「マセマティック放浪記」 2001年4月25日
Mathematics Odyssey April 25, 2001
十三日の金曜日に

  ――明日は十三日の金曜日だよなあ、しかも仏滅のおまけまでがついているときているから、そろそろ誘いのテレフォンコールがあってもおかしくないな――そう思っていたら、案の定、キュルキュルキュルと電話が鳴り出した。去る四月十二日のことである。受話器から流れ出る独特の声の響きは、間違いなく信州穂高町在住の石田達夫ドラキュラ翁のものだった。石田翁の語るところによれば、八十余年にわたるその劇的な人生において、「十三日の金曜日」はなぜかラッキー・デイになることが多かったのだという。いつも人を喰ったことばかりやっているからドラキュラ翁と呼ばれているのだが、さすがその名のことだけはある。
  相手にとってそのことがラッキーだったのかアンラッキーだったのかいまだに定かではないが、私がこの石田翁と旅先の穂高駅で出逢ったのもやはり十三日の金曜日のことだった。その時以来、私は、ドラキュラ翁お気に入りの十三日の金曜日を選んではその怪しげな館を訪ね、この老人の奇妙な生態の解明に努めてきた。こちらが忙しくてついつい十三日の金曜日であることを忘れたりしていると、相手のほうも、「今日は特別な日のはずなんですがね、何も変わったことがなくて退屈でねぇ……」などと、少々意地悪な口調で電話をかけてくるようになった。
  ジグソーパズルを解くのとおなじ要領で、なんとか私はその破天荒な人生模様を明かにすることはできた。以来、その話を拙い筆に托そうと時間を割いてきているのだが、諸々の事情で執筆が大幅に遅れ、まだ脱稿にはいたっていない。そんな私をからかうように、「あんたが原稿を書き上げるまでは死ねないよなあ。あと十四、五年ほどかけて原稿を仕上げてくれれば百歳までは生きられる計算になるんだがなあ……」などと石田翁は軽口を叩く。こちらも負けじと、「そんなに長生きされたんじゃ世の中の迷惑ですよ。まあ、あと半年ほどで書き上げちゃいますから、それまでのはかない命だと覚悟しておいてたほうがいいですね」と相応に切り返したりしている。
  「十三日の金曜日」に「仏滅」のおまけまでがつくという、キリストに釈迦までが絡んだダブルパンチのアンラッキー・デイは、石田翁にとっては二重のラッキー・デイということになる。このおめでたい日に表敬訪問しないわけにもいかないだろうと思った私は、十三日の午前三時に府中の自宅を出発し、中央高速道に上がるとひたすら安曇野目指して走り出した。甲府昭和インターチェンジを通過する頃には東の空が少しずつ明るんできて、周辺の山々が次々に美しい輪郭を浮かばせはじめた。路肩に車を寄せて後方を振り向くと、前衛の山々越しに、いましも眠りから覚めようとする富士の姿が望まれた。
  残雪を戴く八ヶ岳連峰を右手に、甲斐駒ケ岳の白く鋭い稜線左手に見ながら、小淵沢をいっきに走り抜け、五時少し前には諏訪湖パーキングエリアに到着した。ちょうどそのとき、斜め後方に大きく位置を変えた八ヶ岳連峰のなかほどから、少し滲んだ感じの太陽が昇ってきた。
  ――天候にも恵まれていることだから、高ボッチ山に登って山岳風景を眺めていかない手はないな。今回の穂高行きはあくまで表敬訪問で先を急ぐこともないから、ここは脇道行を楽しむにかぎる――そう思いなおした私は、岡谷で高速をおり国道二十号伝いに塩尻峠へと上がった。そしてそこから高ボッチ方面入口に通じる旧中山道に入った。高ボッチ方面入口まではわずかな距離にすぎない。だが、車一台がやっと通れる急坂の細道は深い林に覆われていて、旧道特有の風情がいまもなお残っている。「熊出没につき注意」などという警告板も立っているが、残念なことに、まだここで熊に出遭ったことはない。
  高ボッチ山頂へと続く道に入り、山頂から少し下ったところにある牧場入口に着くまではすこぶる順調だったのだが、それ以上は前進できなくなった。路面が深く固い残雪に覆われ、チェーンを巻いても到底歯が立たなかったからである。例年なら三月末か四月初めまでには山頂直下の駐車場まで上がれるようになるのだが、まだ大量の残雪があるところからすると、今冬はやはり異常に雪が多かったのだろう。前方三十メートルほどのところには除雪作業用のブルドーザが道を塞ぐようにしてぽつんと一台置かれていた。下のほうから少しずつ除雪を行いながら、ここまで上がったきたものらしい。
  先客があるみたいで、牧場入口脇のスペースに一台ワゴンが駐められていた。私もそこに車を置き、残雪を踏みしめながら頂上へ向かって歩きだした。午前六時頃のこととあって、山の斜面沿いに吹き降ろす風は、残雪の表面を覆う冷気を吸って身を刺すほどに冷たかった。だがそれにもかかわらず、一帯の凛とした雰囲気に身も心も引き締まる思いではあった。あちこちを覗き見ながらゆっくりとしたペースで三十分ほど歩くと、高原状の山頂に着いた。山の写真を撮りにきていた先客二人とは途中ですれ違ったので、頂上に立ったときには他に人影はなかった。
  朝日の光は爽やかそのものだったのだが、晴天の割には視界全体が霞んだ感じで、期待していたほどの展望を楽しむことはできなかった。大気が澄んだ日にはよく見える富士山や甲斐駒も、さらには木曾の御岳や白馬連峰も霞みの向こうに姿を隠したままだった。西方の乗鞍、槍、穂高と、東方の八ヶ岳だけはよく見えていたが、それらの景観にしてもいまひとつ物足らない感じだった。
  仏滅のおまけまでついたこの十三日の金曜日は、我が身にはやはりアンラッキー・デイであったのか……。そんな愚にもつかない思いにひたりながら山頂を辞した。そして車のところへと戻る途中、残雪の一部が溶け出し、路面全体を覆うようにして流れているところに出た。溶け出した水が朝の陽光を浴びて透明に輝いている。綺麗な水だし、水深は精々二、三センチほどだからザバッと靴ごと中に踏み込んでも問題ないと軽く考えた。そして勢いよく水中に足を踏み入れたのが悲劇のもとだった。
  次の瞬間、私の身体は斜めになって宙に浮き、右体側部を下にしたまま、ガツーンという鈍い音をたてて路面に激しく叩きつけられた。反射的に身体を右にひねったので辛うじて背中や後頭部を打ちつけるのだけは避けられたが、そのかわりに、右肘と右腰骨とに落下にともなう衝撃のすべてを被ることになってしまった。何が何だかさっぱりわからないままに、私は必死に歯をくいしばり、右腕と右腰一帯に走る激痛にしばらくじっと耐え続けた。
  痛みをこらえながらなんとか立ち上がり、足元をしげしげと眺めてみると、溶け出した水に見えたものは、なんとガチガチに凍りついた透明な氷であった。若い頃幾度となく冬山や融雪期の春山に登ったことのある身なのだから、凍結しているんじゃないかと警戒心を懐いてしかるべきだったのだが、陽光に騙されついつい軽率に振る舞ってしまったのだ。
  それから二日ほどは肘も腰もかなり痛んだ。いまでも右腰にはかすかに鈍痛が残ってはいるが、不幸中の幸いというか、そのまま動けなくなったり、骨に異常をきたしたりする事態にはいたらなかった。厚手のセーターの上にしっかりとした防寒用のダウンを着込んでいたので、それがクッションとなってかなり衝撃が吸収されたからなのだろう。
  ――うーん、これはどうやら十三日の金曜日の祟りらしいな、いやもしかしたら、道草を楽しんでいる私に向けられたドラキュラ翁の祟りかな――自嘲気味にそんなことなど呟きながら、ゆっくりと歩いて車のところまで戻ると、先客の二人もまだその場に残っていた。氷に足をとられてひどく身体を打ってしまったと言うと、驚いたことに、その二人もまったく同じ目に遭ってしまったのだと、笑いながら話してくれた。彼らのひとりなどは、大切な撮影器具を入れたザックごと凍結面に激しく叩きつけられ、機材の一部を損傷してしまったとのことであった。意外にも被害者は私だけではなかったのだ。
  痛む身体を休めながらしばし仮眠をとろうと思い車中で横になると、そのまま四時間ほど眠り込んでしまった。目が覚めたのは十一時過ぎのことだっだ。外気温もずいぶんとあがり、差し込む陽光のため車中は暑いくらいになっている。歩行には差し障りはないほどに腰の痛みもおさまったので、車外に出て周辺をまた少し散策してみた。いつのまにか除雪作業員がやってきていて、ブルドーザを動かし除雪を進めているところだった。
  ちょっと声を掛けて話を聞いてみると、やはりこの冬は異常に降雪が多かったという。松本周辺でもたった一晩で七十センチもの雪が積もった日もあったらしい。山頂駐車場までの道路の除雪はいつまでかかるのかと尋ねると、翌日の昼頃までには作業を終える予定だとの返事だった。どうやら一日だけ早過ぎたということらしかったのだが、その一日違いのせいでずいぶんと痛い目に遭ってしまったわけである。
  高ボッチからの帰途、道路脇に動物の遺骸の一部らしいものが散乱しているのを見つけた。なんだろうと思って近づいてみると、それらは、大きな背骨の一部と、どこのものとも判断し難い半乾きの毛皮の断片、そして、まだ蹄と毛がついたたままの二個の脚部だった。手にとって観察してみると、二個の脚部はどちらも後脚の大関節から先の部分であった。色や形から推測すると、どうやらそれらはこの周辺に棲息するカモシカの遺骸の一部であるらしかった。一見したところ鹿のそれにも似ているが、残された毛皮の毛はかなり長めで毛色もずいぶんと黒味を帯びており、鹿のものとはかなり違っているように思われたからである。
  山の斜面の雪に埋もれていた遺骸が雪崩などで押し流されて路上に落ち、大型の車かブルドーザに何度も轢かれてそのような状態になったものなのか、それとも、何らかの原因で息絶えたあと、他の動物に食べられたり自然に腐食したりしてそうなったものなのかはわからなかった。いささか躊躇いも覚えはしたが、珍しいものには違いなかったので、物好きな石田翁へのお土産代わりにと思い、二個の脚部と毛皮一個を大きなビニール袋に入れて車に積み込んだ。そして残りの背骨の一部や他の小片はすぐそばの林の中に埋めてやった。

  高ボッチ山を下りると、塩尻経由で松本に抜け、安曇野の西端を南北に走る広域農道に出た。松本盆地周辺はちょうど桜の花が満開になったばかりだったので、東京で行く春の舞い散る桜を惜しんだあと、もう一度盛りの桜を見物できるという幸運にも恵まれた。穂高町へと向かう途中の三郷村、堀金村一帯の畑地からは、北アルプス連峰の西斜面沿いに吹き降ろす乾いた強風に煽られ、猛烈な土埃が舞い上がっていた。その付近の上空が黄色に霞み、前方の信号がよく見えないほどの激しさだった。
  その凄まじい土埃の中を走るうちに、私は子どもの頃に幾度となく体験した春の黄砂現象のことを想い起こした。鹿児島県の西方海上に浮かぶ甑島は、春になるとしばしば濃い黄色の霧のようなものにすっぽりと覆われ、晴れていても太陽が見えない日が何日も続くようなことがあった。お隣の中国の内陸地帯で高く吹き上がった大量の砂漠の砂が、西風に乗ってはるばる九州一帯の上空にまで運ばれてくる。それが黄砂現象のメカニズムだと小学校の理科の時間に教わったりもしたものだ。
  途中で昼食をとったりしたので、表敬訪問先の石田宅に到着したのは午後二時過ぎであった。東京から手土産に持ってきた虎屋の羊羹だけを先に手渡し、車の中にもうひとつ変わったお土産があるのだがと伝えた。ただの土産ではないなと察知した石田翁は、訝しげに私の様子をうかがいながら、「あんたの考えることだから、またどうせロクなシロモノじゃないんだろう?」と問いかけてきた。
  ドラキュラ翁の異名をもつとはいえ、相手は八十五歳になる老人である。いきなり実物を取り出して驚かすわけにもいかないと思い、正直に、それは高ボッチで拾ったカモシカの足の先端部だと告げた。すると、石田翁の口からは、「いやあ、それだったらもう遠慮することにするわ。以前だったら喜んで飾り物かなんかにしたんだけどね」という予想外の返事が戻ってきた。さしものドラキュラ翁にも近頃になって心境の変化が起こってきたものらしい。
  シャーロックホームズ物をはじめとし、長年にわたって海外の様々な推理小説を翻訳してきた関係で、石田翁には、動物の遺骸の一部を見たりすると、その全体像やそこに至るまでの悲惨な背景にあれこれと想いをめぐらす習癖があった。その習癖が歳をとるにつれてマイナスに作用するようになり、近年では生き物の死骸を目にしたりすると、心穏やかではおれなくなってしまうらしいのだ。意外なことだが、どうやら、仏心、いやキリスト心がドラキュラ翁の体内に芽生えはじめたもののようだ。
  いささかの計算違いに戸惑いを覚えはしたが、ともかく問題の土産物は車中に残したままにして、まずは表敬の挨拶をすませることにした。十三日の金曜日の石田翁への対応の仕方にもそろそろ趣向変えが必要なのかもしれないなという思いが、一瞬胸の奥をよぎっていった。



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