールと名さえつけば安い酒でもなんでもいいですよ」という言葉が永井さんの口をついて出る頃には、もうすっかり夜も更け、オーダーストップの時刻間際になっていた。アルカイックスマイルを湛えた半眼の弥勒菩薩そっくりの表情になった永井さんは、これまた美酒に酔う天女さながらの面持ちを見せる早川さんとなにやら楽しそうに語り合っている。そのいっぽうで、私は、グラスを重ねるうちにかなり気分が高揚してきたらしい後藤さんと話し込んでいた。穴吹さんは、二組に分かれた会話の場を気ままに行き来している感じだった。
  楕円関数などを使ってコンピュータによる暗号処理の仕事などもしているという後藤さんは、自分の言葉の繋ぎ目ごとに「うん」という一語を加える独特の口調で、数学に関する質問をあれこれと尋ねてきた。「数学史上もっとも偉大な数学者は、うん、いったいぜんたい誰たったんでしょうかね、うん。やっぱりガウスあたりですかねえ、うん、それともガロアか微積分の元祖ライプニッツかニュートンあたりですかねえ、うん?」といった具合なのである。
  己の能力不足を自覚したがゆえにその世界からとっくに足を洗った三流数学者のなれの果てのこの身に、まともな答えなど出来ようわけもなかった。だが、誰が史上最大の数学者であったかというこの質問を、後藤さんはこの日私にぶつけてみようと手ぐすねひいてやってきたらしい。こちらにすれば踏絵を踏まされるようなもので、なんとも困ったことではあったが、だからといって後藤さんの熱心な問いかけを無視するわけにもいかなかった。
  この世界の歴史や文化の発展過程がみなそうであるように、数学という学問の一分野もまた、単純かつ不可逆的な直線状の進歩図式の通りに発展してきたわけではない。そもそも、時代の先端を行く数学者というものは、自分の研究が実世界で何かに役立つかどうかなど全く念頭にないのが普通である。また、現在、過去を問わず、天才数学者の残した研究業績というものは相互に密接な関係があり、それらの評価も、それらが社会にもつ意味も、時代背景や社会状況の推移に応じて刻々と移り変わっていく。
  数学の世界といえども多面的な存在なのであって、どの分野の誰の研究が最も偉大かつ重要ですかと問われても、それにはなんとも答えようがない。たとえて言うなら、無数にあるウニの針のうち、どの針がウニにとって一番大切ですかと訊かれているようなものである。いちばん長い針だからといってウニ全体にとってそれが最重要だとは限らないし、もっとも短い針だからといってそれが最重要ではないないとも言い難い。シェークスピアとダヴィンチとベートーヴェンとアインシュタインの四人を並べて誰が一番偉大ですかと尋ねらても、そんな問いにはもともと答えようがない。数学の世界にかぎっても、実は同じことが言えるわけで、過去の数学者の業績に甲乙はつけ難い。
  後藤さんの質問に対しては、まあそういったようなその場しのぎのいい加減な答えかたをし、すっかり相手を煙に巻いてしまった。後藤さんが納得してくれたのかどうか定かではなかったが、日々退化し萎縮していく我がささやかな頭脳をもってしては、そう応じるのが精一杯のことではあったのだ。ただ最後に、後藤さんのその問いに答えるのは難しいけれど、野宿のやり方についてならいくらでも伝授しますよと応じてもおいた。
  閉店時間となった「もきち」をあとにした我々は神楽坂の大通りに出た。そしてそこでタクシーを拾おうということになった。永井さん行きつけの新宿近くのお店で第三次会戦をやろうということになったからである。しかしながら、拾ったタクシーに乗り込もうとする段階で、翌日の仕事睨みの穴吹さんがまず不戦宣言を表明し、独りその場から姿を消した。残った我々四人はタクシーに乗ってとりあえず新宿方面に向かったが、翌日のスケジュールの関係もあって、結局私も戦場入りを避けることにした。
  新宿への車中、突然、後藤さんは、永井さんに向けてとくに一つだけ用意してきたのだという質問を発した。
 「いい酒といい女とがある場合、うん、永井さんはどちらをとりますか、うん?」 
  間髪を入れず永井さんはズバリと答えた。
 「いい女だね!」
  永井さんのアッパレな応答ぶりに拍手を送りながら、そのいっぽうで、私に向かって、「ウーロン茶といい女ではどっちをとりますか?」とは尋ねてくれなかった後藤さんの賢明さをいささか恨めしく思うのでもあった。
  新宿の中心街に入る少し手前で永井、後藤、早川の三人は途中下車し、最後の決戦場へと向かっていった。なんのことはない、本来ならその決戦場に臨むべき穴吹軍と本田軍とはあえなく戦闘不能状態となり、永井独立軍と穴吹予備軍のみが夜を徹して雌雄を決するという予想外の成り行きになってしまったのだった。三人とはそれぞれに固い握手をして別れ、車中に残された私だけが独り新宿駅へと向かったが、そのごの三人の消息はようとして知れない。私としては、ひたすら一行の無事を祈るのみである。



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