「マセマティック放浪記」 2001年4月4日
Mathematics Odyssey April 4, 2001
辰野町門前の想い出

  蛍で知られる長野県辰野町を先日たまたま通りかかったときに、久しく忘れていたある懐かしい想い出が突然脳裏に甦ってきた。もしかしたら、単に懐かしい想い出などというよりは、いまの時代にはもはや得難い、一風変わった貴重な想い出とでも言ったほうがより適切なのかもしれない。
  長年の知人のひとりに小野富男さんという山形出身の歯科医がいる。現在神奈川県相模原在住のこの小野さんが、いまから二十数年前、長野県辰野町の門前という集落にある元養蚕農家の大きな空き家を屋敷の一隅にある古い蔵ごと購入した。歳月の重みを感じさせるその家屋と屋敷とを別荘代わりに用い、周辺における野外活動の基地としても最大限に活用しようというわけだった。小野さんにすれば、故郷の風物にどこか重なるところのあるその地の自然や屋敷家屋のたたずまいが気に入ったということでもあったのだろう。門前から車で一走りしたところに小野という集落があることなども、偶然とはいえ不思議な縁ではあった。
  門前集落は横川というかなり大きな川の中流に面している。横川は天竜川の支流小野川のそのまた支流になっていて、その上流の深い谷筋には渓流釣りや紅葉で知られる横川渓谷などがある。この渓谷の最奥部は中央アルプス連峰北端に位置する二二九六mの経ヶ岳山頂直下にまで及んでおり、アプローチルートも横川伝いに遡行するか、徒歩で経ヶ岳を越えて降りてくるかの二つしかないから、一帯はいまでもなお昔のままの自然がほぼ手つかずで残されている。だから、山の恵み、川の恵みが豊かなことこのうえない。
  このところずっとご無沙汰のしっぱなしなのだが、以前はよく小野さんに誘われて門前を訪れ、不思議な存在感のあるその屋敷に滞在し、一帯を散策したものだ。まだ子供たちが小さかった頃、我が家とほぼ同じ年ごろのお子さんのあった評論家の芹沢俊介さん一家を誘い、ともに過ごした懐かしい想い出などもある。もともとが養蚕農家の家屋だったこともあって、土蔵のほか、屋根裏に倉庫を兼ねた大きな隠し部屋があったり、おもわぬところに地下室が設けられたりしていて、子供たちもちょっとした探検気分などを味わっていたようである。
  当然、トイレは昔ながらの汲み取り式になっていたから、我が家の子供たちにも肥え柄杓をもたせて糞尿の汲み取りや肥え桶運びの手伝いをやらせた。半農半漁の離島の村で育った私にとっては下肥運びや堆肥造りなど日常茶飯事に過ぎなかったから、それ自体なんの抵抗もなかったが、子供たちのほうも、屋敷内の野菜畑に運んだ生肥えを土に撒く作業などを、時折生じる飛沫にひるむこともなく結構楽しんでいたようである。いまはすっかり成長した彼らにとってもそれは貴重な体験だったに違いない。そのほかにもナタをふるっての薪割り、池の掃除や水換え、煙突の煤とりや屋根瓦の補修、周辺の草刈、庭木の手入れや落ち葉の清掃など、いろいろとやることがあったが、適度の運動や気分転換にもなってそれらを面倒に感じることはほとんどなかった。
  土間の奥にある昔ながらの木桶の風呂もなかなに味があった。大きな鉄釜を用いた五右衛門風呂なら子供の頃に田舎で慣れ親しんでいたから、懐かしく想うくらいで終わっただろうが、本格的な木桶の風呂に入浴するはその時がはじめてだったので、なんとも興味津々であった。身体を沈める主浴槽ときれいな上がり湯を溜めておく小さな湯槽とにわかれているのも面白かったが、もっとも興味を覚えたのは風呂釜部分の構造だった。実にシンプルでしかも合理的にできていたからである。
  その構造を大まかに述べると、口径が三十センチほどの銅製の大きなL字管があり、短いほうの銅管端は風呂桶の外に出ていて、それが燃料の焚き口になる。いっぽうL字管の主軸にあたる側の長い銅管は浴槽内の隅のほうを垂直に貫くようにして配され、その上端部は十センチ前後の口径に絞り込まれて直接煙突にしっかりと接続されている。要はそれだけのことで、銅製のL字管が風呂釜そのものというわけなのだ。
  風呂の沸かしかたも簡単そのものだった。まず、風呂桶の浴槽部に水を張り、上がり湯用の小水槽にも水を入れる。そして、焚き口にあたる短いほうの管口から適量の新聞紙や柴などの焚きつけ材を入れて火をつけ、火勢が少し強くなったところで主燃料材の薪などを垂直方向に立てたままの状態で差し込んでやるのだ。その気になれば一メートル、二メートルの長い木材でもそのまま立てて燃やせるというわけで、安全なうえにほとんど場所もとらない。
  実際にやってみると、すぐに火はつき、あとから差し込んだ薪などもごうごうと音を立てて驚くほどによく燃えた。面白いのは、焔も煙も焚き口のほうにはまったくあがってこないで下向きに移動し、L字管の底部をくぐり抜けて浴槽内の管ほうに流れることである。要するに、煙突内に強い上昇気流が起こるため、焚き口のほうからはどんどん新鮮な空気が吸い込まれるかたちになるから、燃焼効率もよいうえに、風呂を焚いている人が煙たい思いをしたり、うまく火を燃やすためによけいな苦労をする必要もない。いったん薪などが燃えはじめたら、適宜燃料を補給する以外は安心して土間での薪割りその他の作業に専念しておればよいわけだ。
  もちろん、浴槽内の水は煙突につながっている側の銅管の発する熱によって温められる。一応は入浴者の身体が直接銅管に触れないように簡単な仕切り格子が設けられているが、五右衛門風呂の場合と同様に入浴中直接に身体の一部が釜に触れても火傷を負うことはない。比熱の大きな水が比熱の小さな銅管の熱をどんどん吸収してしまうから大丈夫なのである。
  燃焼効率がよいから当然風呂が沸くのもはやい。火加減のほうはどうやって調整するかというと、これがまた実にうまくできているのだった。なんてことはない、焚き口に重めの蓋がついていて、それを適度に開閉し空気の流入量を増減してやればいいだけのことなのだ。焚き口の外まで出るような燃料材があるときはそれを抜き取るか、切り折って深さ六十センチ弱の外側銅管内におさめるかして、そのあと完全に蓋を閉めれば火は消えてしまう。弱火にしておきたければちょっとだけ蓋を開けておけばよいし、再び火勢を強くしたければ蓋を大きく開けばよい。
  実際に何度もやってみたが、自由自在に火加減を調整できるのだ。浴槽に入ったままでもちょっとだけ身体を伸ばしさえすれば自分で湯加減をコントロールすることもできた。L字管の底部に溜まる灰や燃えかすなどは、もちろん、焚き口側の底部についている小さな掻き出し口から除去できるし、燃焼度が高いために燃えかすの量などもきわめて少ない。いつの時代に誰が考え出した風呂釜なのかは知るよしもなかったが、実に理にかなったその構造に私は唯々感心するばかりだった。
  その頃まではまだ信州一帯のあちこちでこの種の風呂釜が使われていたようなのだが、国内の津々浦々までが化石燃料主体の生活に変わってしまった現在では、もうその姿を目にする機会はほとんどないだろう。まして、ダイオキシン騒動以来、そう大きな影響があるとも思われない天然木材の燃焼などにも過敏な拒否反応を示す人の多くなった昨今では、それはもう完全に忘れ去られた存在に違いない。この大変ユニークな桶風呂などはどこかの民俗資料館や民具博物館に収蔵されてもおかしくないと個人的には思ったりもするのだが……。小野さんの屋敷の風呂は、手入れが十分でないまま使わずに長らく放っておかれたため、残念ながらいまでは使用不可能になってしまったと聞いている。
  小野さんと門前の屋敷に何度も通ううちには様々なことがあったが、高い軒の下側にスズメバチがつくった巨大な巣を取り除いたのも懐かしい想い出の一つである。厳しい冬がくるまでそのままにしておけばいずれはハチがいなくなり巣だけが残るので、その時にそれを除去すればよいことはわかっていた。だが、ブンブンと大きなスズメハチの群が飛び回り、作業中に刺されかねない事態になったので、やむなく巣を取り除いてしまおうということになった。
  悪ガキだった当時、野山の藪地をさんざん駆け回っていたせいで、スズメハチやアシナガバチの類には何度も刺されてずいぶんと痛い思いをしたものだ。ハチに襲われた直後にサツマイモの蔓の根っこに近い部分を切り、切り口から滲み出る白い液体を刺された部分につけるか、あまり奨励できはしないが、自分のオシッコをちょっとだけつけるかすればよいことなども、誰から教えられるともなくその頃学んだものだった。もちろん、いまと違って虫刺されに効く薬がどこでも自由には入手できない時代のことだから、少々野蛮でも仕方がなかった。
  自分のオシッコが出なかったとき他人のそれをありがたく拝借した記憶はさすがにないが、小学生の頃、一緒に遊んでいた歳下の男の子が何箇所もスズメハチに刺されたとき、「イタカイヨウバッテ、アッカア、モーチット、キバレヨォ!(痛いだろうけど、お前は、もうちょっと、我慢しろよ!)」と島言葉で励ましながら、無理やり排出した自分のオシッコの何滴かを素知らぬ顔でその子の頭や手につけてやったことはある。もちろん、謎の液体中のどの成分がどのように作用して痛みや腫れを抑える効果があるのかなどという高等な化学的知識などあろうはずもなかったし、そもそも効き目のほどにもいまひとつ確信はなかったのであるけれども……。
  まあ、そんなようなささやかな経験の積み重ねの結果、夜になると巣に戻って深く眠り込むというスズメハチの習性を熟知していたから、巣の除去そのものにはそう苦労はしなかった。深夜ハシゴを掛けて高い軒下にさがるスズメハチの巣のところまでのぼり、丈夫で大きなビニール袋ですっぽりと巣全体を覆い包み、巣の付根のところで袋の口を絞って何重にも外から紐を巻きつけ、スズメバチ王朝の一族郎党どもを完全に袋の中に封じ込めてしまった。そばから懐中電灯で照らしたくらいではスズメバチは目覚めたりしないから度胸と決断力さえあればどうということはない。
  最後の仕上げは、巣の付根を軒から切り離すことである。かなりの重さの巣が強風にも十分耐える強度で軒の太い垂木にぶらさがっているわけだから、付根は頑丈そのもので、手の力でもぎとれるほどやわくはない。いったんハシゴを降り、ノコギリを持って再度巣のところにあがりなおし、巣の付根の最上部をゴシゴシと引き切った。想像以上に固くしっかりしていて、細めの丸太を切るくらいの時間と労力が必要だった。スズメバチどもにすれば降って湧いた天災もいいところで、なにがなんだかさっぱりわからなかったに違いない。
  厳冬期の吹雪の夜遅くに門前に出かけたときときなどは、路面がガチガチに凍結してしまっていたためチェーンがまったく役に立たず、まるで車ごとスケートをしているような状態に陥り危うく横川に転落してしまいそうになってしまった。当時のワゴン車は馬力も小さくまた現在のような四輪駆動車でもなかった。しかも、ワゴン車はエンジンが前部にある関係で車全体の重心が前輪側に片寄っている。そのため荷物を積んでいない場合には後輪の駆動輪にかかる車重が軽く、たとえチェーンを巻いていてもひどく凍結した路面では簡単に後部が左右に横滑りし、いわゆる尻振り状態になってしまうのが常だった。まして門前のあたりは標高が七百メートルほどはある内陸の山間部で、当時は道も狭く車の通行もほとんどないところだったから、いっそう状況は悪かった。
  ようやくのことで門前の屋敷前に辿り着き車を庭に入れようとしたが、狭い道路の一面には厚い青氷が張りつめていて、どう足掻いても駆動輪がスリップを繰り返すだけでまるで動きがとれなくなった。なんとかタイヤ付近の氷を砕こうとして車から取り出したツルハシを思い切り振り下ろすと、なんと驚いたことに、カチーンという乾いた金属音がして先端部から火花が走った。ツルハシで岩を穿ったりすると火花が散ることは知っていたが、まさか氷を穿っても火花が散るとは考えてもみないことだった。
  この小野屋敷にまつわる数々の想い出の中できわめつけは土蔵にまつわる悪戯話なのだが、こちらのほうは少々度が過ぎていたかもしれない。小野さんも私も根は相当な悪戯好きである。そんな二人が本気になって知恵をしぼり珍計を案じたのだから、ちょっとやそっとのことで事が収まろうはずがない。何も知らない人がいきなりそのシロモノに遭遇したらその場で卒倒してしまいかねない、凝りに凝った細工を我々は蔵の中に仕掛けたのだった。



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